小説 匂い
昨夜、同窓会でかなり酔って宿に帰った晋吉は、「朝、入浴なさるなら風呂をたてますが」と訊ねられ、「じゃあ、八時半に」と返事をしたことをすっかり忘れていた。
目覚めて、ゆったり湯にでもつかりたいと考えたとき、枕元の電話が鳴って、「お湯の用意ができました」と若主人の声が伝えた。風呂うんぬんのかすかな記憶が呼びもどされた。なるほど、ネットで高評価されるほどの宿にちがいないとあらためて認識し、床の間に活けられた花や、壁にかけられた版画のさり気ない配置に目をやった。室内の空気が心地よく澄んでいる。
案内された浴室には、予想より大きな浴槽があった。湯はどうやら晋吉にだけ提供されたようで、かけ湯で確かめると見事に適温である。見えない配慮がここにも行き届いている。つかるとたちまち湯が肌になじんだ。
客室数は和室が7室と聞いている。2階屋の、木造旅館。木賃宿風でもなく、連れ込み風でもない。かつては町の人たちが広く利用した旅館であったにちがいない。
体は洗わずに湯に20分ほどつかった。晋吉の頭は水と相性がいいらしく、いつもであれば浴室では脳をフル回転させ言葉を呼び起こすのだが、体が浮いて溺れかけたことがあって以来、言葉が姿を見せなくなった。
十分に温まって立ち上がると、しなびた体を湯気が取り囲む。胸も痩せた、尻も痩せたと、苦笑しながらバスタオルでわが身を包む。体も心も現実から置き去りにされそうな感じ。そんな自分がいたわしい。
みそ汁と、アジの開き、厚揚げと里芋と蓮根の煮物などの朝食。このアジの開きは自家製? と訊ねたら、「ええ、昨夜の夕食の刺身の残りで」という答えが返ってきた。みそ汁の、とろとろを訊く前に、「この辺りの海のクロメです」と先を越された。飴色に漬かったらっきょうも甘酢の具合が格別であった。
何もかも宿まかせの朝は、心地いい。2杯、お代わりをした。濃い茶をすすっているときに、携帯が鳴った。
画面に、南裕二の名が揺れている。震える携帯の辺りで、湿り気を帯びた獣肉の臭いがかすかにただよった。腐りかけの、人を不快にする臭いだ。汚れのない宿に不似合いな臭い。妻の、周子を送ったときを思い出したが、その臭いではない。もっと遠い記憶に続く臭いだ。
出たいような、出たくないような気持ちを察したのか、携帯の鳴動が止んだ。ほっとして残りの茶を口に含んだとき、奥から若主人が出てきた。「お電話がかかっていますが、取り次ぎましょうか」と問う。南裕二にちがいない。「あ、ああ、誰からかは分かっていますので、こちらから、これでかけます」と返事をすると、若主人はうなずいて引っ込んだ。
不在着信の画面から、「電話をかける」をタッチする。
一呼吸をおいて、あの頃、と言って60年以上も前の、南裕二の、どことも知れぬ地方の訛りのある声がした。
「作家さんは、朝が遅いって聞いとるから、もうちっとあとがいいのやないかと思うたが、そっちを早う発つということもあるかなと思うてな」
携帯の音声が直接耳の奥にまで響く。いつまでたっても慣れない機械音だ。2呼吸ぐらいおいて、返答する。
「いや、飛行機は最終便やし、今日はゆっくりでいいんじゃ」昨夜の同窓会の後半から、子どもの頃の言葉づかいに戻っているのに気づき、晋吉は苦笑する。
「よう今日の飛行機が取れたな。10連休でチケットが取れん言うて、ゆうべ、東京や大阪から帰ってきた連中がこぼしてたのに」
「早めに同窓会を計画してくれた、からや」
晋吉は、出版社の編集者、伊東の顔を思い浮かべた。無理を言って往復のチケットを取ってもらった。
「ちっとは体も筆も休めて、古里でゆっくりなさってはいかがですか」と、同窓会の出席をじんわりとすすめてくれたのも伊東だ。
「で、なあ」と、南裕二は話を、自分に持っていった。
「今日、ちいと、話ができんか。聞いてもらいたいことが、あるんやけど」と甘えた風で言い、「何しろ、あんたとはもう何十年も話をしてないし、ゆうべも2人で会話できたんは、ちょこっとだけやったし」と続けた。
晋吉は、応えるのを躊躇した。南裕二の臭いが蘇ったからだ。しかし、今はあの頃から60年以上たっている。もうとっくに、あの当時の南裕二、ではないはずだ。
「裕ちゃん、俺を『あんた』って、言うことはない。たがいに、俺、お前で、いいじゃないか。第一、裕ちゃんが生まれたんは、俺より1月も前やし」と、子どもの頃何度も繰り返したことを思い返しながら晋吉は言った。
「そやけど、あんたのお父さんは、うちの親父の会社の上司やったし、あんたのうちのおやつは、うちとはちごうて、クッキーやら蒸しパンやら、おいしかったし」と、南裕二はまだまだ付け加えることがあるような口振りだったが、「けど、そんなあんなの頃のことも語りたいし、どうやろ、時間、取れんか」と話を戻した。
面倒な話は避けたかった。晋吉にとっては、多分、最後の長編になるだろうという、それもかすかに浮かんだ小説の構想を逃したくない時期だった。
登場人物に肉体と精神を与え、情景に登場させて言葉をつむぎだし、1編の物語に仕上げることができるかどうか、正念場だった。そのとき、書き手の脳細胞にもっともよくない影響を与えるのは、外からの不協和音だ。それに、このところ晋吉の体調は芳しくない。息の切れが乱れ、吐く息に雑音がまじる。
