光の方へ

よく利用する道すがらに葬儀会館があり、普段は無人のようだが、時折、明かりが灯り、家名が書かれた札が掲げられる。ここ一、二週のうちでも二ないし三件程そういった日があった。帰路、必ず通る道であるから、自ずと見遣る。(今日も誰かが)と、目に見えたものを、目に見えたままに心で呟く。その時はそこに書かれている家名が目に入ってくるが、じきに忘れてしまう。けれどもそこに死があったという本質だけはほこりの如く心の隅に溜まってゆく。これが積み重なってゆき、何れ自己の人格に影響を———本人もさとれぬままに———及ぼすことになってくるとすると、これは或る種寄生虫の如き恐ろしい自立性を帯びることになるのではないか。
「人はそいつの食ったモンで出来てる」
昔、職場の先輩が好きな作品のこの台詞をよく口にしていて、妙に心に残っていたのだけれど、年を追うごとにその実感がゆっくりと力をもってきた。当時とりわけ感銘を受けた訳でもないのに、付箋の様に心にあり続けたのはしつこいほど繰り返してくれた先輩のおかげでもあり、理屈を超えた本心の察知能力でもあるかもしれない。
食ったものがその人をなす。その摂取は身体的には食事であるけれど、食物 / 身体の関係性の如く、知識 / 精神と、同じ構造なのかもしれない。人はそいつの知ったモン ——— すなわち脳が食ったモンで出来てるのだ。
死を恐れるあまり、死に惹かれる。病を恐れ、病に目が行く。そうするうちに侵されていけば、取り込まれ引き寄せられていく。最初の爪弾きは自らの意志だった筈なのに、それ以降は蠕動ぜんどう運動の様に、良い悪い双方の、然るべき場所に ”導かれてしまう” 。
であるならば、この取り込む地点のみが意志の関わる、最初にして最後の瞬間であり、意識下に置ける領域である気もする。
五感に飛び込んで来るありとあらゆる情報が———入口は自覚的であったにもかかわらず———いつの間にか無意識の領域、意識の背景で、操作してくる。鼻で笑った占いの結果が妙に心に燻り続けたりするし、もう何の意味もないのに道を違えたかつての女性の誕生日をいまだに思い出したりするし、なんとなく気になって調べた病気の兆候が松ヤニのようにべったりと頭から離れない。自分の手綱を振りほどく、自分の意識。
そう考えると(夢の中さえ作動している)”知覚する” という事が、如何に恐ろしく、慎重にならなければならない事か。そして、目指すべき点から線を引いて、逆算的に 、そして”自覚的に” 情報を取り込まねば、恐ろしいことになる。漫然とヽヽヽ死に関わるものを見るべきでは無い。言語化すらされないあくたが、いつしか無意識下でうねり狂う怪物の様になり、食い殺されるかもしれない。

意識は、意識した途端、意識したものと同じくらい意識してないものも生み出す。

だからこそ、できるだけ光の方へ。光の方 光の方へ。


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