薄氷を渡る家族
母の死を通して、家族を恨んでいるんだ。
誰しも、自分の近しい人には期待をかけてしまう。
昔、私の親は世界一だと思っていた。喧嘩はしない、平和な両親。友達が、パパとママの喧嘩を嘆くたび「うちは喧嘩してるの見たことないよ」と言って羨ましがられたものだ。
車で北海道内を奔走し、出張も多く忙しい父は、その割にいつも機嫌が良く嬉しそうに「ただいま〜♪」と帰ってくる。休日は必ず家族をどこかに連れて行ってくれる。
母はとってもおいしいご飯をいつも作ってくれて、ギャグセンスが高く面白い。私たちが21時に布団に入ると小さな音でテレビゲーム(ドラクエかシレン)をして、父の帰りを待っている。父にビールと温めた夕食を出して、翌朝は誰よりも早く起きてコーヒー豆を挽く、立派に働く専業主婦。
喧嘩がないのは、母が全部飲み込んでいるからだなんて考えたこともなかった。
死ぬ間際の母が初めて父に「今までありがとう、大好きだよ」という言葉と「寂しかった」という言葉を発した。どちらも、初めて聞いた言葉だった。
母の病気がわかったのは、私の転職が決まった日でもあった。転職のことを言えぬまま流れるように入院した母の不在中、実家は私ひとりだけになった。
弟は関東で就職しており、父は単身赴任で東京にいる。
父は、私が中学生に上がった頃から何度か単身赴任をしていたので、結婚生活の半分近く、父と母は離れていた。
私も私で実家から一時間ほどの場所に一人暮らしをしていたのだが、会社を休職中、母の勧めで実家に滞在していた。その最中の病気の発覚だった。
そして私は母が入院しているときに、家族4人のLINEグループに、転職して東京に行くことを打ち明けたのだ。転職活動をしていることは家族の誰にも伝えていなかった。休職していることすら、母しか知らなかった。そしてその母にも、転職活動のことは言えていなかった。「もったいない」と言われたら私の決断が揺らぐ心配があったのだ。今の職場では体力オバケみたいなおじさんたちについていくことができなくて、限界だったけど、そういう泣き言は言えていなかった。母に残念がられたとしたら、もう少し頑張ったほうがいいかなと思い直してしまいそうな気がしていた。それが怖かった。
そして、病気がわかった母に面と向かって報告する勇気も出なかった。「いいよ、ママは一人でも大丈夫。ナツミはそうしたらいい」そう言われることが怖かった。だって絶対に心の中では「ひとりにしないで」と思っているはずだから。そう言っていることと同義だから。
こうして私も、母をひとりにしてしまったのだ。
父に帰ってきて欲しかった。いつも母もそう言っていた。「パパが帰ってきてくれたらねえ」と。でも当の父に真っ直ぐにそれを伝えることはできなかった。父が「そうはいってもねえ」と返したら、自分と過ごすこと自体の価値を否定されている気分になるからだろう。(そんな意図ではないのに)
父は会社に忠実なサラリーマンだ。昨今は多様性の受容というトレンドの中で特例や例外措置を認める会社も出てきているが、「全国転勤が許可された職についているのに、妻の病気なので帰してくれなんて言えない」というのが父の主張だった。また家族の介護で実家に戻る同僚などもまま見るが、仕事は面白くないものになってしまう(左遷扱いなので)ということだ。
母も母で、父の仕事のやりがいを奪いたくはないと思っていて、自分が我慢することを選択していた。
母は病気になっても、いつも通り振る舞った。それを見て簡単に安心した父は、いつも通りでいた。ご飯が出来上がるのを待って、買い物に行きたいと言われれば車を出し、夜はひとりで(あるいは私もついていって)温泉に行った。母が「具合が悪い」と言うまでそうであることに気づかず、夜中までテレビを大音量でつけて、こたつでいびきをかいて寝ているので、私はリビングの電気を消してテレビの音を小さくしてから自分の部屋に行っていた。
母の病気の進行はものすごく早かった。薬はどれも効かず、病院に行くたびにバッドニュースを聞かされた。流石の我慢強い母も、家から出なくなった。気持ち面でも、体力面でも限界だった。私は東京に引っ越してから、上司の許可のもと弟と交代で約2週間ずつ帰省してリモートワークを続けた。父は月に1、2回、週末だけ帰ってきてガーガーと昼寝をしていた。この家族の在り方に異議を唱えられる人は私を含め一人もおらず、思えば母を軸に回っていたこの家族はもう止まる寸前のコマみたいにぐらぐらと揺れていた。
母と共に外出をしても徒歩3分のスーパーに10分以上かかるようになって、自宅のある2階までの階段で百名山登頂直前みたいに息が上がるようになって、これが最後の年越しだと思った。父も弟も、帰ってこなかった。私は母と二人で、静かに、最後の年を越した。
それから1ヶ月もしないうちに、母を救急車で病院に運ぶことになった。年末年始が落ち着いてバトンタッチで弟が来て、その弟とまたバトンタッチして1月の下旬に舞い戻った。帰ってきて二日目の午後三時頃、酸素飽和度が90%を切っていて、顔面蒼白の状態でこたつで横になっていたので、#7119に電話をして救急車を呼ぶ決断を援助してもらった。昨日まで母と過ごしていたはずの弟は、母の異変をあまり感じ取れていなかった。母が家に帰ったのはこの3週間ほど後、私が在宅医療の手続きを全て終えて酸素吸入器と介護用ベッド、車椅子を準備し終わってからだ。そしてここから母が死に至るまでの短い期間で、家族はボロボロになった。