「なんやったら、今から、そっちに行っても、ええんやけど」と、南裕二が晋吉の腹のうちを探るように言う。
「ちょっと、待ってくれ。数分後に返事をする」と相手に告げ、晋吉は携帯を切った。そして、奥に待機している若主人を呼んだ。「友人と話をしたいのだが、ここに来てもらっていいか」と訊ねると、「チェックアウトが十二時だから、それまででしたら、どうぞごゆっくり」と言う。
壁の時計に目をやると、10時にあと数分だった。晋吉は携帯を取りあげて、南裕二の番号をタップした。かすかに不快な臭いを感じたが、たちまちのうちに部屋の清浄な空気が取り囲み霧消させた。
「10分以内に行く」という南裕二を、晋吉はそのまま食堂で待つことにした。
晋吉と南裕二は、この町ではよそ者だった。いや、正確には、晋吉と南裕二の父親は、というべきだろう。2人の父親は、戦後すぐに、外地から引き揚げてきた。ここのところは、まちがいないのだが、それが朝鮮半島だったのか、満州だったのか、あるいはほかの場所だったのか、あとになって子どもたちに知らされることはなかった。
それは、父親がどういう仕事にかかわっていたのか、ということも同じで、同じ研究所で何やらの研究にたずさわっていたことは確かであったが、その内容を聞かされたこともなかった。
日本に帰ってきた2人の父親は、外地の研究所の上役から紹介されて、この町の、化学品を開発しているらしい会社に職を得た。会社は、町のはずれにある屠殺場に隣接していた。
2人の父親は、毎日背広を着て出かけ、仕事場では、医者のような白衣を着用していることは、ほぼ毎日その白衣が洗濯して干されていることで分かった。
2人の父親は、ほぼ同じ頃結婚し、会社が社宅に借り受けている家に入居した。それは一戸建ての民家を無理矢理に2軒分に改造したもので、玄関部分は共有であった。南裕二の父親は晋吉の父親を「課長」と呼び、晋吉の父親は南裕二の父親を「南君」と呼んだので、あきらかに会社では上下の関係にあったのだろうが、母親同士は名前を呼び合う仲で、外見には、まるで1家族が住んでいるように見えた。
江戸時代、九州の東には小藩が分立していたが、この町もその1つだった。城下町の時代から住む者には、よそから移り住んだ者にきびしく接する狭量さがあったが、なぜか晋吉と南裕二の家族はその埒の外に置かれていた。そのことは両家には幸いした。両家の誰もが、町の人たちとの付き合いを望んでいなかったからだ。
朝鮮戦争が始まる頃、それぞれの夫婦に子どもが生まれた。南裕二が7月に、晋吉はその1月後と記憶していたが、正確には十日後に誕生した。
2人は、両家の子としてあつかわれた。それぞれの家に、同じ子ども用のふとんが敷かれ、同じ食器、同じおもちゃがあてがわれた。ある意味、双子以上に遇されて育ったといっていい。2人は、どちらかの家で食事をし、どちらかの家で眠り、どちらの家でも一緒に遊んだ。
立ち上がるのも、言葉を覚えるのも、南裕二の方が早かった。だからからか、南裕二が晋吉をリードし、かばい、守るというシーンがいつの間に当たり前になった。そのことを晋吉が望んだかというとそうではなく、成り行きのままにそうなった。
長ずるにつれて2人は、コマやパッチンに興ずる同年代の町の子たちの仲間には入らず、山や海、昆虫や植物などの自然に興味を持つようになった。社宅からは海も山もさほど遠くなかったので、2人は新しい遊び場所をさがして、小さな探検に出かけるのを楽しみにした。
ただ、2人には、父親たちからきつく言われていることがあった。それは、屠殺場の近くには、決して近寄ってはならぬということであった。ということは、父親たちの会社にも近寄るな、と言うことで、初めは奇異な思いで聞いていた2人だが、執拗に約束させられたので、言いつけを守った。
ただ1度、海に行く近道に屠殺場付近の山裾を、と言って距離的には幾分離れていたのだが、通ったことがあった。小高い丘の斜面に、スレート葺きの屠殺場が見えた。その向こうに、白いコンクリートの建物があり、2階部分からL字状の太い煙突が突き出ていた。どうやら、2人の父親が働く会社のようだ。
近づくにつれ、辺りにただよう臭気に2人は思わず両の掌で鼻を覆った。臭いはそれだけではなかった。5分ほどの間隔で、煙突から白い蒸気が噴き出し、辺りの臭気をさらに濃くし、大地に染みこんでいくのが分かった。
息を止めなければ耐えられない臭気から逃れようと、2人は駆け出した。臭気は塊となって背後から追いかけてきた。2人は振り返り振り返り、駆けた。
晋吉には、白い建物が悪漢どもの巣窟のように思えたが、そこに父親がいるとは考えたくなかった。
あの会社は何を目的とした会社なのか、どんな人たちが働いているのか、父親はどんな役目を果たしているのか。しかし、晋吉は家に帰ってそのことを訊きただすことはなかった。南裕二も同じだった。
誰にも問えない、共通の疑義をいだいて、2人の仲が深まったかというと、そうでもなかった。
