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正岡子規の子規庵へ。鶯谷駅を降りる。

2023年もようやく秋になりましたね。
でもカラッとした青空はなかなか来ない。秋晴れを待つ間に、短い秋は終わってしまいそうです。

糸瓜忌(9/19)は子規の命日。

『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』
       正岡子規(明治28年)

『古池や蛙とびこむ水の音』の松尾芭蕉と並んで有名な、正岡子規の俳句です。
日本で教育を受けた人なら一度は聞いたことがあると思う。

○正岡子規(1967−1902年)
俳人、歌人、随筆家。職業は『日本』新聞社の記者

俳句は、その短さがいい。読んでいて楽。

季節をテーマに詠む俳句は、どんなに遠い昔に詠まれていても、その感覚は現代人と同じです。柿を食べる。かえるが水に飛び込む。花や植物は昔から大人気。寒暖や日の長さも歌に詠まれます。
季節に敏感な日本人のアンテナは、やっぱり昔の人の方が鋭い。
それでも現代だって、気象予報士という職業の人気を見れば、人々が気象や季節をとても愛していることがわかります。

そうして読み手が感動した一瞬を、十七音の短い言葉で切り出すことが俳句のすべてです。たった十七音。俳句は、表現がとても限定された文芸です。難しそうだ。

そんなとき、正岡子規の句を見てください。
自由。超自由。
子規はツイッターのツイ廃のごとく、俳句を読んでいます。

みなさんは「句集」って読んだことがありますか。子規の句集、たくさん出ています。ぜひ読んでほしい。想像力がブワッと広がる。ツッコミどころも満載。
それが子規の俳句です。

子規は、文学研究の中でも俳句の創作と過去の作品研究を精力的に行い、近代文学における「俳句革新運動」へつなげました。
彼は35年の生涯で、約25,000句を詠んでいます。

子規庵を訪れる

子規庵は、正岡子規が生涯の最後7年間を過ごした家です。
彼は愛媛の松山出身です。母と妹を東京に呼び寄せここで暮らしました。子規の亡き後も、この家では句会や歌会が行われました。

昭和の空襲のために土蔵を残して家は焼けてしまいましたが、昭和25年に再建されています。

9月19日は子規の命日である糸瓜忌。9月16日から24日までは、連日開庵。9月は(10/1まで)糸瓜忌特別公開

JR鶯谷駅(東京都台東区根岸1丁目) から徒歩5分です。便利。

基本、土・日曜日だけの公開ですが、この時期は連日開庵していました。
入場料500円。靴を脱いで上がります。
子規が描いた水彩画のカードが素敵。岩波文庫や子規庵グッズも手に入る。
闘病生活を送った部屋。子規は左足が伸ばせなかったため、立膝で使える机です。

『漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)』
               子規(明治28年)

1995年(明治28)、子規は日清戦争取材の帰国途中に喀血し、そのまま神戸で入院。闘病生活が始まりました。退院後は、松山に赴任していた夏目漱石宅でひと夏を過ごす。帰りには奈良に寄り、あちこちを巡っています。

いろいろあった明治28年。『柿食へば〜』の句もこの年です。
大晦日には、夏目漱石と高浜虚子が見舞いに来たのですね。

そして明治29年、脊椎カリエスの診断が下りました。

庭の草花がよく見える。障子をガラス戸に変え、中村不折からもらった絵の具で初めて水彩画を描いたのが明治32年。子規32歳の時でした。
鶏頭や萩などの草花が豊かです。糸瓜の棚が美しい庭。

空襲で焼けたため、住居部分は再建されたものです。土蔵だけが無事に残りました。
糸瓜忌特別公開(9/16-9/24、9/30、10/1)では、2022年春に復旧工事が完了した土蔵の内部と、遺品が公開されています。

窓の外の左に見える建物が土蔵

子規庵の向かい、中村不折の書道博物館へ

子規庵もいいけど書道博物館もいい。鶯谷。

台東区立書道博物館は、中村不折による書画コレクションを展示した博物館です。
子規庵の斜め向かいにあります。

○中村不折(1966−1943)
洋画家、書家、蒐集家。正岡子規と仲が良かった。
日清戦争(1894−1895)では、従軍記者(子規)、従軍画家(不折)として共に大陸に渡る。そこで中国書道史に関する資料に出会い、書に傾倒した。

