周司あきら・高井ゆと里「トランスジェンダー入門」批判(5) 美山みどり

第1章 トランスジェンダーとは?
第2章 性別移行
第3章 差別
第4章 医療と健康
第5章 法律
終りに

第5章 法律

さてこれが今一番「熱い」話題です。9月27日に最高裁大法廷での弁論があり、10月には「性同一性障害特例法」の「手術要件」について、違憲か合憲かの判断がなされます。もちろん本書は「手術要件」を違憲とする立場ですから、手術要件の維持を求める私たち性同一性障害当事者とは相いれない立場です。

しかし、本書の主張はそれだけではありません。

要件0(法律の前提):性同一性障害者であること
要件一:十八歳以上であること
要件二:現に婚姻していないこと
要件三:現に未成年の子がいないこと
要件四:生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態であること(手術要件の一「不妊要件」)
要件五:その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること(手術要件の二「外観要件」)

とこの5条件+前提のすべてに、論難をふっかけているのが、この本の著者の立場です。いやそこまで特例法を恨んでいるとは、その執念に気味悪ささえ感じます。ここまで否定するのなら、いっそのこと「特例法廃止論者」と手を組んで、廃止運動をした方がいいのではないのでしょうか。

では詳細を見ていきましょう。

要件0(法律の前提):性同一性障害者であること

「性同一性障害」という疾患名は2023年より国際的に消滅したために、そもそも前提が破綻しています。

p.159

前章で検討したように、「性同一性障害」は概念をやや拡張して「性別不合」に名称が変更されました。消滅したわけではありませんし、「脱病理化」されたわけではありません。改正が必要なら、単に「性別不合当事者の性別の取扱いの特例に関する法律」と名称を変えるだけで終わる話です。この主張は失当です。

また、自分の性別を生きるために他人であるはずの医者から診断を得るよう求めるというのは、法的な性別承認を「可哀そうな人への慈悲」だと見なす発想に由来しています。しかし公的書類の性別記載を変更する法的プロセスを設けることは、トランスの人々が安全に自分の人生を生きるための権利を保障するためのものですから、この発想は適当ではありません。

p.159

著者は「個人の自己決定がすべて」の立場に立ちますから、こういう発想になります。しかし、法律というものは、個人の権利と社会のさまざまな要請とを調整するためにあります。ですから特例法のそもそもの成り立ちとして、「どのようにすれば性別移行者の権利と社会を調和させることができるか」という課題に取り組んだことがまったく無視されています。

医師が「可哀そうな人への慈悲」として性別の再判定をするわけではありません。社会が客観的な条件を設定して、それを医師が確認するのです。また「トランスの人々の安全」と同時に、「周囲の性的弱者の安全」もしっかりと保障されなくてはならないのは当然です。著者が主張する安易な「性別承認基準」が、少女や女性たちの脅威になりうる、という視点が完全に欠いているのは、不思議なほどです。なぜ女性たちが「手術要件の廃止」に反対しているのか、その懸念を全く理解しない立場が、この著者の立場です。

要件一:十八歳以上であること

しかしトランスの子どもには幼少期から性別違和を示し、初等・中等教育時点から、ほぼ完全に性別を移行して暮らしている子も多くいます。そうしたケースにおいては、せめて本人の希望を前提とした保護者(親)の代諾でも良いのではないでしょうか。

p. 160

第二章で検討しましたが、これも思春期の少女の性の悩みに乗じた意図的な誘導によって、悲惨な事例が数多くアメリカで起きている例を肯定することに繋がります。法的性別を変えることで不可逆的な医療措置も同時に肯定されることになります。これは、思春期にありがちな試行錯誤的な「自己探求」を、早々と取り返しのつかない健康被害に結びつける弊害を助長することにもなります。「黒歴史」という言葉が示すように、思春期にはとんでもない発想から実行動に出てしまい、後悔することもごく普通ではありませんか?