南裕二は、きっちり10分後に宿にやって来た。そう言えば、晋吉とちがって子どもの頃から時間にはきびしかった。南裕二は案内されて、ダイニングテーブルの、晋吉の前の椅子にかけた。昨夜と同じ濃紺のスーツ姿だった。襟元がわずかにテカっている。茶褐色のネクタイの結び目がゆるんでいる。
南裕二は、60年の空白を感じないくらいに幼い頃の風貌を残していた。茫洋とした顔つきも、余分な肉がついた体つきもそのままだった。狭い額の下に、切れ長な目と小振りな鼻、ぷっくりしたくちびるが行儀よく並んでいる。
「おっ、うまそうやなあ」南裕二はテーブルに残されていたらっきょう漬けの壺に目をやった。「ここのは自家製やそうな」と晋吉が言う前に、爪楊枝で1つを取りあげると、ガリリと噛んだ。「朝飯、まだなのか」と晋吉が問うと、「泊まったビジネスなあ、ドアはよう閉まらんし、壁はシミだらけやし、飯もうまいはずがないようなホテルやったから」と南裕二が顔をしかめながら言った。朝食はすませていない、ということのようだ。そこへお茶を運んできた若主人に、これから朝食が用意できるかと訊くと、みそ汁と漬け物、玉子焼き程度ならというので、南裕二に「それで、どうや」という顔を向けると、うん、うんと口もとに笑みを浮かべてうなずいた。
「よう帰ってきたな」と、南裕二が言った。
「俺は途中で転校して、正確に言うと卒業生ではないから、これまで案内がなかったんだが、今回は最後の古希の同窓会だから、同じ年に入学した者全員に連絡をくれたらしい」と晋吉は答えながら、それにしても昨夜は話の薄い会話ばかりだったと思い返した。
晋吉に話しかけたのは、本を出している晋吉への興味がありありという者ばかりだった。こんなことならわざわざ九州に来ることはなかったと、昨日からの時間を思い起こした。
「あんたが出席すると聞いたんでな、俺も出ようと思ったんや。同級生たちに会うためやない。第一あの連中は俺たちを見ると鼻をつまんでよけて通ったやつがほとんどやったから、な」と南裕二は晋吉をまっすぐに見た。
晋吉も、同級生たちとの間に見えない壁をしばしば感じていた。おとなたちからも同じ視線を感じることがあった。
南裕二の一家も、晋吉の一家も、町の人たちとは表向きの付き合いに終始していた。つまり、積極的に町に溶けこもうという風にはなかった。
「ようけ、あんたの本、本屋に並んどる。うれしいこっちゃ」と、南裕二は上着を脱ぎ、椅子にかけて言った。そこへ、食事が運ばれてきた。
南裕二の食事がすむまで、晋吉は若主人のすすめで、庭に面した廊下のソファで過ごした。庭は広くはなかったが、木や草がほどよい密度で植えられ、自然な手入れが行き届いていた。右端に薄緑色のガーデン用のテーブルと椅子が置かれている。
白いツルバラの横に、存在感の薄いアケビと鮮やかな紫のカンパニュラが花をつけていた。丹念に見渡すと、奇妙なほどに雑多な種類の木や草が植わっている。一見それぞれが主張しているようだが、仔細に見ると調和が取れている。それは、この旅館の建物にも、部屋の設えにも、もてなしにもいえることだ。
南裕二と晋吉の家族の関係も、そうだったと庭を見ながら晋吉は考える。実の親子以上に、兄弟以上に仲睦まじかったが、それは自分たちのためと言うより、外に向けての防御姿勢だったのではないか、と感じたことがあった。
自分と南裕二の間柄もそうだった、と晋吉は思った。性格もちがう、思考もちがう、興味もちがうのに、2人でいるときは、晋吉は南裕二であり、南裕二は晋吉であった。それが疎ましいとも、暑苦しいとも感じなかった。ただし、それはあくまでも2人でいるとき、だった。
だから、ある時から、晋吉が、2人でいることを避けたいと望むようになっても不思議ではなかった。
あの夜、晋吉は、背中合わせに眠る南裕二からかすかな獣の臭い、それも腐りかけた臭いを嗅ぎ取ったのだ。
山遊びのあとに噴き出た汗の匂いではなく、運動をして拭ったタオルの匂いともちがう。確かめたわけではないが、南裕二は晋吉より早く精通を迎えたようだが、その年ごろの男の匂いでもない。やがて晋吉も同じ経験をしたので、そんな匂いならあとで理解できたはずだ。
南裕二が発した臭いは、そのまま放置すれば自らが朽ち果ててしまうようなただならぬものだった。
そして、その臭いは、徐々に頻繁になり、やがて南裕二の体臭になった。不思議だったのは、南裕二から臭いのことを言い出すことはなかったし、周りの者が気づいた風もないことだった。
その頃から、晋吉は南裕二と隣り合って寝ることを避けるようになった。寝るだけでなく、行動を共にすることも徐々に減った。というより、寝る暇を惜しんで本を読みあさっていた晋吉には、南裕二という存在が薄れつつあった、と言った方がいいかもしれない。本を相手にしているときの晋吉は、脳内を空っぽにして、小説の文章や文字で埋めつくしたかったのだ。
中学3年になった春、晋吉の父親が会社を辞め、東京の私立高校の化学の教師になった。南裕二と晋吉はろくに別れの言葉も交わさず、あわただしく、と言うよりそっけなく別れた。晋吉は、それまでの間柄にふさわしい別れだった、と思った。
南裕二と晋吉の関係はそれきりで、60年近い年月が経過した。その後の南裕二を、晋吉は知らないままだった。
