立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 11 最終章 (1) 復帰!再び滉燿くんの担任です。
前編 立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 10(8) 再び漢方薬の威力!身体が改善しました。しかし、へはこちら
新しい校長は、八木山小学校へ私を連れて行った森田和正校長です。はらんの展開が予想されます(笑)
66 森田校長登場
「辻塚さん、今度新しく来る校長誰か知ってる?」
学校へ出た私に中村慎司先生が話しかけてきました。そう言えば、今日は3月26日です。人事異動の内示の日でした。人事異動の発令の日は4月1日ですが、その前に、人事異動する先生を対象に内示が有ります。この時点で、正式にでは有りませんが、誰が、どこの学校へ動くのかほぼ分かります。公式には当事者だけに知らせる事になっていますが、どっから漏れてくるのです。新校長は誰なのか職員の最大の関心事ですが、自分の体が気になってあまり関心有りませんでした。中村先生の意味ありげな聞き方からすると私の知っている人のようです。
「木室校長ですか?」
木室校長は隣の小学校校区の校長で、確か赴任して数年経っているはずでした。異動でやってきても不思議では有りません。
「違う」
中村教頭先生は、目をぎろぎろさせながら答えました。
「あんたの良く知っている人だ」
「はあ?」
「Mさんだよ」
MさんMさんさん、と私の目は空中を泳ぎます。パッとひらめきました。
「森田正和校長ですか?」
「そうだ」
中村先生は、そう言うとポパイのように片目を大きく見開きながら顔をグーッと後ろに反らしました。
最初にお話ししたように、私は平成12年に八木山小学校に異例な人事でいきました。『平成13年から自由校区にすることになった。パソコン関係や研究が強い辻塚先生に魅力的な学校にして欲しい』と言って私を八木山小学校に連れて行ったのが森田正和校長です。そう聞くと色々思い出します。
森田校長は、研究授業で指導案を渡しに行くとブスッと言いました。
「辻塚君(森田校長は私を辻塚君と呼んでいました)、指導しても分からない人には言わないが、私は分かる人には言うからな。今度の授業では言わしてもらう」
授業の後の検討会で、授業に対してコテンコテンに批評を言われました。その日は不登校の子が学校に復帰した日の授業でしたが、その事は全く触れませんでした。
「それには気付かないの」
不満に思った事を覚えています。
それと・・・、
「これやこれをやってくれ」
と色々、仕事で忙しい目には遭わされたりしましたが、
「ダジャレを言うのはだれじゃい」
などとおやじギャグを言っているような(今の若者には迷惑な)おっさん校長でした(笑)。
平成12年の8月に私の長男が超未熟児で久留米大学病院で生まれた時です。私は「緑の少年団」の上級生の宿泊キャンプの引率で、夜須高原自然の家に行かねばなりませんでした。動きがとれなかった私に、午後から代わって引率をしてくれました。それで私は久留米大学病院に駆けつけることが出来ました。
しかし、八木山小学校をサッサと一年で去って(笑)教育委員会の学校教育課長に栄転していました。
滉燿くんの小学校入学についての話し合いで、中心人物だったとも聞いています。その後、市内の小学校で一年間校長をして、今は、確か福岡県の教育センターに行っているはずでした。それが戻ってくるのでしょう。
「まあ、いいんじゃなんですか。オヤジギャグがうるさいけど・・・」
「何が良いもんか!」
中村先生は顔をしかめて吐き捨てました。
「あんた知らないのかあ、あの人の話」
「はあ?」
「あの人を良く言う人はおらんじゃろう。オレが聞いた話だが、校長会で、森田校長は教育委員会の学校教育課の人達に無茶苦茶文句を言っていたそうだ。その話は聞いていて足が震えるくらいびびったよ。森田校長はあれから福岡県の教育センターに転勤になったけど、まあ、あんなに言われたら、人事権をもっている教育委員会も『この野郎』となるだろうなあ」
中村先生はガラガラ声でため息混じりに言いました。
『へー』と思いながら異動で出て行く女の先生に反応を伺うように『新校長』の森田校長の話を切り出しました。