やはり「自分は移行後の性別で、しっかりとやっていける」という経験を主体的に積むことで、自分の人生を後悔せずに進むことができるのではないのでしょうか。そのためには、あまりに早期に取り返しのつかない身体的措置を講じることなく、成人としての十分な判断力を前提に、法的性別を変えるべきでしょう。先行する英米では、早まった医学的措置があまりに弊害が多いために、社会的な非難を浴びているのが現状なのです。それを後追いする必要はありません。

また、アメリカの例を見てみると、「親が女の子が欲しかったから、男の子を強引に性別移行に誘導する」とんでもない話も報道されています。親もいろいろです。親の歪んだ「代諾」によって、子供の健康と安全が害されないという保証もないのです。

やはり、自然な成長というものの価値の尊重と、その結果として「やはり生れついた性別ではやっていけない」「移行した性別の側でうまくやっていける」という確信が、幸せな性別移行の大前提になると私は考えます。

要件二:現に婚姻していないこと

まずは一刻も早く同性婚を法的に可能にすべきです。実際、戸籍変更のために離婚を選択しているカップルもいるため、この非婚要件はトランスの家族形成を妨げるためにしか機能していません。夫婦の片方が性別を移行しても、配偶者が同意しているのなら、その状態を国家が認めればいいだけです。

p. 161

当事者の間でも「同性婚」の実現それ自体に対する反対はほとんどありません。ですから、同性婚が実現した場合に、法的な整合性からもこの非婚要件が削除されるべし、という意見も多く聞かれます。

しかし、まだ同性婚は実現していませんし、私の個人的な意見では、これが実現しない最大の責任は、LGBT活動家がリードする議論の中で、「具体的な実現方法」としていつまでも非現実的な議論を重ねていることなのでは?とまで思います。いや、さっさと同性愛者にとって使いでのいい「(国家レベルの)パートナーシップ法」を作ればいいのに、と思ってます。

しかし「非婚要件」については、夫がトランスをした配偶者さんの「私は女と結婚した覚えはない!」という嘆きの声を耳にし、また高齢・既婚でトランスした方の配偶者さんが、今まで通りの男尊女卑的な夫婦生活を継続ているのを見て、わりなき思いを感じてしまいます。夫婦の経済基盤の差から「私より高級な化粧品を使っている…」と嘆く配偶者の背後には、離婚して生活する目途が立たない経済的な現実があります。このような問題が「トランスウィドウ問題」と最近では呼ばれるようになりました。夫婦関係が継続されている場合であっても、配偶者の側にすべてのしわ寄せがなされていて、公平ではないと感じる例も数多くあるのです。

そう考えてみると、私見ですが非婚要件の廃止にはやはり十分な検討が必要だと思われます。最低でも法定離婚事由の一つとして「配偶者が性別移行をした場合」を追加し、トランスした側の完全有責での離婚を民法の明文で認めるべきでしょう。

要件三:現に未成年の子がいないこと

この「子なし要件」は、諸外国の性別承認法にはない、日本独自の極めて不合理な要件です。実際、この要件が特例法に盛り込まれることが決まったとき、トランスコミュニティからは「まるで『子殺し要件』だ」と非難が上がりました。自分の人生を安全に、普通に生きるためにだけに、自分の子どもを殺せということか、ということです。

p. 162

この経緯説明自体は事実です。実際、特例法に反対する「トランスジェンダー」たちは、この「子なし要件」を口実に、特例法を潰そうとする反対活動を行いました。しかし当事者の大勢は「3年後に子なし要件を見直す」という約束を信じて、特例法を成立させたのです。特例法に尽力した山本蘭氏は「子なし要件」をどうにかしてほしいという運動を始め、5年後には遅れましたが「現に未成年の子がいないこと」に緩和することに成功したわけです。

以下は私見ですが、特例法が出来る前には「結婚したら性別違和がなくなるのでは?」と考えて結婚した当事者も数多くいました。そこで子どもができていれば、永久に法的性別が変更できないことになり、これは明らかに公平を失していました。これが「未成年の子」に緩和されたことで、そういう方々の救済措置になりました。特例法当時に子どもがあった当事者は、特例法から20年たった今、計算上すべて法的性別を変更できていることになります。

やはり性同一性障害当事者としては、自分の性器に対する嫌悪感が強いのです。それを使おうという気持ちになること自体が、私個人としては理解できません。「そもそも要らない機能だから、取りたい」というのが偽らざる心情です。そうしてみると、「未成年の子がいないこと」の条件は、さほど「過酷」とまではいえないようにも、個人的には感じます。