食事を終えたワイシャツ姿の南裕二を若主人が廊下に案内した。上着は若主人が預かってハンガーにかけたらしい。晋吉が、3、40分したらコーヒーを頼みたいと言うと、コーヒーは午後に焙煎の予定だから、ココアではどうかと若主人が訊いた。話の内容によっては、そちらの方がいいかもしれない、と晋吉は思った。
「今、住んどるのは、鎌倉じゃて?」と南裕二が問うた。「ああ、家内の療養がてら、東京の都心から引っ越した」と晋吉は答えた。
「その、奥さん、亡くなったって?」と南裕二。
「ああ、去年な」と答えた晋吉だが、病弱だったものの、妻の死があまりにも突然だったので、いまだに心の整理がつかずにいる。
あれほどに人の死を小説で書いてきたのに、長年暮らした妻の死からどんな言葉も生まれてこない。自分が書きつづった死は、あくまでも第三者の目で見た死であった。そこでは、いくらでも死を修飾して語ることができた。
しかし、現実の死は、なかなか過去になってくれない。仏壇に置かれた遺骨は、晋吉にとっては妻の生々しい肢体の変形にすぎない。抱きしめれば、抱きしめ返してくれる、という思いが去らない。
「で、裕ちゃんの方はどうなんだ、結婚は?」と、庭を見ている南裕二に、晋吉が首をほんの少し傾けて訊いた。
「俺が高校3年のときにな、あの屠殺場が閉鎖されたんや。あの臭い会社ものうなって、たちまち親父は失業者や。お陰で、あの臭いを家に持ち帰ることはのうなったが、な」と、南裕二が小声でぶつぶつと話す。
南裕二の父親は、あの臭いを家庭に持ち帰っていなかったはずだ、少なくとも一緒に住んでいたときはそうだった、と晋吉はいぶかったが、口には出さなかった。
「俺たち一家は温泉町に引っ越した。俺も転校した。温泉町は、人だけやない、いろんなものが流れ着いた吹きだまりの町や。誰もが何とかなる町やが、金のないやつ、力のないやつは、じわっと沈んでいく」
ここは南裕二の話を聞くしかない、と晋吉は思った。「親父は客引きになった。昼間は駅や汽船の乗り場で旅行客に宿屋を斡旋し、ネオンがともる頃には街に繰り出した浴衣姿の酔客を、女のおる飲み屋に案内する。温泉町が繁盛した最後の時期だ。いい稼ぎになったようじゃ」 南裕二は、自分の記憶を刺激しながら話している風だった。
「じゃが、ようけ稼ぐには、裏の筋の者とうまくやらんといかん。そして、一旦その筋と馴れおうたら、なかなか離れられんようになる。親父が忙しいとき、俺も使い走りの手伝いをしてたんじゃが、これがいかんかった。その筋の者に声をかけられて、だんだんに付き合いが濃くなった。なんせ、あいつらは弁は立つし、かっこもいい。いつの間にか、俺の方から近寄って行って、見習うようになった。学校も行かんようになった」と、南裕二はここで言葉を区切った。「じゃから、結婚なんて、できん人生じゃった。結婚できん同士の女の何人かと暮らしたが、ね」。南裕二はため息まじりに言うと、晋吉を見た。
やれやれ安っぽい一代記がこのあとも続くかと、と晋吉はうんざりした。子どもの頃の友がヤクザな一生を送り、それを聞いている自分の陳腐さがやりきれなかった。
しかし、南裕二の話はそうは進まなかった。
「ある時、俺は、俺の体の臭いに気づいたんだ。腐ったような、いやな臭いだ。風呂でなんぼ洗うても、すぐ臭うようになる。女の白粉と酔っぱらいの小便やゲロが染みこんだのかと思ったが、どうやらそうじゃない。俺の内臓が腐りかけとるんやないかと思うて、病院で調べてもらったこともある。一緒にいた女に、どうや、俺の体の臭いが気になるやろと訊ねたら、それはあんたが激しすぎるからや、なんてチャラが返ってきた」と、南裕二は辺りをうかがう風をした。
黙って聞いていた晋吉は、短く訊いた。「病院って、何科を受診するんだ?」
「一つの病院だけじゃなく、いろいろと行ったよ。初めは耳鼻咽喉科。それから神経科や心療内科。ありもしない臭いで悩まされている患者はほかにいるのも確からしい。うつ病とか分裂病、パーキンソン病や認知症のときも、幻嗅というのだそうだが、そういう症状が現れるそうだ。だが、俺の場合は、そのどれでもない、と言われた。つまり、原因も分からんし、病名もつかん、ということだ」と、南裕二は口早に説明する。
「耐えられん臭いなんか? その、裕ちゃんの臭いは」と、六十年前の臭いと、電話がかかってきたときに携帯からただよった異臭を思い返して、晋吉が言った。
「いつだって臭うわけじゃない。それも、わずかに臭うときと、強烈に発散されるときがある。ただ、それが、俺にしか感じないことだ」と南裕二は言うと、晋吉の顔をまじまじ見つめて言った。「あんたは、そんな経験、ないか?」。
「ん? 俺? なぜ、俺に訊く?」と、晋吉が訊き返した。
「いや、そうじゃないかと、思っただけだ」と南裕二は晋吉の顔から目をそらした。しかし、すぐに晋吉の顔をのぞきこむように言った。「俺たちの親父は、あの工場で一体何をやってたんかね? それに、戦時中、外地で何の研究をやってたんかね?」と言った。南裕二は「俺たちの親父」というところを強調した。
「俺は親父が生きているうちに訊きただしておくべきだったと後悔している。そうすれば親父の過去が俺の現在に忍びこむことはなかった」と、南裕二は吐き捨てるように言った。
