コラム 余命
えっ! 余命? このままだと1年か2年だって?
これって、だれに言ってるの? えっ! オレ? このオレ?
お医者様の顔をうかがう。その視線は、たしかにぼくに向けられている。
ぼくが「余命」と言われても、医学のうえでは、ごくごく当然のことなのです。
経緯は、こうです。
元にあるのは、動脈硬化です。それに、忙しさと心づかいによる疲労が加わって、心身ともに飽和状態となり、心筋梗塞を発症したのは、41歳でした。
その後の人生は、心臓の冠状動脈に襲いかかる動脈硬化との闘い、といってもいいでしょう。
薬による治療と並行して、カテーテルによる検査と治療のための入院は数え切れません。
カテーテルの治療も限界だと言われ、ついに開胸によるバイパス手術を受けました。硬化した冠状動脈を、ほかの動脈に取り替える手術です。1年半前のことです。
それで、ずいぶん楽になりました。
ところが、今年の春先から、階段を上ったり、重い物を持ったりすると、息切れするようになったのです。
そこで、受診した結果の、「余命」でした。原因は、心臓の心室の弁が動脈硬化を起こしつつある、というのです。
確かに、後でネットで調べると、心臓の弁を不完全なまま放置すると、急激に悪化して心不全を発症し、突然死を含め、命を失う危険度が大きい、と書かれていました。
今までも、検査や治療のたびに、お医者様から病状についての説明がありました。重大なリスクあり、などと言われたことは再三ですが、「余命」と言われたことはありませんでした。
ただ、「余命」の前に、「このまま放置すると」という前置きがありました。そして、放置した場合、医学上、経験上、どれほど危険であるか、という説明をじゅんじゅんと説明した後、こうおっしゃったのです。「今では、硬化した弁を取り替える手術が可能です」、と。
それも、開胸せず、折りたたんだ人工弁を先端に装着したカテーテルを、鼠径部から心臓まで血管の中を運び、不完全な弁の上に置く、という手術だそうです。全身麻酔で行うそうです。
うまくいけば(リスクの高い治療法だそうで、うまくいかない事例も多々あるとか)、今の「余命」が先に延びる…。
お医者様の話では、「そうまでして、生き延びんでもいい」と、治療を拒否した患者さんもいたそうです。
どうする、オレ。
ぼくを躊躇させたのは、治療のリスクではありません。手術を受けた後の回復力が、ぼくに備わっているか、ということでした。
若いころは、ハードな手術の後でも、長期の入院の後でも、心身を再生させる力が備わっていたのです。元どおりの日常に戻る力です。
ところが、今は、その力が期待できません。元に戻るどころか、治療や入院がきっかけとなり、体を動かしたり、頭を使ったりする力が衰えていくのです。
それを防ぐために、病院ではリハビリを用意しています。ところが、このリハビリ、意外にハードです。それに、耐えられるか、ぼくにとっては重大事です。
でも、耐えなきゃ。ぼくは、金持ちじゃなくていいから、まだまだ時間持ちでいたい。
生きものの命が有限であることはわかっています。
そして、命を長らえたとしても、多分今まで通り、自分にも、他人にも、別にどうってことのない、グズグズの生き方しかできないことも、わかっています。
もう少し待ってよ、というわけではないが、ただ、「まあだだよ」とか、「もういいよ」などという、人間の覚悟の埒外で死を迎えたい、のです。
ぼくの脳内でぐるぐるまわっていた矢印は、そうこうすることもなく、ピタッと「とりあえず余命1年か2年を消せ」を指し示したのです。
あとは、一瀉千里。
治療はうまくいきました。息切れもずいぶん軽くなりました。日常生活も戻りつつあります。
しかし、「余命」は消えません。
それどころか、読書にはまっているとき、テレビで大笑いをしているときなどに、ふいと、襲ってきます。いつぞやは、文章を綴って言葉をさがしておると、「余命」の文字が次々に現れてほかの文字を圧倒、立ち往生状態になったこともあります。夢にもたびたび登場します。
82歳のぼくは、「余命」とともに生きていくしかないようです。
ああ……。