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 病床で横たわる母の姿を覗き込んでいるのが、とても不思議な感じに思える。

 どんな時も小さな体で直向きに生きて、時には叱りながらも、どんな時も優しく包みこんでくれた母が弱々しく病床で私に懇願し話した言葉は「今すぐ家に帰りたい…」私にすがる思いで、そして「先生にお願いして!」と…。

 点滴や色々なチューブが付けられながら懇願し、僕はその姿に涙を堪えながら、「今日は無理だけど、お医者さんにお願いするね」と叶う事が無い事を知りながらも優しく嘘をついた。
 母は「今、家に帰りたい…」と、目を閉じて涙を滲ませながら言ったけれども、いろんなチューブや点滴を私は取外す事が出来ずに、「明日、家に帰れるからな、おほくろ…」
 戸惑いながら母の居る病室を離れた。


 その日の夜、もはや立つ事もままならない母が渾身の力振り絞り点滴を外しベットから降りたものの、歩く事が出来ずにペタンと座っていた事を病院からの電話で知らされた…。
 病室に駆けつけ僕は母へ声をかけようとしたけれども、スヤスヤ寝ていて…、一時の安心と何かざわざわする気持ちを抑えながら病院を後にした。

 
 浅い眠りから目を覚まし仕事が手につかないけれども、無理でも気を張って会社員の僕は会社へ向ったが、やはり何をしていても母の事を考えてしまい、まるで少年の様に弱々しい55歳の髭面のおっさんの自分自身に気付いた。
 仕事を早々に切り上げて母の横たわる病院へ行き、髭面で母の元に行き「おほくろ…」と言うと、母が弱々しく声を振絞りながら返ってきた言葉は「どちらさん…?」と真顔で言われ、僕は一瞬頭が真っ白になったけれど「孝之だよ」と…。
 すると母が「どちらから、来ました??」
 髭面の私は「海の見える町から、来ました…。」
 すると母はニンマリして「良いね…」
 既に息子の私の事すらわからないけれども、母と住む海の見える町はおぼろげに覚えている様で…。
 寂しく辛い気持ちを誤魔化しながら「海の町は僕も好きだよ」と震え声で言うのが精一杯だった。
 それからは、母の声を聞く事は無かった。
 

 数日後、勤務先で僕の携帯電話がブルブル震え携帯画面には、総合病院の表示がされた。
 「坂本さんですか?、小池ですけれども…、医療方針についてお話したいのですけれどもお時間いただけますか?」
 その日、午後6時に総合病院に行くと想定内の事が小池医師から言われた「食事が出来ないので、胃ろうをしますか?、首の血管に栄養を入れる事も…」と、丹念な医療技術の説明は続けられた。
 「先生、それは母を痛めつける事にはなりませんか…?」と、素朴な疑問を小池医師にぶつける。
 立つ事も座る事も出来ず、歩く事もままならず、食事や水さえも喉を通らない、そんな母は記憶や声も失ない話す事も…。
 時折、見せる母の眉間のしわは、何かを訴える様に辛さだけを感じさせる。

 「積極的治療せずに…、痛み止めの薬だけを投与しましょうか?」と話す小池先生に、複雑な思いで頭を下げた髭面の僕の目から透明な塩っ辛いものが流れて…。

 母の死を覚悟したと髭面な僕は思い込んでいたが、現実にその瞬間を目の当たりにした時、何一つ覚悟していなかった事に気付いた。
 病床で辛苦のシワを寄せる事なく、母の穏やかな死に際の顔は、幼い頃から慣れ親しんだ優しい顔だった…。

 小さな体で精一杯生きた母の作り出した僕の心の穴は、注がれた愛情だと今更ながらに感じる。
 
 幼い頃に僕が「かあさん、ケガしちゃた」と言うと、「痛いの痛いの飛んでいけ〜」と魔法の言葉ををかけてくれた母は、僕の心に鮮明に…。

    ー おしまい ー
 
 
 
 
 
 

 
 
 

 
 
 
 
 


 
 
 


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