そのとき、甘い香りが晋吉の鼻に届いた。お盆を持った若主人がココアを運んできた。「そこに下駄がありますので、よろしかったら庭におりることもできます」と、若主人は石の踏み台の下駄を指しながら、ささやくように言った。
2人は、黙ってココアをすすった。噛みしめると、口の中で甘さと苦さが混じり合い、飲み込むと仲よく胃に落ちた。潔いココアだ、と晋吉は思った。
先に飲み終えた南裕二は、晋吉を見ずに言った。「東京に出るときほっとしたんじゃろ。俺の臭いから逃れて」。
言われて、晋吉はハッとした。気持ちよく胃に収まっていたココアが逆流してくるのを察し、晋吉はカップを盆に置いた。
庭に出ると、木や草を取り囲んでいた空気が2人を包んだ。上空の太陽が小さな柱となって庭を照らしている。晋吉は、下駄の鼻緒の先でちょこまか歩く靴下の南裕二を振り向いて言った。
「裕ちゃん。空気のきれいな所でしばらく暮らしてみてはどうだ? 山の中で、大きな木に囲まれて、オゾンいっぱいの場所なら、ちっとずつ臭いが気にかからんようになるかもしれんぞ」
その言葉を口にしながら、つまらん思いつきだ、と晋吉は自分が腹立たくなった。言ったあと、あわてて付け加えた。「冗談やけど」
「いや、逆だと思う」と、南祐吉は晋吉が意外に思うほど真剣な顔つきで言った。しかし、それから先には深入りはせず、話題を変えた。
「作家というのは、いろなことを調べるんやろ? 調べたあとで書くんじゃろ?」と南裕二が言うので、仕事のことは話したくなかったが晋吉は仕方なく、「まあな」と答えた。
南裕二はさらに問うた。「俺たちが会ったこともない、いろんな専門の人たちとも会うんじゃろ?」
南裕二の真意を推しはかることができなかったので晋吉は、「裕ちゃんが考えるほどじゃあないと思うよ」とあいまいに答えた。
晋吉がヤマボウシの下の椅子に座ると、南裕二はテーブルの反対側に腰掛けた。小さなつぼみをたくさんつけたヤマボウシの枝先が風にそよいでいる。足もとには山吹の黄色い花が揺れている。
「あんたは、人が死んでこの世から姿を消す、それも誰にも知られずに、という小説を書いたことはないか? あんたでなくとも、日本でも外国でもいい、そういう作品を知らんか?」と南裕二が言い、さらに奇妙な問いに付け加えた。唐突な話の始まりだった。
「最終の目的は、死ぬことじゃない。一切の自分の形跡を消すことが目的なんじゃ。それも、誰の力も借りず、自力で、というよりごく自然に、だ、誰もが、その人の死や、その人の存在が消失したことに気づかない」
そこまで一気に言うと最後に「俺は本気なんや」と短く言った。
晋吉は、何も応えなかった。と言うより、答えようがなかった。庭に目をやると、しんとしている草花の集まりとにぎやかな草花の集まりがあり、たがいに牽制しあうように揺れている。
そこへ若主人が、「寒かったら、これをお召しください」と、二人に羽織を持ってきた。そして、袖に手を通している2人に、「あとで熱いほうじ茶でもお持ちしましょう」と言った。
若主人が去るのを見やりながら南裕二は、「このことは人類史上画期的なことだぜ。そう思わんか?」と、晋吉の顔をのぞきこんだ。
「裕ちゃんの言うことが、よう理解できんのじゃが」と、晋吉が幾分鬱陶しそうな口調で言った。
「あんたは死期をさとった象がみずから象の墓場に行くって話は知っちょるじゃろ。その墓場のある場所は誰も知らんという話」と南裕二は言い、さらに付け加えた。「でも、これは俺の言っていることとはちがう。富士山の樹海に入って、遺骸が発見されないでいる、というのと同じだ」
南裕二はさらに続けた。「俺が望むのは、安楽な死と、遺体と、できればその人が存在したことまで消し去る装置、システムと言っていいかもしれない、そういうものはないか、ということだ」
南裕二は、これまでとは言葉づかいも口調も変わった。別人になったのではないか、と晋吉は思った。
「自殺幇助装置、自殺幇助システムというわけか?」と晋吉は訊ねた。「それなら、金を積んで、反社会団体に頼めば可能かもしれない。やつらは金のためなら、親分が命令さえすれば、ちゃんと命を奪ってくれて、遺体は誰の目にも触れない場所に処分してくれる。その筋の話は裕ちゃんは詳しいのじゃないか」
「いや、俺が言うのは、装置やシステムの手は借りても、人の手は借りずに、ということじゃ。だからあんたの考える方法とはちがう」と、南裕二がかぶりを振る。
「たとえ、そういう装置やシステムがあったとしてもだ、人が望めばいつでもこの世から自分を抹殺できることになる。これは、人類には危険で過激な道具、つまり非人間的、反社会的な手段ということになる」と、晋吉は顔をしかめて言った。
「でも、人間の、最高で究極の自由である、とは言えんか。神なんか吹っ飛ぶんじゃないかな」と、南裕二は持論に執着している。
「人には、人が背負いきれないほどの苦しみを背負って生きている人がいる。その人や近親者がどれだけ努力しても、また社会が救いの手を差し伸べても取り払うことのできない苦しみだ。その苦しみを負った人たちに、どんな状況にあっても、生きることこそが人間の最高の目標である、と言い切れるか。人は社会的な義務を負う存在だが、それ以上に自由な存在だ。義務は人が集まって作ったものだが、自由は人が生まれながらに備わったものだ。自由は人間の意思でいつでも行使できるべきだ」と、南裕二は雄弁に語る。
