見出し画像

8月の空気

今年もお盆の季節が巡ってきた。

灼けるような空の下、蠟燭に線香、仏花を手に墓に参る。折畳式の雨傘を日傘代わりに、茹だるような熱風を全身に纏いながら墓までの道のりを歩く。年々厳しさを増す酷暑の傍らで、お盆の時期が帯びるどこか厳かな雰囲気は変わらない気がする。


自分はお盆の時期が好きだ。


墓前の花立てに水を湛え、仏花を挿す。蠟燭と線香に火を灯してくゆらせる。ゆるりと線香が香りだす。家族一同が手を合わせる。この風景が、この香りが、自分にとっての「お盆」だ。


一分にも満たない時間だが、手を合わせている間の時間にある静謐さがきっと好きなのだと思う。

派手さは微塵もなく、ただただ蝉による騒がしくも儚い一夏の叫びが木霊する。それでも手を合わせている間は仮初の静寂が訪れる。これでいい。これがいいのだ、と思う。先祖や両親、伯父伯母と自分という世代が異なる人間が同じ場所で同じ一時を共有するのは尊い行為であり、これが墓参に見る自分の「意味」だ。

また、仮初の静寂が訪れる一方で、お盆の時期は一年で一度だけ墓前が賑やかになるときだ。片や家系が途絶えたのか疎遠になったのか、後裔に参られず墓という「役割」を保持しながらも「意味」を喪失してしまった他家の墓もある中で、自家の墓がお盆仕様に衣替えする様子は、どこか侘しさと誇らしさが同居する瞬間だ。


今年も無事に参れて良かった。


8月といえば、お盆のみならず「戦争」という色を帯びる月でもある。8月6日の広島への原爆投下、9月の長崎への原爆投下、15日の終戦記念日と続く先の大戦について想いを馳せる時期に世間は入る。

自分はこの世間に漂う空気感が酷く嫌いだ。


無論、過去を振り返ることは先の人生を歩むうえで肝要なことだとは思う。当時を生きた人々、それこそ先祖を偲ぶことは深く意義のあることだろう。

ただ、まるで思い出したかのように毎年この時期になると、沈痛な面持ちで過去に対して頭を垂れる人々の姿が新聞やTV、SNSに軒並み踊る。その様子は人形や機械のようで、違和感を禁じ得ない。機械的な所作は、している当人たちは至って真剣なのだろうが、端から見ている者にすれば違和以外の何物でもない。

また、まるでそうすることがプログラムされているかのように新聞やTVでは戦争特集が組まれ、モノクロの映像や特攻隊員の手記などが「利用」される。

ひたすらに頭を垂れ、過去に罪の意識を持つように国民一人一人に刷り込む。さながら洗脳のようで自分は反吐が出る程に嫌いだ。過去は過去として受け止め、反省すべきは反省し評価すべきは評価する。これが本来の適切な有り方であろうと思う。押し付けがましく徒に「反省し続けろ」などと新聞社やTV局風情に御高説賜る筋合など毛頭ないのだ。

抑々、戦争は日本の専売特許ではない。

毎年の如く反省だの罪の意識だのと、正直うるさいとさえ感じる。盆の時期だぞ。慰霊くらい静かにさせろというのだ。


殊更に「戦争」という言葉を持ち出し、それを「反戦非戦」「贖罪」という意味でコーティングする。我々の先祖はその手を血に染め、筆舌に尽くしがたい過ちを犯したのだと、迂遠な表現を様々用いて先人たちを貶める。これではお盆の「意味」も台無しだろう。


お盆の時期にあって、少なくとも自分は「感謝」のために手を合わせるのであって、「贖罪」のためではない。


世間は厳しい暑さにその頭をやられてしまったのだろうか……


8月は、なんとも「ちぐはぐ」な月だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?