要件四:生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態であること

さて焦点の一つである「不妊要件」です。

性別承認法にこうした「不妊化」を義務づける法律は、かつて世界中にありました。この背景には、トランスジェンダーたちが「精神病者」として扱われてきた歴史と、そうした精神疾患・精神障害の人々に対して政策的な不妊化を強いてきた、近代国家の優生思想の歴史が関わっています。

p.164

著者は「精神病者への断種」と、特例法の不妊要件を同列に並べて「人権侵害だ」という印象操作をしていますが、これについては深読みが過ぎるというものでしょう。「不妊要件」の理由は「家族関係の混乱を防ぐ」という立法意図から来ています。これについては読者の常識と判断に任せるだけで十分な話だと思います。

また、不妊手術は非常に身体の負担の大きな医療的措置であり、そこには患者の真正な同意が欠かせません。にもかかわらず、そこに「この手術をした人には戸籍変更を認めてあげます」というインセンティブが働いてしまうと、本当にその手術を望んていた人にとってさえ、真正な同意を医療者に与えることができなくなってしまいます。

p. 164

実際には「身体の負担」が大きいのは、不妊要件側の手術というよりも、外観要件の側の手術の項目です。FtM の場合に外観的に遜色のない外性器を構築するのは強烈な身体的負担が必要ですが、そこまでの「外観」を特例法は要求していません。FtM の卵巣・子宮摘出手術は、それこそ子宮がん・卵巣がんで普通に行われている摘出手術と何も変わりません。MtF でも、外観要件側(というか女性としての機能側)である造膣手術は、特例法の要件としては要求されていません。MtF の陰茎と前立腺・睾丸の除去は、さほど身体的な負担が強いものではないことを、私も実体験しています。

ですので、この節の著者の主張は、当事者としてよくわかりません。また性同一性障害当事者としては、「まず、自分が本当に手術を望む」ということから始まるのであって、けして「戸籍を変えたいから手術をする」というものではありません。そもそもの出発点が、性同一性障害当事者と「トランスジェンダー」とでは違うのです。

私たちからすれば「戸籍なんてただの手術のオマケ」が実感であり、ただ埋没して暮らすのに役立つためにあるだけなのです。性同一性障害当事者にとっては、手術によって「自分が納得のできる身体を得る」ということが、本当に大事なことであり、何よりも優先されることなのです。私も「これほど自分のカラダに納得がいくものか!」とまで手術後に感動したものですよ。

この法律の趣旨は、あくまでも「性同一性障害当事者」のための法律です。けして「トランスジェンダー」のための法律ではないのです。法律の想定外の前提を著者はわざわざ持ち込んで、法律を非難しているのです。そもそも筋違いな要求だ、というのが性同一性障害当事者の率直な感想です。
それならば「トランスジェンダー差別禁止法」を運動して作ればいいのです。まさに性同一性障害当事者の固有の事情を反映して、特例法は作られています。それをなぜ「トランスジェンダー」が拡張解釈して自分たちのために「奪おう」とするのでしょうか?

手術自体に価値を見出すことができない人は、手術をしても絶対に後悔します。「戸籍を変えるために手術をする」のは心得違いも甚だしいのです。

「手術をしないと戸籍を変えられなのは不当だ」とする主張をもう少し検討しましょうか。この著者は「不妊化の強制が人権侵害だ」とただ主張しているだけで、「なぜ」それを求めるのかについて、はっきりと答えていません。私が憶測で根拠を述べましょうか。

A. 現在同性婚が認められていないので、同性と結婚したい場合には性別を変えるほかない。
→これは本末転倒の議論です。同性婚の実現に向けて努力すべきです。
B. オートガイネフィリアの場合には、去勢手術が自分たちの性別移行の意義を奪ってしまう。
→オートガイネフィリアに「女性」の法的性別を与えるべきであるかは、疑問の余地が大きいです。まったく議論されてもいませんから、一方的に主張されても合意も何もありません。女性たちは「女性を性的対象とする」オートガイネフィリアが、女性専用スペースを使うことに強い警戒心を抱いています。オートガイネフィリアを「法的女性」から排除する規定として不妊要件があるのならば、これは「女性の安全を守る機能」を立派に果たしているというべきではありませんか。
C.性別移行がうまくいかない人にとっての一種の「承認欲求」から
→これも本末転倒な議論です。戸籍の性別を変えても、生活実態がその性別にしっかりと適応していなければ、本当に困るばかりです。まず生活実態をしっかりと確立することが、性別移行の最大の課題です。戸籍の性別記載は、移行がうまくいかないことの免罪符にはなりません。
D, 手術などの性別移行医療によって健康被害を受けた
→活動家の中にたまにいるのです。こういう不幸な方が。自分の「ジェンダー」に対する不満を性同一性障害と誤解し、安易に性別移行医療を「試して」しまい、望まない結果を得てそれを元に戻せない方は、性別移行医療を否定する立場に立つことがあります。本来受けるべきではない人が、思い込みで性別移行医療を受けてしまったのですから、気の毒ではありますけども、自業自得な部分を否定できません。こういう方も誤ったイデオロギーの犠牲者なのですが、「自分のタダシサ」を証明するためにはイデオロギーの深みにハマるしかないのでしょうか…こういう方を生まないためには、やはり「診断の厳格化」が必要なのです。こういう被害者は前章で著者が推奨する「ICモデル」でも、救われるどころか量産されることになるでしょう。