南裕二の主張はまちがっている、詭弁を弄している、と晋吉は思う、初めから折り合いがつかいない主張を展開している南裕二に、何があったのだろうか。
「もう、この話題はよそう。俺は、こんなことを話すために裕ちゃんに会ったんじゃない」と、晋吉は強い口調で言った。
「分かった」と南裕二があっさりと同意した。「実は、あんたにおりいって頼みたいことがあってのう。そっちの話を聞いてくれんか」
何だ、やっぱりそうくるか、と晋吉は予想していた展開にがっかりした。
「2つあってな、あとの1つはできれば、でいい」と南裕二が先に結論らしいことを言う。
そのとき、若主人の母親が廊下から庭におりてこちらにやって来た。両手で盆をささげている。朝食の配膳をするとき、「おかみさん」と呼んだところ、「私はここの主人、つまり息子の使用人です。ですから、おかみさんはもったいない呼び名です」と言われたことを思い出した。
運ばれてきたほうじ茶がありがたかった。添えられた柚子の皮の砂糖煮も、茶の香りを打ち消すことなく、口の中を豊かにした。お茶と柚子は、2人を打ち解けた気分にした。あたりの空気もゆるんだ。
「俺を、覚えていてくれないか」と、南裕二は言った。そして、「これが、第一の頼みじゃ」と続けた。
「どういうことだ?」と、晋吉は問い質した。
「俺がこの世から姿を消したら、俺はすぐ忘れられる。というより、俺にとってこの世の人とは風のように会い、風のように去っていっただけの人なんだ。だから、誰一人俺のことは思い出さないし、懐かしいと思ってくれる人もいない」と、南裕二が言う。これも、理解に苦しむ言い分だ、と晋吉は思う。
「先にも話した臭いのこともある。それに俺がほかの人たちとは何の徴を残さないように生きてきたせいでもある。俺は世間の人からはいつも素性不詳の男だった。悪人でいるより、こっちの生き方がむずかしいし、悲しい」と南裕二は口もとをすぼめた。少しひよっとこ顔になった。
「だからって、皆が皆、裕ちゃんのことをすぐに忘れてしまうわけでもないだろう」と晋吉が言うと、待ってたとばかりに南裕二が言った。「人気作家さんには分からんやろが、俺のような社会のシミにもならん人間、案外多いんやないかな」
「俺は作家なんかじゃない。世間に媚びた物書きや。言うたら、テレビに出てるタレントと同じような存在や。書くのを辞めて1年もしたら、どこの本屋のどの棚からも俺の本など消えてなくなるだろう」と、晋吉はかなり本気で答えた。「俺は、世間から忘れ去られても平気だよ」
「自分のことを、誰かが覚えてくれているって、そう考えるだけで、うれしいことだよ。そんなこと考えたこともなかったが、最近そう思うようになってなあ。それなら、晋ちゃん、あんたただ1人しかない……」と、南裕二はとぎれとぎれに言葉を重ねた。
「裕ちゃん、お前、どっか体、悪いんとちがうか?」と、晋吉は急に思いついて南裕二に訊ねた。裕二は返事をせずに、ヤマボウシの葉のそよぎを見つめたままだった。
「裕ちゃんの気持ちがいまいち分からんが、1つ目の頼みは分かった。当たり前と言えば当たり前のことだが、俺は裕ちゃんのことを覚えておく。約束する」と晋吉が答えると、南裕二はうんうんとうなずくような素振りをした。「これで同窓会に参加した甲斐があったよ」
「2つ目の頼みは、断ってくれていい。はなから期待してないし、無理な頼みじゃということは、自分でもよう分かっとる」と南裕二は言い、しかし、そのあとの言葉をさがしているように口をつぐんだ。晋吉も黙ったまま、もつれながら飛ぶ二羽のシジミチョウを眺めていた。
「インドに、一緒に行かんか?」と、南裕二がややうわずった声で言った。「俺はインドに行くと、決めとる。そこで、消える。それを晋ちゃんに見届けてもらいたいんや」
「インド?」と、不意をつかれたような気分で晋吉が訊いた。
「そうじゃ、インド。ガンジス川の聖地。苦しみから解き放たれるための町じゃ」と、南裕二が言う。「巡礼者たちの弔いのために、24時間祈りがささげられている町じゃ」
「バラナシ、のことか」と晋吉が問うと、「さすが作家じゃ。そう、そのバラナシ」と、南裕二は答え、さらに続けた。
「さっきあんたは俺の臭いを消すにはきれいな空気の所で、と言ったが、俺は逆に考えとる。人間の、生きている臭いと死ぬ臭いが、何の加工もされないで混じり合っている場所が一番いいんじゃないか、と思うとる」
「裕ちゃんは、神様を信じるのか? 神様を信じる宗教を認めるのか?」と、晋吉が南裕二に訊く。
南裕二はやや早口で答えた。「俺は他人の神を信じない。でも、俺の中には、確かに俺の神がおるような気がする。その、俺の神がインドへ行け、と言うとる」
晋吉はうなずくしかない。
南裕二はさらに言う。「俺は、いい死に方、悪い死に方、なんてない、と思う。ただ、自分にやってきた死には逆らいたくはない、と思う」