不折は、子規の亡き後、1915年(大正4)に子規庵の斜め向かいに転居しました。そこで蒐集品の陳列を始め、書道博物館の開館に至ります。

台東区立書道博物館(=中村不折の旧住居)

正岡子規の書簡が展示されていましたよ。

不折の代表作、これは見たことある

○新宿中村屋のロゴ

カレーの箱で見たことある。いい字だなあ

○ 夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵

扉絵は橋口五葉(1880-1921)、中の挿絵は中村不折(1866-1943)と浅井忠(1856-1907)が担当しました。

しっぽをつかまれている障子越しの影や、『三味線を弾く猫』など。キャラクターがチャーミング。ポップであたたかいイラストです。

これは、明治38年10月に出版された同作の単行本上巻冒頭の挿絵であり、中村不折の画である。著者の漱石からは、「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」という内容の手紙が不折あてに送られている。

『台東区ヴァーチャル美術館』吾輩ハ猫デアル挿絵 より

2023年現在の企画展

『没後80年 中村不折のすべて』
2023年5月から開催されています。現在は後期展示(9月5日−12月17日)

不折の業績がわかります。画家、書家としての活動と、文豪との交流などがテーマです。

台東区チャンネル『書道博物館 企画展 没後80年 中村不折のすべて』↓

書道博物館、駅から近くてこんなにすごいのに空いている。

書道博物館、なんかすごいんですよ。いつも来館者は少ないけど。
敷地内には2棟あり、「中村不折記念館」もいいのですが、隣の「本館」がすごい。

本館に足を踏み入れると、ちょっと緊張感に包まれます。入口は引き戸で手動だし。階段は急で蔵へ入ったかのよう。
ここにぎっしりと中国の歴代王朝が残した文字の遺物が展示されているのです。

甲骨文字、石板、青銅器、鏡など、数千年前の古代中国文字の刻まれた品々が、本館の1階と2階に整然と並んでいます。すべて、中村不折が独力で蒐集したのだそうです。

昔の授業で習った〝甲骨文字〟は、中国の「殷」王朝、紀元前14世紀(!)ごろのもの。

西周時代(紀元前10世紀頃)の青銅器は、そのままむき出しで、ちょっとした家具みたいに置かれている。

ここにいると、遺物が放つ数千年のパワーに背後を取られます。私は振り返ってしまう。
何かいる?いや誰もいないけど。警備もいないけど!なんで来館者がほぼいないの?こんなにすごいのが間近にあるのに。マジか

触る、撮るのは禁止です。やれば中国古代王朝の罰が下ります。

数千年前なんて、寿命80年の人間にはとても想像がつきません。それが実際にあったことは、ここの展示が教えてくれます。
書道博物館。行ってみて。

↓館内の様子がわかります。
2012年記事
「没後70年 中村不折のすべて」レポート『アイエムインターネットミュージアム』より

子規庵から超近い。撮るのはここだけだよ。

終わりに

やはり立地か。

明治初期、子規庵の土地は、旧加賀藩前田家の下屋敷でした。そうなんだー

江戸時代、鶯谷は「根岸の里」といい、鶯の名所でした。お大尽の妾宅、隠居の別宅、風流なわび住まい、別荘地といった場所であったそうです。
(↓クリックすると詳細が見られます)

「根岸の里は上野の山陰にして幽趣あるか故にや、都下の遊人多くはここに隠棲す。花になく鶯水にすむ。蛙もともにこの地に産する。その声ひとふしありて世に賞愛せられはへり」

斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十七,博文館,1893.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994946 (参照 2023-09-24)

そして現代。
鶯谷駅北口から歩き始めると、現れるのがラブホテル街。電車の車窓から見ていた景色に飛び込みます。
ここに子規庵と書道博物館があるなんて。
次々と現れるホテルの似たような入口を横目(ていうか目の前)に歩きながら、同じ場所を一周して迷ったりする。ラブホ街ってわざとぐるぐる巡るように作ってあるからなあ。
だから訪れる人があまりいないのかなあ。
やっぱり立地かと。

でも大丈夫。今はグーグルマップがあるから!
鶯谷。子規庵と書道博物館。
みんな来てねーーーー

参考文献

『子規句集』高浜虚子/選、岩波文庫
『子規庵』パンフレット
『書道博物館』パンフレット

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