短編小説:迷走する価値観
「おすすめの本教えてくれない?」ホットコーヒーを一口すすり、夏美が訊いてきた。それを見て僕も一口。
僕にとって難しい質問だった。本を読むと語彙力や読解力がつくというがそれはおそらく本当だ。しかし身に付くものはそれだけではない。身に付くというより、読書をすると自分という人間の悪い部分が見えてくる。
不幸なことに、人は良い部分を当たり前とし悪い部分にどうしても目を向けてしまう。僕も例外ではない。読書を通して自分の悪い部分に目を向けてしまった。
僕は自分だけの価値観で、目の前にある本の面白さを判断することのできない人間だった。
信頼している人がおすすめしている本なら面白いし、僕が古本屋で買ってきた本はどうも面白く感じない。
何か嫌な予感がする。心臓のどこかにナイフが刺さっているのだが、どこに突き刺さっているのかが分からない。ちなみにこのナイフは2年ほど前から刺さっている。
僕は恋する学生と同じように思い詰めすぎなのだろうか。僕は自分の感性がとても貧しいのではないかと、夜も眠れなくなるほど不安を感じていた。気のせいだろうか。いや、恐らく気のせいではない。
このことを夏美に相談すると「信頼されるような人なんだから本のセンスが良いんだよ。面白くて当然じゃん」と言った。
「それはあるかもしれないけど、センスが良いで終わらしちゃいけない気がするんだ」
夏美はコーヒーを一口すすって言った。「おすすめ動画とか観なきゃいいじゃん」
「あぁ、動画は観ないことにしてるんだけど、いろんな場所に隠されてるんだよ」
「隠されてる?」夏美が首をかしげた。
「あぁ、人の感性を歪めるようなものさ。本だったら帯に『〇〇さんおすすめ!』って書いてあるし、アマゾンだったらレビュー数とかだね」
「アマゾンのレビュー数はありがたいよ。変なもの買って損とかしたくないし」
「実用品だったらありがたいんだけど、本にレビュー数がつけられると僕の感性が歪むのさ。先入観に歪められるというか・・」
「わがままな人ね」夏美は呆れたように言った。
「企業は売上を伸ばすためだったらなんだってするのさ」
「その企業に結城くんが悩まされてるってわけね」
「そう、なんだか悔しいよ。企業は客に面白いと思わしたいのさ。そうすれば評判が広まり売上も上がる。企業は客に面白いと思わせるためにどんなトリックでも使う。だから僕たちはそのトリックを見破り自分だけの感性でその作品と向き合わないといけないんだよ」
「なんだか結城くん、宝石を手に入れるためにセンサーを避けているルパンみたいだわ」
「ルパンか・・・。ルパンはもっとスマートに宝石を奪うだろうね」
「スマート・・・」
「ルパンはセンサーを避けたりトリックを見破るようなことはしない。企業が仕掛けた罠に正面から飛び込むような真面目さは持ってないんだ。そこが僕との違いだよ」
「要するに結城くんは凡人てことね」そう言って夏美は口を尖らせた。
「悔しいけどそうなるね。習慣を変えないと僕はルパンに一生なれない」
「習慣か。結城くんって日本人らしい性格してるもんね。スーパー凡人というか、上司に信頼される凡人というか」
喜んでいいのか、ダメなのか。僕はほんの少しだけ微笑みを浮かべてぬるくなったコーヒーを飲んだ。
「ごめんごめん、そんなに落ち込まないでよ」
「別に落ち込んでないさ。けど僕のような人間はAIに変わるだろうから焦りはあるね」
「逆にAIに変わられない人って?」
「なんだろうね。とにかくまだ28歳だから人間性を変えるチャンスはあるよ。若ければ若いほど変わりやすいと思う」
「それは分かる。なにか新しい習慣でも取り入れたら?」
「う~ん・・・」僕は窓の外を眺めて考えた。
「試しに『オーガニックスムージー』でも頼んでみたら?」
「ふふ、遠慮しとくよ」僕はそう言ってすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。