子どもの頃の友人とこういう会話をしている自分が、晋吉には奇異に感じられた。そして、わずかに鼻息を荒くしてしゃべっている南裕二をインドに向かわせるものは、多分、回復が望めない病魔のせいではないか、と確信する。そのことを先ほど訊いたときには、答えが返ってこなかったことを思い出した。しかし、晋吉はそのことをさらに訊こうとはしなかった。
「金はあるのか」と晋吉が訊ねると、「物見遊山の旅行じゃないから、そうたくさんはいらんじゃろ」と南裕二は軽口をたたく風情で応じた。
元号が改まった年の初冬、南裕二は東京、神田にいた。
同窓会があってから8か月が過ぎていた。東京には何回か来たが、神田という町は初めてである。
南裕二は、伊東という出版社の編集者から言われたとおり、羽田から指定された喫茶店にはタクシーをつかった。タクシーはぜいたくだからモノレールと電車で行こうと考えたり、タクシーを降りるとき領収書をもらったり、そこまで気をつかう自分がおかしかった。
喫茶店は、大手出版社のビルが並ぶ大通りの、一筋奥まった通りにあった。タクシーを降りると、目の前にジャングルを思わせる緑色の壁が待ち受けていた、その中央に小さな入り口があり、中に入ると、さらにジャングルを分け入ったような壁画が続いていた。まっ赤な巨木が描かれ、その脇の湖で女性たちが水浴をしている。強烈な色彩の世界に放り込まれた南裕二は、スタッフに名前を告げるのが精一杯だった。スタッフは一番奥の青いテーブルに案内した。そこに、伊東がいた。
首が太い、というのが初対面の、伊東の印象だった。首が太いということは、その上の顔も、下のボディもがっちりしているということで、おまけに短髪ときているので、元柔道家という雰囲気をただよわせている。しかし、ぶっとい腕の割には指先の爪が小さいことに、南裕二は気づいた。それで、南裕二は伊東から威圧感を感じなかった。
伊東は低い柔らかい声で言った。
「東京までご足労願って、申し訳ありません。今、仕事上、どうしても東京を離れられなくて」と伊東は言い、そのことよりも南裕二の関心が店のデコレーションにあることを察し、「ここは、ある女優さん、いや美術家と呼んだ方がいいかな、その女性が30年以上かけて描き足しながら店をアート作品に仕上げているのです」と説明した。
「落ち着きませんか?」と問う伊東に南裕二は返事をしなかった。
「この店はオリジナルのシュークリームがうまいのです。それとコーヒーでよろしいですか」と伊東が問うたが、これにも南裕二は黙ったままだった。ただ、それでは伊東に悪いので、あとで小さくうなずいた。
そして、唐突にといった風に、南裕二は晋吉と同窓会の翌朝交わした話を始めた。自分が発する臭いの話、この世で生きたことすべてを消去する話、自分を記憶にとどめて欲しいという願い、そしてインド行きの話。臭いの話は本当のことだったし、インド行きの話は伊東から依頼されたことだったが、ほかは南裕二の創作だった。
長い話のつもりだったが、飛行機の中で何度も整理してきたことを復誦する感じで、それほどの時間はかからなかった。伊東は、晋吉と南裕二の少年時代の話を興味深く聞いていたようだった。
南裕二が話し終えると、伊東は「電話では、何度もお礼を申し上げましたが、私がもくろんだ以上のことをかなえてくださって、感謝しています」と言いながら、かたわらのビジネスバッグから封筒と小さな木箱を取り出し、南裕二の前に差し出した。
「初めに、ビジネスの話をすませます。こっちに」と封筒を指し、「世界中のどこでもつかえるカードが入っています、もちろん、南裕二さん、あなたの名義で」と南裕二の顔を見て、「お約束した金額が入っています。もちろん現金化することもできます」と伊東は言った。
「こちらは」と小さな箱を南裕二の方に押しやると、「作家、北晋吉先生と奥さまの遺骨です。遺骨といっても、小指の爪ほどの大きさです」と、伊東は言った。南裕二は、伊東の小指の爪に目をやった。
「あなたに差し上げた金額を除く北晋吉先生の遺産のすべては、文章を書くことが好きな小学、中学生のために役立つ基金とするよう、弁護士と協議中です」と伊東は一気に言い、継ぎ足した。
「このことは病状が深刻な状態になった頃、北晋吉先生から申し出があったことです」
「それにしても、私のことを、よく捜し出しましたね。晋吉君とはずっと疎遠だったのに」と、南裕二が一番訊きたかったことを口にした。
「あ、それは簡単でした。北晋吉先生は生まれ故郷のことは一切書いていません。エッセイにさえ書いていません。不思議に感じた私が、北晋吉先生の生まれ故郷のことを、先生には知られないように調べたことがあるのです。出版社の編集者は、まあ、地方にもいろいろとルートがあって、何かを知りたいときにはそれを利用します。ですから、北晋吉先生の家族が、あなた方家族と同じ屋根の下で暮らしていたということ、北晋吉先生とあなたが同じ年に生まれ兄弟のように育ったことも、メモとして私の手もとにありました」
コーヒーとシュークリームが運ばれてきた。南裕二はコーヒーを一口すすった。伊東もそうした。そして、伊東は客やスタッフが近くにいないことを確認するためか、店内をぐるりと見渡した。