「森田校長がくるそうですね」
「うん。私○○小学校に行くことになった。子どもが落ち着かないという評判の学校だから、がっくりしていたんだけど涙も止まったよ。あー良かった」
「そんなにあの校長いやですか?」
「あなた、前に蓮台寺小学校の研究発表会を見に行ったでしょう?その時の学校教育課長として話した講評覚えてないの?ぼろくそ言っていたじゃない。学校が苦心して準備してきた研究発表会で、あんなこと言うなんて信じられなかったわ。それに、以前校長をしていた小学校では、夏休みなんかでも『昼休みは45分間です』とうるさいし、会議なんかで出す提案は、必ず事前に校長に見せること。学校から出す文書については、公文書はもちろん、学級通信でさえも必ず学年主任、教務主任、教頭先生と見せ、それぞれ決済印をもらう。最後に校長に見せて、許可を得ないと出せないことにして、時間がかかってありゃしない。通知表も児童一人一人分、全員チェックしていたそうよ。あんな校長に来られたら現場はうるさくてやっていられないわ」
3年ほど前にあった蓮台寺小学校の研究発表会では、森田校長は確かに「2年生の生活科では、市立の幸袋幼稚園と同じ授業の『木の実を集めて秋を見つけよう』をやっていました。これはいかがなものでしょう」と話していました。私は教育実習で福岡教育大学付属小学校に行きました。その中でいきなり始まる「先生生活」はキツいし、実習授業で厳しい指摘を受けて鍛えられました。それで、研究授業で批判を言われたり言ったりすることには慣れっこでした。私は、ほとんど気にしていませんでしたが驚いた人が多かったのでしょう。
前小学校でうるさく言っていたという一件も、学校を管理する立場である学校教育課長をしていた者として、お役所的規定をやかましく言わねばならなかったに違いありません。『そうは言ってもそんな建前を厳しく言う融通の利かない校長』として教職員から蛇蝎のように恐れられていたらしいのです。それに気づいていていなかった自分の迂闊さと情報網がいつの間にか狭くなっていることに慄然としたのでした。
昼休みに、職員室で私の前の席にいる中本先生に話しかけてみました。
「森田校長が来るそうですね?」
「うーん」
中本先生は顔を上げると薄笑いを浮かべました。何だか人ごとの顔です。
「今度来る森田校長を知ってますか?」
「同じ学校になったことは無いが、名前は知っている。教育センターに行っていたけど、そこは、校長になる直前の教頭先生レベルの人が行くところで、ベテラン校長が行かないところなんよ。まあ、飛ばされたのじゃない」
中本先生は変なことに詳しい人でした(この話ホントかな?)。
3月30日朝です。村田教頭先生が、
「今日の9時に、森田校長が事務引き継ぎにくる」
と耳打ちしてくれました。気が付くと、学校全体がビリビリしているようでまるで見えない敵を迎え撃つ臨戦態勢の雰囲気でした。(個人の感想です(^▽^)
9時、私は玄関脇の事務室で用事を済ませ、事務室の玄関側のドアから出た所で、やってきた森田校長とぶつかりました。ちょっと肥ったようです。
「お早うございます」
思わず声をかけた私にも、ガチガチになって出迎えている校長・教頭先生にも目もくれず、森田校長は視線を床に落としたまま、うつむき加減に黙って憂鬱そうに薄暗い校長室に入っていきました。
『俺は・・用無しか・・・・』
八木山小で病気になるほど頑張ったのに・・・。小さくため息をついて肩をすくめると職員室の方へ歩いて行きました。
それから2時間、森田校長、吉田校長、村田教頭先生は校長室から出てきませんでした。校長室の前を通っても、相変わらず薄暗く何があっているのかわかりません。11時頃になってようやく村田教頭先生が出てきました。
「終わりましたか?」
声をかけると村田教頭先生は肩を落として疲れたように言いました。
「2時間かかって三分の一しか終わってない。これから教育センターでの事務引き継ぎがあるから、後は後日ということになった」
「後日って、いつやるんですか?スケジュールびっしりなのに」
「知らん」
村田教頭先生にとっても、森田校長は大変な校長のようでした。
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