不妊要件はしっかりと役割を果たしているというべきでしょう。「トランスジェンダー」が代表するのは、性同一性障害当事者ではなく、オートガイネフィリアの立場です。

要件五:その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること

この外観要件は、先にも述べた通りトランス女性に陰茎切断を求めるだけのものなのですが、これには女性の身体に対する国家の管理という側面があります。

p. 165

いや、大きく出ましたね。「女性の身体に対する国家の管理」。まあこれは証明不可能な大言壮語の部類ですから、これについても皆さまの常識でご判断いただければ、と思います。少し補足すると「トランス女性に陰茎切断を求めるだけ」というのは、「トランス男性(FtM)」の場合には、本当にちゃんとした見かけの陰茎を形成しようとすると、身体的な負担が半端ないこともあって、かなり甘めの基準で特例法による性別移行が認められていることを指しています。これは単に手術の難易に基づいた合理的な区別に過ぎません。

もしかすると読者の皆さんのなかには「ペニスがある女性が公衆浴場に入ると混乱する」と心配している人もいるかもしれません。しかしトランス女性だって、周りの人をびっくりさせながらお風呂に入りたいとは思ってません。皆さんと同じように、ゆっくりと疲れを癒やし、身体を清潔にしたいだけなのです。現実には、陰茎の切断を経験していないトランスの女性たちは公衆浴場の利用を単に避けるか、旅館や浴場に個々人で事情を説明し、自力で交渉することで一部の時間帯だけ「貸し切り」にしてもらうなどの合理的配慮を受けています。この状況は、外観要件が撤廃されてもすぐには変わらないでしょう。銭湯や旅館には、どのような客を受け入れるか選別する、ある程度の権限があるからです。
そして、これが重要なのですが、たかだが公衆浴場の話をわざわざ性別承認法と結びつけることには、何の合理性もありません。公的書類の性別が現実と食い違っていることに由来する社会的困難は、公衆浴場の問題に矮小化されるような話をはるかに超えています。そのことについては、これまで何度も述べてきました。これはお風呂の話ではなく、人生の話なのです。

p,. 166

フェアを期するために、引用が長くなりました。あの、これを読んだ女性で、著者の論旨に納得された方、おられますか?「可哀そうだから、ペニスがあるままの『トランス女性』を。女湯に受け入れろ」という以上の論旨が存在しないんですよね….私も、困りました。

この著者の主張について、三点ほど「著者が言及しないこと」を指摘しましょう。

A: 著者は「不妊要件」と「外観要件」の両方に反対する立場です。言いかえると、ペニスある「トランス女性」は、女性を強姦して妊娠させる能力を持っている、ということです。また「トランス女性」のフリをした性犯罪者と、見た目の区別をつけることも本質的に不可能です。
女性たちが「ペニスある『トランス女性』」を警戒し、女性スペースから排除するのは、当然の権利です。また「不妊要件」を維持して「外観要件」だけ廃止した場合であっても、その男性器が「女性に対する性暴力の武器になるか否か」を外観で区別することができなくなります。
そもそも著者は、女性たちの不安にまじめに答えようとはしてません。

B: 実際、この著者も認めていますが、「トランス女性」の多くは「女性を性的な対象」(p. 176)とします。性的に安全であるはずの女性スペースの「安全」が保障されなくなるのです。そういうと「レズビアン女性もいるから」と反論するのですが、レズビアン女性は女性を妊娠させることはできないのに対し、「トランス女性」には可能です。反論になっていないのは明らかです。