「北晋吉先生の余命がわずかだと診断したのは、私がご紹介したお医者さんでした。その医師はひそかに私に伝えてくださったのです。近親者に伝えるのが通常ですが、奥さまを亡くされたあとの先生には、これというお身内の方がいらっしゃらなかったからです」と、伊東はテーブルに向かってつぶやくように言った。
「私は……、そのことを先生にはお伝えしませんでした。そして、ただ北晋吉先生が安らかにそのときを迎えることを考えました」
伊東は南裕二の表情をうかがった。南裕二は、伊東の視線がこれ以上のことを話すべきか判断している、と感じた。伊東は、左手の薬指の指輪をいじった。
「おひとりで死に向き合うことは大変な苦しみがともないます。私は、北晋吉先生にはできるだけ長く、死を非現実のままにしておきたかった。私がお話しなくとも、もし日常の中でかすかにそれを感じたなら、少しでも苦しみを和らげて差し上げたい。そういうことを考えていたとき、先生の机の上に中学の同窓会の案内状があった。それに目をやったとき、ふとあなたのことが頭に浮かんだのです」
伊東は、手つかずのシュークリームの皿に目をやった。
「北晋吉先生には同窓会の出席を強くおすすめしました。その裏で、あなたにご連絡を取り、一芝居を演じてもらった、と言うわけです」と、伊東はテレビの土曜ワイド劇場で犯人に向かって事件のからくりを語る警部のような言い方でとつとつと語った。
「北晋吉先生は、同窓会の翌日あなたに会ったということは、私には一度もお話されませんでした。まあ、私があなたのことを知っていることをご存知ないから、当たり前のことですが」伊東は、南裕二の顔をまっすぐに見た。そして、いささかの逡巡のあとに言った。
「実は、北晋吉先生は、長編小説の構想を持っていました。旧日本軍の、生化学実験です。私にはそれ以上のことは分かりませんが、邪悪で、人道的に許されない内容だと思います。北晋吉先生には初めての純文学作品です」
作家の北晋吉は、父たちの研究が何であったかを調べ、ある結論に達したのではないか、と南裕二は考えた。それは臭いがともなうものだ。そこに身をおくと、その人に染みついて、ほかの人が気にならなくても、その人にとっては逃れられない臭いだ。その研究を課せられたのは、選別された人たちにちがいない。選別される人がいることは、選別する人がいることだ。選別する人とは、誰か。それは特定の人たちであり、案外、歴史そのものかもしれない。
「私は、病状の進行具合から見て、北晋吉先生はこの本を完成させることはできない、と判断しました。作家が筆を断つということは、自ら死を宣告するに等しいことです。状況をさとった北晋吉先生は体力も気力も見る見るうちにおとろえていきました」
ここで、伊東は力ない咳を一つした。
「で、ついにベッドから起きあがれなくなってしまいました。そんなある日、病室を訪れた私に北晋吉先生は、突如、あなたのことを口にされたのです。インドに行こうとしている友人がいる。ぼくは、彼にその資金を援助したい。そして、彼に、ぼくと妻の遺骨の欠片をインダスに流すよう頼んで欲しい、と」
「晋吉君の本名は九十九(つくも)なのに、なぜペンネームに『北』をつかったのでしょう。九十九の方が断然いいのに。このことは同窓会のあと本人に訊こうと思いながら、つい訊きおとしたのです」と、南裕二は伊東に訊いた。
「私には分かりません。案外、南さんを意識してつけたのかも知れませんよ」と、伊東はすらりと推理した。
「ところで、晋吉君の最後がどうだったのか、聞かせてください」と晋吉が訊くと、ちょっと間をおいて伊東が言った。
「自宅のマンションで、24時間派遣の看護師に看取られて亡くなりました。医師が駆けつけたときは、息を引き取ったあとでした。看護師には、くれぐれも香をたくのを絶やすな、と。これが最後の言葉だったようです」
「香?」と南裕二。
「ええ、北晋吉先生は、ご自身から発する臭いを気になさっていました。『細胞は1か月ごとに入れかわるのに、ぼくの細胞はもう新陳代謝をしていない。このうらぶれた細胞から得体の知れない臭いがぷんぷんしている』と。私たちの鼻では感じなかったのですが」
それは、差し迫った死の臭いではない、と南裕二は確信した。俺と同じ、あの屠殺場の、あの建物から噴出する臭いだ。1度嗅いだら、取り憑いて離れない臭いだ。
やはり晋吉は人生の最後に、自分と同じ臭いを共有していたのだと、南裕二は思った。同じ土壌で育った2本の若木は、長い空白の時間を経て、枯れる間際にたがいの姿をさらしたのだ。
そもそも、俺はこれまでに、人に親近感を持つことはなかった、と南裕二は回想する。人と人には共通するものなんて絶対にない、と考えていた。しかし、南裕二は今、人の心にわずかな温かみを感じている。
「ところで、インドにはいつご出立ですか。どのくらいのご予定ですか」と、伊東が問う。
南裕二は瞑想から覚めた風にちょっとうなずいて答えた。
「この遺骨を預かったので、すぐにでも。それから、私は帰ってくるつもりはありません。向こうで自分自身を消し去るつもりです」
インダスにゆだねればすべてが終息する。おぞましい臭いからも解放される。その瞬間に、記憶の襞に引っ掛かった棘がはずれ、何もかもがうまくいく。
南裕二は、シュークリームの皿を引き寄せた。