私は、自分のことも恨んでいる。
そして父のことも強く恨んでいる。弟のことも、よくやったと思う反面、もっとやれたんじゃないかと責めてしまう。
でも、それを当人に伝えることはできない。全て終わったんだ。いまだにこうして怒りを放出できずにくすぶっているのは私だけなんだ。
私が母の死から3ヶ月経たないうちに人生二度目の休職をしていて、今もそうしていることを父も弟も知らない。話さない。だって、原因は母の死による家族問題の傷が癒えないことだと言っても、「なんのこと?」と返され、何にも伝わらないだろうから。「いまだに何を気にしてるの?そんなのわかんないよ」なんて言われてしまったら、私が何をするかわからないから。
毎日、家族LINEで父と弟と晩御飯の報告をしあっている。私が始めた。でも私がそうしたいわけではなかった。きっと母がそうしたかっただろう、離れて暮らす私たち3人が毎日連絡を取って欲しいだろうと思っただけだった。
つい先月、父の誕生日にプレゼントをした。弟には買おうとしているものと金額を伝えたところ、PayPayで4割ほどの金額が送られてきた。いつもこうだ。
父から我々にプレゼントはないが、母はいつも何か買ってくれて一緒にケーキを食べた。ただ、52歳の最後の誕生日、母親に何もあげられなかった。4人で10万円ほどの宿を私負担で泊まろうとしていたが、入院で延期にしたままだった。
プレゼントをすることが、愛の表現だと思っていた。そしてそれ以外に、私たち家族は愛の表現ができなかった。
私はここ10年以上、父の手を触った記憶がない。ご飯のお皿のやり取りですら。母に触れたのも、病気になって手助けが必要になってからだ。触れることが怖かった。きっとそれは、親も子供も、お互いにそうだった。弟のことなんて、20年くらい触っていないんじゃないかという気すらしてくる。
目も合わせられなかった。私たちはいつも、目を合わせているようで合わせていなかった。父と母は、見つめあって話をしていたかもしれないけど、私は母のことをなかなか見つめられなかった。父や弟なんてもってのほかだ。
言葉もかけられなかった。大好き。大事。そんなふうに言えなかった。私が東京にいる時、母親からLINEが1日帰ってこなかったことがあり、実家に一人のはずの母が心配で恐ろしくて冷たく震える手で電話をしたことがある。電話先で枯れた声で「はい」という母の声を聞いてボロボロと泣いた。全然返信が来なかったから心配だったと、こういう時くらい子供ぶってもいいんじゃないかと思いながら泣いて伝えて少しして電話を切った後、母からLINEが来た。長文で、謝っていた。
「パパの単身赴任ついて行けばよかった、決断できなくてごめんね」
「心配させてごめんね」そして「ダイジダイジナツミ」。
大事。ダイジ。その言葉に、あったかい包容力を感じて、抱きしめられた気がした。無性に幸せな気持ちになってまた泣いた。私も、「ダイジダイジママ」と返した。私たちが初めてちゃんと愛を伝えられた瞬間だった。
LINEじゃなく、口で愛を伝えられるべきだった。でも口では、もう頭がおかしくなってからしか言えなかったのだ。本当に死んじゃう、数日しか残されていない。今言えなかったらずっと後悔する。パートナーの母親に、私の存在を一言も伝えることができずに永遠の別れが来てしまったことは悔やんでも悔やみきれなかった。それを繰り返してはいけないんだという戒めも、母が健康なうちは実行できなかった。
父への怒り、弟への怒りは、私自身への怒りが投影されているだけなのかもしれない。人に責任を押し付けて怒ることで気分良くなろうとしているけど、私自身の責任から逃避したいだけなのかもしれない。わからない。
ただ、私は何かに怒っていて、それがずっと解消できなくて、結局家族関係は今でも薄氷の上を渡っているような危なっかしさと不安定さが続いていることが大きなストレスになっている。
どうせそのうち、何もしない父はボケて死んでしまうだろう、そうなったら残されたものを全て私が一人で背負わなければならない、弟は頼りにできない、と思っている。
弟と良好な関係を築きたい。でも話すペースが全く掴めない。会話がうまく続かない。会社でもそんな人いないのに。
父に対しても、会社の人よりも気を使う。かといって調子に乗ったことを言っていると思うと、傷つけたくなる。
死んでしばらくしてから、父の「最高の夫婦だったんだよ」という訴えに肌がピリつくのを感じた。
「寂しかったって言ってたよ。ずっと我慢してたんだよ」
私はテレビを見ながらそう言い切り、言葉の刃を投げた。父はたじろいで、少し悲しげなため息をついて外にタバコを吸いに行った。やってしまったかなと思ったりもしたが、これくらい食らえ、とも思った。
お墓も決めなければいけない。でもお墓は子供が面倒を見ていくことになるからと、父は私に決定権を委ねる。私が決めなければいけない。そういえば、資料請求した納骨堂から一報もないが、どうなっているかな。
そうだ、私は父と弟と普通に仲良くしたいんだ。諦めたくないんだ、家族の絆を。希薄だからしょうがない、もうどうしようもないと思って、結婚して姓を変えることで逃げよう、後少しの辛抱だと思っていた。でも、諦めたくなくて、でも、どうしようとかをちゃんと考えられなくて、恨みつらみばかり募って、今日も表面的な晩御飯LINEを続けていることが、苦しくて辛い。
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