李琴峰氏のカミングアウト問題について

美山みどり

11月20日に李琴峰氏が「自分はトランスジェンダーで、性別移行した」ことを公にしました。

この件は、李氏が女子トイレなどの女性スペースを、いわゆる「トランス女性」が利用することを肯定する立場で発言している際に、李氏が「トランス女性」であることを伏せて「女性の立場」で発言していることに対して、滝本太郎弁護士が「そういう議論はフェアではない」と批判したことに端を発しています。

もちろん、私人に対するアウティングは慎まれるべきものです。

しかし、まさに「トランスジェンダー」が議論のテーマとなっている場面では、その発言者が「どの立場で発言するのか」は、重要な意味があります。「意見はそれを言った人とは切り離して扱われるべきだ」という考え方もありますが、しかし、そういう客観性を破壊して「当事者でなければわからない現実がある」などと「立場理論」を振りかざしてきたのは、李氏を含むトランス活動家の側なのです。二重の意味で「誰が言っているか」がきわめて重要な問題なのです。

今までも李琴峰氏については「性別移行をした」という話はいろいろと漏れ聞こえてきていました。公然の秘密というべきものだ、と私たちは理解もしていました。だとすれば、滝本弁護士がそれを「アンフェア」と指摘するのはおかしいのでしょうか?

それほどに「トランス女性」は保護されなければならないのでしょうか?

私自身、李琴峰氏と同じく、男性から女性へと性別移行した者として言います。議論の当事者として、自らの立場を隠して議論するのは、アンフェアで不誠実なやり方であると。
私は自らが性別移行したことを恥じてはいません。それゆえに、女性スペース問題について、「女性の立場」を僭称して語ることは、恥ずべきことだと感じます。

今回のカミングアウトは、滝本太郎弁護士との訴訟の中で、自らの立場を有利にしようとして「あえて」行ったことのように思えてなりません。確かに「強いられた」側面はあるでしょう。しかし、そもそもアンフェアな議論を始めた責任は、李氏の方にあるというべきです。もし李氏自身が議論に勝つためにカミングアウトを武器に使うのならば、それを批判しても「不当な差別」と呼ばれるべきものにはなりません。

当事者として改めて強調しますが、性別移行したことは恥ずべきことではありません。私たちも性同一性障害特例法を守るために、あえて自らが性別移行したことをオープンにして、特例法を守る会の活動を行なっております。私も顔出しをして、自らが性別移行したことを語り、特例法を守る活動をするという面で、李琴峰氏と同等の立場にある者です。
李氏はまさか「性別移行したのが恥ずかしい」と考えているのでしょうか?

何であれ自らの信念を率直に語るのは間違ったことではありません。しかし、それを語るために、自らを偽って他人を誘導しようとするのは、議論のルールに違反する、スパイにも似た恥ずべき行為です。

私たちも女性スペースの問題について、多大な利害を持つ立場ではありますが、しかし、女性スペースの主権者は「生得的な女性」たちです。私たちはあくまでも「お願い」する立場であり、女性たちの議論の主体性を尊重します。けして権威をカサに着て強要する立場でも、スパイ的に振る舞って議論をミスリードする立場でもないのです。
私たちは残念ですが、生得的な女性を「代表」しうる立場ではないのです。
さらに、私たちのこの議論の振る舞い自体が、女性たちが私たちを「判断」する材料でさえあるのです。私たち性別移行者がアンフェアな策略を弄すれば弄するほどに、性別移行者の立場が悪くなるのです。私たちはオープンでなければ、この議論については参加する資格がそもそもないのです。

いうまでもありませんが、カミングアウトなぞしない方がいいのです。しかし、自らの発言の責任を果たすためには、それをしなければ誠実ではなくなる局面も確かにあるのです。
名もなき市民ではなく、いっぱしの作家、いっぱしの言論人として活動する李氏は「プライバシーを保護される」条件を自ら捨てて女性スペースについて、トランス問題について発言しているのです。ならば今更「プライバシー」を声高に主張する根拠を持たないのです。

本来は、性別移行の経歴を秘密にしなくてもいい社会であるべきでしょう。私はたまたま環境に恵まれていたこともあり、移行前の業績を引き継ぐためにも公然移行した経歴もあります。それを可能にした周囲の皆さまにいつも感謝しております。現在の日本では、必ずしも活動家たちが主張するような「土砂降りの差別」が蔓延する環境でもなく、自分を受け入れてもらえる環境を誠実に整えて幸せに移行する道も開かれているのです。
たしかに移行後に過去に触れられるのはあまり気持ちいいことではありません。しかし、過去に口をつぐむことがフェアでない場合には、しっかりとそれを肯定することで、私は過去と現在に対しての責任を引き受けるのです。
李氏が「レズビアン」などと名乗らずに、性別移行したことをオープンにしながら創作活動をする道もあったのではないのでしょうか?

嘘の上に築かれた業績は、いずれ崩壊します。

まさにそのような「自己の真実」の問題として、この李琴峰氏のカミングアウトを捉えようと、私は同じ性別移行者として考えます。

以上


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