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立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 1(3) 伊岐須小へ なかよし4組 滉耀くんと出会う


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高学年担任が多かった筆者ですが、初めての特別支援学級(大学の専攻は障がい児教育)です。滉耀くんはどんな子どもかな?ドキドキ
                    
2年生1学期(2004年 H16年)


2 飯塚市立伊岐須小学校へ

 平成16年4月1日、私は他の7人の転入の先生として伊岐須小学校の職員室に立ちました。
 伊岐須小学校は生徒が800人ほどいる大きな学校です。その職員室も八木山小学校の小さな職員室の四倍位の大きさに感じました。
「ちいさな八木山小学校から来た私には、職員室の向こうがかすんで見えます」
 笑いながら挨拶しました。みんなどっと笑って面白がってくれました。自分の席の隣の女の先生が立ち上がって飛び切りの笑顔で迎えてくれました。
「沢田です。よろしくお願いします」
 3月まで、なかよし学級の担任をしていた沢田由香先生でした。
最初の職員会議で正式な担任決めがあります。なかよし学級の担任は松田詩織先生、兵藤和美先生、大里由紀子先生と私を入れて四人でした。この時に、今年から障がい別にクラスが分けられ、初めて身体の不自由な子ども用の教室が、今年から用意されたことを知りました。なかよし四組です。
 クラス分けや先生達の係決めや一年間の計画作りの仕事など3日間はあっという間に過ぎていきます。

 4月3日に、3月まで滉燿くんを受け持っていた永田先生から事務引き継ぎということで、なかよし学級の担任の先生全員で話を聞きました。
 滉燿くんは、平成8年8月7日生まれです。伊岐須小学校には平成15年4月に入学しました。この時は一年生の普通学級に入学していたのです。
 それには、両親の

