『ひとり』
横断歩道にて。信号待ちをしていると、左折の車が目の前を横切り、横断中の歩行者のために目の前で一旦停止をする。目線の高さに待ち構えていたかの様に助手席の少年が飛び込んで来る。ちょうどガラス越しの面会といった趣きになる。少年は車という私的なものとしての空間で大きに気を緩め剽軽な表情をしていたのが、風景の中から突如として現れた他者を認め、ばつが悪そうに表情を慎重に ”少し” 戻した。咄嗟に、慌てて表情を戻す恥ずかしさと全く変えないことの勇気を天秤にかけたのだろう。こちらも暗黙の礼儀の如く、表情を変えず、視線を外す。
図書館にて。隣に座った人物が何やら紙を裂いている。何かの用に駆られてのやむなきことなのだろうが、場所柄、自分の耳は殊更その音を粒立てて拾ってくる。図書館に於ける紙を破く音は、銃声に値する不穏さを伴う。静かな空間だけに尚更に。偶に何の躊躇もなく次々と紙を破く音を立てる人もいるが、自分とは根幹の規範が決定的に違うのだなと、全く別な生き物の様に感じる。けれど今回の隣人は自分と同じ世界に生きる人なのだと感じ取れた。少しずつ、ゆっくりと注意深く———静かであろうと努める者の立てる音の配列だった。
表情は勿論、物音にさえ感情が宿り、それを読み取れるのだなと思いながら配慮された音を聞く。
感情の問題———それが如何に厄介で難解な問題であるかを最近は特に感じる。判断は努めて客観的に、論理的に下されなければならず、そこに感情を交えてはならない。概ねの決断はこうあるのが望ましいと思う。けれど自分も含め、それが如何に難しく、そして為されていないか、感情の隔離が如何に困難であるか。大人になっても感情がいともたやすく論理を凌駕する場面を何度も見てきた。
仔細に見ていけば、その困難さは言語そのものが宿命的に有している性質に因る部分も大いにあると思う。言葉を用いて相互に考え、ある意味その総体が社会とも言える中で、各人が思い思いに、その最小単位である単語一つ一つに漠然とした印象、雰囲気のようなものを殆ど無意識に付与してしまっている。そこに齟齬が生じる。
最近とみに痛感する事の一つに ”言語の厳密な使用が如何に困難であるか” という事がある。論理などをすっ飛ばして多くの人は直感的に「自明の理」としている「当たり前のこと」をいざ説明するとなると、途方もなく言葉を費やし、どうしても難解になってしまう。赤の赤らしさを盲いた人にどう説明すれば良いだろう。
「弱い」という言葉には負の属性が備わっている。けれどその言葉を以てしか表現できないものがある。「彼は時折弱さを見せる」———如何様にも受け止められ得る、とても危うい言葉だけれど、特に会話ではその詳細を待ってはくれない。文章であっても或いは意図的、戦略的に伏せられるかもしれない、或いは大枠では同じ捉えられ方だったとしても、角度が一度違うだけでその差は将来凄まじい懸隔となる。
「弱さ」という言葉を用いたが故に聞き手側が不快感を抱き、感情がその全てを覆ってしまって(それが感情の恐ろしさでもある)、全ての言葉が負に傾いてしまうこともあるだろう。判断は論理的に、客観的に、公平にとは皆宣うけれど、快-不快や好悪の感情は無視出来ない。好悪、殊に極端な嫌悪は閾値を超えると殆ど無意識的、本能的に作用するようになってしまう。
この言葉は良い意味で、この言葉は悪い意味で、この言葉は一見良い言葉ですが皮肉的に使っています。この言葉は露悪的な意味を込めて、少々大袈裟な言い回しであり、もっと言えば今あえてその言い回しをする少年性、そこから転じて純粋性も含めています。正確さを求めるならば、全てに注釈を付け、時には注釈の注釈も必要になってくるだろう。これはこれで一向に進まなくなってしまったり、また別の袋小路に迷い込んでしまう。
言葉には感情を判断に織り込むよう仕向ける性質がある。それを如何に取り払えるか。それを念頭に置くだけで随分と変わってくる気がする。
具に見るほどに、この世界が成り立っているのがほとほと不可思議で奇跡のように思えてくる。では何を以てこの言葉による不確実さや危うさ、脆さに対抗しているのだろうと考えてみると、閃くように浮かんで来たのは "真剣に取り合わぬこと" だった。
我ながら身も蓋も無いけれど、正鵠を射ている気がして可笑しくなる。身銭に関わる、火の粉が身に及ぶ時、人は真剣になるけれど、遠く異国のお粗末な事件には、たとえ殺人であっても、笑っていられたりする。焦点を緩めて、見ることもなく見る感じ、とろんとした眼差し———そこに詳細はなく、具体性は帯びない。ここに至って、やはり想像力の問題になってくる。
そしてその想像力を担保するものは何か。それは孤独(単独)であると思う。他に流されず、阿らない。それは自己の純度を高めること。そこに当事者感、具体性が生まれる。
登山をした時、こちらから挨拶をして返ってこない場合は、須く集団であるのに気付き、興味深い印象として残っている。そこには集団の中へ当事者感が埋没した、真剣に取り合わぬ個がある。それは時に心地良い。そしてそれを打破するのが一人であること、だ。