C: 「これはお風呂の話ではない」確かにそうなんです。より問題なのが「女子トイレ」なのですね。女子トイレに「トランス女性」が性加害を目的に入った場合(この可能性を否定できません)、怪しまれて身分証明書を提示を求められた場合であっても、身分証明書の「性別」が女性ならば、何もできないのです。身分証明書の「性別」が、男性器の有無・強姦の可能性の有無を保証しなくなるというのは、こういうことなのです。

いやはや、著者もこの「外観要件」の否定については、著者たちも無理筋なのが分かっているのかしら….まったく説得しようとさえしていません(苦笑)。著者と私と、どちらに説得力がありますか。皆さまにご判断をお願いいたします。

セルフID

ですので、著者たちによる特例法に対する攻撃は、どれもこれも「不当な論難」か「問題解決の条件がまだ整っていない仮定の話」でしかありません。

早い話「空論」なのです。

その空論に空論を重ねるのが、著者たちが望む「セルフID」です。

例えばアルゼンチンでは、精神科医の診断なしに性別変更を可能とする法律が2012年に制定されました。このような性別承認のプロセスは、医師によって「トランスジェンダーですね」と診断されることなく、自分自身で性別変更のニーズを表明するという点で「セルフID」と呼ばれます。

p. 167

実際にこのような性別承認の緩和を行った国々では、その責任を巡って政権が崩壊することが普通のように起きています。まさに「セルフID」は「文化戦争」になっているのです。トランスvs女性の争い、個人の権利と公共の福祉の衝突、これらの「パンドラの箱」を「セルフID」によって開けてしまっている国々が、今幾つも存在しているのです。

状況をもう少し、静観しませんか?あえて「文化戦争」の「火中の栗」を拾いに行くのは愚かというものではありませんか?

終りに

著者たちは、その他のトピックスとしてさらにいくつかの論点を示していますが、これらは私たち性同一性障害当事者にとっては、直接には関わらない迂遠な論点に過ぎません。

・「戸籍法」に反対
→「戸籍法」の問題は単に党派的なイシューに過ぎません。性同一性障害当事者は政治的党派としてまとまったものでもまったくありません。「トランスジェンダー」が左派的な立場から「戸籍法」に反対するのはもちろん自由です。私たちはこの問題について統一した意見もありませんし、戸籍を所与のものして扱うだけで十分ですから、それに意見を表明する必要を認めません。

・フェミニズム
→「トランスジェンダー」はフェミニズムの一部の思想に起源をもつために、フェミニズムについて論じますが、私たちは「思想」ではなくて、ただの「身体と心の状態」です。個人的にフェミニズムに対して共感したり批判したりはありますが、全体としてフェミニズムに対して何らかの立場を表明するものではありません。

・男性学
男性学については、とくに性別移行者に対して「差別」的な扱いをしがちなのは男性の側であるのは明白です。その面ではやはり「男性がジェンダー規範の拘束から自由になること」は大事なことであると考えます。私たちもジェンダー規範の拘束が弱まることには、全面的に賛成しています。
もし、男性がスカートをはくのが「おかしい」ことでなくなれば、実のところ私たち性同一性障害と「トランスジェンダー」との違いは明白にさえなることでしょう。私たちは「ジェンダー規範に反対する思想」などではないからです。
しかし、性同一性障害の当事者であっても、移行途中の人たち、それに手術が身体的な条件によって難しい人たちの、QOLを上げるのは、まさに男性の側の「寛容」に懸っているのです。そういう意味では、男性の側の自覚が、どんどんと問われていくことにもなるのです。「男らしくない男」もいいじゃないか。そのような寛容な立場に男性が立つことが、さまざまな問題を大きく前進させるものであると考えます。

・ノンバイナリーの政治
私たちは「ジェンダー規範に抵抗する政治」ではありません。ですから、ノンバイナリ―の方との共通点・接点はほとんどありません。これを同じように「トランスジェンダー」に含めようとする、アンブレラタームこそが、現実を見失った空論です。

以上見てきたように、この「トランスジェンダー入門」は、特定の政治的立場に依存した本であり、この立場を批判する人々にとって、説得力のある反論にはまったくなっていない本です。

ですので、私としても、かなり気楽にこの批判を閉じることができます。

周司あきら・高井ゆと里「トランスジェンダー入門」は端的に言って「ダメな本」です。読む価値はまるでありません。読めば読むほど、疑問や疑念が湧いてくるだけの、およそ説得力を欠いたプロパガンダに過ぎません。

(この批判の文責はすべて美山みどりにあります。)

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