 という強い願いがありました。
 滉燿くんはダンディーウオーカー症候群という珍しい病気で、水頭症も併発していました。ダンディーウオーカー症候群は、頭の中に脳を入れておく部屋の壁が、一部塞がって起きる病気です。何も症状が出ない人もいますが、水頭症を併発すると頭の中に水がたまって、脳を圧迫して脳の成長を邪魔します。脳は、ものを考えたり、覚えたり、話したり体の動きを命令するとても大切な部分です。
 滉燿くんは、頭の中にたまった水のために、大切な脳が十分に成長することが出来ませんでした。特に小脳といって人間が身体を動かす時に働く部分が、ほとんど成長しないで生まれてきました。そのため、筋肉の調節や身体のバランスを取るために、僅かに残っている小脳の部分や普通では運動に使わない大脳の部分で、何とかやりくりして身体を動かしているのではないかと言われていました。
 また、頭にたまった水を出すために、頭蓋骨の中にたまった水をお腹の中に出すパイプを手術で入れていました(シャント手術)。外見ではわかりませんが、触ってみると左の後頭部に小さな出っ張りがあって、パイプが入っていることがわかります。このパイプがつぶれないよう、こかすことはもちろん、電磁波を出す携帯電話やヘッドホンなど、磁石を使ったものを近づけてはいけないと言われていました。 知的発達も1才くらいのレベルでしょうか。会話はほとんど出来ません。わずかに「オハー」「オチャ」とか「アパ」といった声を出します。「OK」と「もう一回」は指で○を作ったり指を一本あげたりしてサインを出します。滉燿くんを床やベットに置くとゴロンと寝転がるだけです。寝返りは打てますが、自分で起きあがることも出来ませんでした。 
 椅子に座っても姿勢を保てず、身体がグニャリと曲がって、椅子から滑り落ちるので座れません。平らな所にトンビ座りやあぐら座りで座らせると、そのまま座っていることは出来ました。家では、この様にテレビやビデオなどを見て楽しんでいました。 歩くことはもちろん出来ません。大きなバギーに乗って人に押されて動くわけです。車いすの様に、自分でタイヤを回して移動する事は、手の力が弱いので出来ませんでした。
 バギーでも、姿勢が真っ直ぐ保てずに前屈みになってしまうので、腰と胸のところをベルトで締めていました。もちろん、歩いて登校することは出来ないので、お母さんが自動車で送り迎えをしていました。車に乗せる時も降ろす時も、お母さんが一人で抱えて乗り降りしていました。
 授業を受けても、滉燿くんが分かる事はほとんどありません。滉燿くんは一番後ろにいましたから、授業中は友達がみんなそっぽを向いている様に見えるかも知れません。
「アッ、アッ、アッ」
 甲高い声を出したかと思うと、
「ウエッヘッ」
 泣き出したり、手を振りながら「ワーワー」と騒ぎ出す事が良くあったそうです。
 食事も自分一人では出来ません。給食時間になると、お母さんが家からやってきました。教室へ来て滉燿くんの食事の準備をし、横に座って食べ物を口へ運んでやらねばなりませんでした。
 午後1時頃、給食時間は終わります。お母さんは給食が終わると一旦家に帰っていました。学校が四校時で終わる時は、午後2時20分、五校時で終わる時は、午後3時20分の下校の時間になると、また迎えに来なければなりませんでした。一日に学校を三往復の日々です。学校の往復と食事の世話で時間を取られて、お母さんは昼間に家の仕事をすることが、ほとんど出来なくなりました。
 トイレも自分一人で行くことは出来ないので全ておむつでした。担任の先生やお母さんが交換していました。
 滉燿くんは、学校生活の中では一日中バギーに乗っています。おまけに、身体をベルトで固定されているのですから、それだけでも疲れてしまいます。それじゃあ可哀想だと、ある先生が家で不要になったベビーベッドを持ってきて職員室に置いてくれました。お陰で、中休みや昼休みにこのベビーベッドの中で寝ころんで身体を伸ばして休むことが出来るようになったので、少し楽になりました。
 でも、そんな生活はちっとも楽しくありませんでした。滉燿くんはしょっちゅう泣いたり、ぐずったりしていたそうです。
 学級の担任の先生は大変です。新しく学校に上がったばかりの1年生には教えることがたくさんあります。大きい子が簡単にできることでも、一年生では自分で出来ない子も多いですから、手伝ってやらなくてはなりません。小さい子でも出来るように準備をしなければなりませんから、同じ様な事をやらせるにも上級生より手間がかかります。体がいくつあっても足りません。そこへ加えて、やる事を全部お世話をしなくてはならない滉燿くんですから、手が回らないことが出てきて当然です。私が受けもっていても出来なかったと思います。
 しかし、学校側の滉燿くんへの行き届かない扱いに不満を持った両親は、入間加代校長や市役所の学校教育課の森田正和課長(一年間の八木山小学校校長の後、課長になっていました)と話し合いました。それで2学期から滉燿くん専用に一人臨時の職員が付くことになったのですが、学校や障がいをもつ子の扱いに不慣れな人であったために、充分に世話が行き届きませんでした。「滉燿くーん」
 先生達は滉燿くんがバギーで通りかかると、手を振ったり、話しかけたりしました。簡単な手遊びで遊んでくれる先生もいました。小田哲次先生は滉燿くんが来ると大声で呼んでうるさい人でした。
「オッ大将!」
 ついでに、団扇で力一杯扇いでくれる面白い先生でもありました。梅木理恵子先生はバギーを猛スピードで走らせたり、面白いことを話しかけて喜ばせてくれました。
 学校のみんなは、かわいがってくれたのですが、滉燿くんにとって少し無理のある学校生活だった様です。1・2学期は良かったのですが、3学期になると、自分が乗った自動車が伊岐須小学校の校門に入ると「行きたくない!」とよく暴れ始めたそうです。バギーが置いてある会議室で、バギーに乗り換えて教室へ行く途中でも泣いていることが多かったといいます。風邪を引くなど病気になると直った後でも、学校に行くことをぐずって一週間くらい休むことが多かったそうです。
 結局1年生の時の欠席日数は60日間となりました。学校のある日が百九十九日でしたので、三分の一近くを欠席していたことになります。私が体を壊して辛い思いをしている頃、滉燿くんも学校生活に苦しんでいたのです。

