うまい酒は旅をしないが、舌の味覚は旅をする
キングオブポップはマイケル・ジャクソンだが。ではキングオブホップは?それも、マイケル・ジャクソンだというほんとにややこしい話がある。そのビール評論家として知られるマイケル・ジャクソンよって、モルト・ウイスキーについて書かれた本書、『モルト・ウイスキー・コンパニオン』も外すわけがいかない名著である。ここに飲むは飲んだ800以上のモルトのテイスティング・ノートが掲載されている。
私は、もちろん本書の魅力について存分に語ろうと思っていた。だが、この本のなかで書かれているアイラ・ウイスキー、ボウモア、ラフロイグについて村上春樹氏は「もし僕らのことばがウイスキーであったら」のなかでどう書いているか興味を持ったのである。同じような意見であれば村上氏もまたそのような感想を抱いていると書けばよいし、また、多少、ずれがあるならばその違いを書くこともまたそれで面白いじゃないかと思ったわけである。
だが、私は、それほどページ数があるわけではないこれを一気に読み返えして、思惑とはまったく違う部分に気持ちが持っていかれたしまったのだ。
そして、私も、ここで村上さんが書かれたと同じような体験をしている。というか、それはあまりにも、ここで村上さんが書かれた光景と酷似している。
赤羽の名居酒屋で私の隣に座った小奇麗なジャンパー姿の痩せて小柄な年配の男性、カウンター座るなりその男性の目の前には無言で一合の日本酒がおかれる。それに顔を近づけ静かに口ですする。これまた無言でおかれたエシャロットに味噌をつけ口に入れる。そして、また日本酒をすする。店内テーブルはほぼ埋まりかなり大きな声で話をしてるテーブルもある。しかし男性はそんな喧騒をおかまいなし、まるで大海原の真ん中で揺れる一本の枯れ木の上にのった渡り鳥のように。そう、そこにも、見事とまでいえる、完全なるくつろぎの姿がそこにあった。
そして、私はこの光景は、この世界、何処に行ってもあるような気がしてならない。赤羽の居酒屋で大山を飲む老人、ロスクレアのパブでタラモア・デューを飲む老人、さらには、ブエノスアイレスのバーでキルメスを飲む老人・・・。
ここにある風景は、恐ろしいほど全世界共通化している。まるで、申し合わせたかのように。それら老人の肩にのった空気の塊や、そこにある呼吸、何か、これはもう儀式に近いような気がする。
そう、結局、お酒はその土地、土地で。その土地のうまい酒を飲んでいればいいんじゃないか、そんな気持ちがどこからともなく舞い降りてくる。
村上さん自身も、よく言われる「うまい酒を旅をしない」を引用して、酒というのは、それがどんな酒であっても、その産地で飲むのがいちばんうまいような気がする、とも語っている。
かって、私も先輩に連れられて都内のバーでアイラ・ウイスキーを試したことがある。
私の雑駁な感想で申し分けないが、何か、異国の港街、シーズンオフのリゾート地を、その香り、アロマ、味からイメージした。村上さんも、磯くさい、潮っぽい、という表現をされているので、自分の感想もそのあたりからきているのではないかと推測する。
この時、私が思ったのは、これは数回繰り返しているうちに、私はきっと、アイラ・ウイスキー党になるなという思いであったのだ。
「うまい酒は旅をしない」かも知れないが、なぜか、人間の舌、味覚は旅をするのだという思い。
その時、アイラ・ウイスキーを試した時の、グリーン、スムース、なめらかな麦芽風味。甘く、シェリーの特徴。しゃきっとして葉っぱのようになり、次に海の塩っぽさへと変わっていく。ボウモアMarine15年、M・ジャクソンのコメントに及ぶべきものはないが。異国の港街、シーズンオフのリゾート地と感じた私のそれは、日本にいながら、間違いなく、舌、味覚は旅をしているのだということに気づく。
さらには、その舌、その味覚は、場所を旅するだけにとどまらず、過去の歴史まで遡り旅することができるのだ。ボウモアMarine15年、アイラ島のその15年間の歴史を・・・。
ロスクレアのパブでタラモア・デューを飲む老人、きっと、その老人は、舌と味覚でタラモア・デューを味わうとともに、自身とともに生きたその長い年月をともに再び味わい返しているのだ。若き頃の日々を・・・。
そう、これらは、もすごく贅沢な時間についての話なのかも知れない。
そして、そう、これこそ儀式と呼ぶにふさわしいものではないだろうか。