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ぼくのエポックメイキングを回想する-2
今回は、ぼくのエポックメイキングと言っても、これって言うほどのものじゃないのですが、生まれてからこれまで、このことを意識しなかったことはなかったもの、ということで。
結論的にいうと、「健康」について、もっと手っ取り早くいうと、「虚弱な身体」について、です。
①でお話したように、ぼくが生まれたのは1941年(昭和16年)。身内からも、世間様からも祝福されてこの世に出てまいったのですが、なんといっても、戦時の真っ只中、意気上がるのはスローガンばかりで、一部を除く国民の生活は日を追って貧弱になっていくばかりでありました。
特に、「食べるものが心配だ」という国民の気配を察した政府(東条内閣)は、1942年に食糧管理法を制定します。文字通り、食糧、特に米の生産から消費までを国が管理する、ってものです。
でも、国が規制をかければ、必ずその規制をかいくぐり、しこたま儲けようとする輩が出てきます。
この時、流行語になったのが「かつぎ屋」です。実はぼく、こういう人たちの、オカミをおそれぬ発想とあくなきがめつさには頭が下がります。ぼくには、できません。
あ、またまた、話が横道、迷い道に。元に、戻します。
で、ぼくにとっての一大事とは、
母親の母乳がまるきりアカンかったのです。何しろの高齢出産、何しろの多忙さのせいでしょうか。(母親は、父親が経営する、小さいながらの鉄工所の渉外や、住み込みを含む職人さんたちの采配を一手に負っていたのです)
乳が出ない。じゃあ、どうする?
とりあえず、友人、知人の情報を収集し、貰い乳です。同じ頃出産した、あっちのお母さん、こっちのお母さんの家に連れて行かれて、何とか命をつないだものの、急場のしのぎでしかないわけで、「さてこの先、どうする?」となったわけです。この当時、粉ミルクなんてない。牛乳も確実に手に入らない。お米の重湯がせめてもの頼りだが、母乳にくらべれば、赤ん坊が育つ栄養分としては不十分です。
と、窮している両親に朗報が。鉄工所の職人さんの、縁者の方の申し入れでした。
「うちで飼っている山羊の乳を参じよう」
なになに、地獄で仏、ならぬ山羊。というわけで、早速の山羊ミルク。これがまあ、ぼくとの相性がバツグンだったらしく、哺乳瓶を力強く吸引し、満足げな表情であった、というのです。
以来、乳離れするまでのほとんどを、山羊さんのお乳に頼ったそうです。
実は、その後の調査で分かったことでありますが、山羊さんミルクは牛さんミルクより栄養価が高いそうであります。何とも幸運、何ともぜいたくな赤ん坊になったのであります。
このことを両親に聞いて以降、山羊さんに出会うと、身内のような親しみを感じ、ついつい口元がほころび、走り寄ってハグをしたくなるのです。しかしながら、今では山羊さんを見かけることはほとんどなく、さびしいことです。
ここまで書くと、冒頭の「身体虚弱」なんたらと、相反しているのではないか、とお小言を言われそうです。
確かに、山羊さんミルクは、ぼくを生かしてくれたのですが、やはり何といっても、母乳にかなうわけがないのです。母乳は母親の血液からできておる。だから、母親の持つ免疫力が分け与えられておる。ゆえに、母乳で育った赤ちゃんは丈夫に大きくなり,その後の成長にも大きな影響力がある、と聞いています。
ぼくには、それが欠けていた。まあ、母乳だけのせいじゃないだろうが、頑強な体とは縁が遠く、何事かにつけ、まず虚弱な体を念頭に置く、という生涯を送ることになります。
と言いながら、80歳をこえるまで、こうやって生きておる。重畳、重畳と、ありがたく思わなければならん訳です。
ぼくの小学校、中学、高校の同級生は、なぜか、屈強なヤツから亡くなっているんです。相撲が強かったヤツ、野球部や水泳部などの運動部で活躍したヤツ、山登りで先頭にたったヤツなど、うらやむほどの頑健、剛健なヤツが先に逝ったしまった。
まったく、命はアットランダムです。