3 滉燿くんが来ない

 4月4日始業式です。私は体育館の壁の前に、新しく伊岐須小学校にきた先生達と横一列に並んで立っていました。 
「ただ今から平成16年度始業式を始めます。きをつけ、れい」
 司会の先生がしゃべっています。
「最初に校長先生の話を聞きましょう」
始業式が始まりました。入間加代校長がステージに上がり、演台から児童に向かって話しかけます。
「伊岐須小学校のみなさん。新しい学期が始まりました。今日から学校の1年の始まりです。2年生は3年生に・・・・、5年生は最上級生の6年生になります。・・・・」
 話を聞く子ども達の目はきらきら輝いていましたが、私は校長先生の話を上の空で聞いていました。学校が好きではない滉燿くん、障がいが重くて自分には手に余ることはないだろうか。うまくやっていけるだろうか。そんなことを考えていると、足下を冷たい風が吹くのを感じました。 
 校長先生の話が終わるといよいよ担任発表です。「2年1組、島先生」と呼ばれるとクラスの列の前に先生が立ちます。続いて「2年2組、本田先生」と先生の名が呼ばれていきます。子ども達は自分達のクラスには誰先生が当たるか、首を伸ばして緊張して聞いています。
 順番がなかよし4組になったのですが、滉燿くんが来ないのです。正確に言うと、一旦は学校の玄関まで来たのですが、調子が悪くなって帰ったと言うことでした。やっぱり学校が嫌で調子が悪くなるのは今年も同じ様です。
「なかよし4組、辻塚先生」
 名前が呼ばれましたが、肝心の子どもは並んでいません。仕方なく、なかよし3組の列の隣に立ちました。新しい担任の先生に連れられて、教室に行く嬉しそうな子ども達をぼんやりと見送りました。
 次の日も、又その次の日も滉燿くんは来ません。他のなかよし学級を手伝いながら待つしかありませんでした。
 そして4月7日、その日も別の学級を手伝っていました。そこへ、滉燿くんが来て、なかよし4組にいると連絡を受けました。急いでなかよし4組に行きました。『どんな子だろう』『障がいは重いのかな』『自分が受け持てるかな』『両親とはうまくやっていけるかな』ちょっと緊張して脚がかすかに震えました。
 廊下から教室に入ると、両親と1台のバギーが向こうの中庭の方を向いて立っていました。逆光でちょっと霞んで見えました。二人に近づくと両親の背中に声をかけました。
「お早うございます」
 二人はハッとしたようにこっちを向きました。お母さんは丸顔で色が白く小柄でした。三十才を少し過ぎたくらいでしょうか。お父さんは、お母さんより少し年上の様で、背の高さは170㎝くらいで、四角い顔に太めの縁の眼鏡をかけていました。
「私が滉燿くんを担任することになりました辻塚と申します。よろしくお願いします」
 ネームプレートを見せながら頭を下げましたが、挨拶もそこそこ、バギーの前に回って座っている子をのぞき込みました。
 そこには、小さかったけれど、思っていたよりしっかりした顔つきの男の子が座っていました。四角い顔、短く刈った髪の毛、アニメのちびまる子ちゃんのような目、少し大きな口、あどけない二年生の男の子の顔がそこにありました。
「こんにちは」
 手を差し伸べると、くすぐったそうに身体をよじって笑顔を返してくれました。その笑顔に、『これなら大丈夫。やっていけるぞ』心の中で確信しました。同時に、心の中に微かに浮かんだのです。

 この言葉が、後で奇跡を呼ぶことになるのですが、この時は「まさか」と直ぐに打ち消しました。    私は滉燿くんを抱きかかえました。滉燿くんは、ぐずりもせず私の腕の中に乗ってくれました。抱いたまま、両親に改めて自己紹介をしました。「今日から滉燿くんの担任をすることになりました。自分は養護学校教員の免許を持っていますし、学生時代に療育キャンプに参加した経験もあるので、お世話できると思います」 両親の顔がぱっと輝きました。「本当ですか?校長先生が専門の先生をまわしてくれたんですね」
 お母さんが嬉しそうな声で言いました。普通学校なので、先生が専門でないわけです。どんな先生に当たるかを不安に思っていた両親にとって、全く意外な展開だったようです。
「良い機会ですから、学校への要望などを聞いておきたいのですが?」
「滉燿が楽しく学校に通える様にお願いします」        お母さんは頭を下げてから、
「ねっ」
    お父さんを見ます。
「よろしくお願いします」
 お父さんも頷いて頭を下げてくれました。滉燿くんの今日の調子を聞いた後、滉燿くんを抱いたまま中庭側にある教室のベランダに出てみました。
 なかよし四組の前にある伊岐須小学校で一番大きく、そして最初に咲くという桜は花が満開でした。空気は暖かく、まぶしい空には春の花の香りが漂っていました。鳥の声も聞こえていました。外は春爛漫でした。そして私の心も滉燿くんの心も春爛漫でした。


立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 1(4)なかよし4組の日々


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