コラム 夕涼みの景色があった頃
ぼくの家は港に近い橋のたもとにあるので、夏になると、毎夕、橋の欄干あたりに、だれかれなく寄ってきて、四方山話に花を咲かせておりました。 浴衣やランニング&ステテコのおっちゃん、台所を終えたアッパッパのおばちゃんたち、それに若い者も、子どももまじって、うちわを片手に三々五々涼を求めて集まる、が日常であった頃のお話です。
1965年だったと思います。ぼくが高校教師になった1年目の夏のことです。
その日の橋の欄干には、14,5人は、いたかなあ。
そこへ、ぼくたちの前、いや正確にいうと、ぼくの前に現れたのは、黒スーツの3人の男たち。白のワイシャツ、ノーネクタイ、足元は素足に雪駄です。一見せずとも、ソレと分かる御仁たちです。
ぼくは、素早く男たちの小指を確かめました。それぞれのそれは、ちゃんとありました。
辺りの空気が、張り詰め、たがいの息づかいが聞こえるほどです。
と、頭目風の男が、私に声を掛けてきました。
「久し振りじゃのう」
「えっ! ぼく?」
「オレ、オレ。中学で同級じゃったMや」
「M……。ああ、M坊か?」
「せや、せや。今、神戸にいてんねん。こりゃ、おまいら、あいさつ、せんかい」
M坊の後に従った短髪のニイちゃん2人が、大仰に頭を下げます。
M坊とぼくは、夕涼み連中が聞き耳を立てるなか、共通の友人や先生のことなど、といいながら、どんな会話をしたのか、よくは覚えていないのですが、後でその場にいた人たちに言わせると、ごくごく気の合った友人として話していたそうです。その間、ニイちゃん2人は、腰を落とし、目線を下げ、控えていました。
20分ほど話したでしょうか、M坊は「じゃあ、な。これから、人買いに行くんじゃ」
(ん? 人買い?)
ぼくがその意味を確かめる前に、M坊たちは夜の闇に消えて行きました。
夏真っ盛りの橋に立つたびに、あの夜のこと、得意げだったM坊の顔がくっきりと浮かんできます。
夕涼みの景色が消えたのは、それから間もなくです。
その後の、M坊のこと。
あの夏の日の前後、M坊はしきりに帰郷していたようです。その目的はリクルート(人買い)のためだった、と聞きました。
そして、10年ほどたって、M坊が亡くなったという風の便りも聞こえてきました。
ただし、ともに、不確実な情報です。
M坊との関係はまったく不明ですが、1965年といえば、その後、東映映画「仁義なき戦い」のモデルとなった「第2次広島抗争」の真っ只中でした。広島、呉などの暴力団の覇権争いが、中国地方進出をもくろむ神戸の「山口組」と「本多会」の代理戦争にエスカレートした、といわれています。それぞれの組は、勢力を誇り、保つために、全国から組員の補強を行った時代でした。
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