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【創作エッセイ】:こんばんは、脱皮詩人・カトマンズ錠でございます

こんばんは、カトマンズ錠でございます。
先ほどランニングしていましたら落とし穴に落ちてしまいました。泥んこです。皆さんも気をつけてくださいね。90年生きてきましたがこんなこともあるのですね。

本日は、詩ではなくエセーをしたためます。

詩をどんな思いで書いている?

誰もがそうかもしれませんが、

「他の人が書いていることと同じ(ような)ことは、わざわざ書かなくてもいいかな」

という意識を持っています。

なぜなら、他の人が書いてくださるからです。私が書かずともそれらは世界に投げ込まれたし、きっとこれからもそうされるからです。

他の人が書いてくださることを自分もまた書くのは、世界に対して、あまり意味がないことのように感じます。もちろん

「そういうことじゃない」

「そこまでこだわることではない」

「ひとりひとりの存在自体がオリジナルだ」

というのもありそうです。

そうかもしれませんが、意図的に「私のテクスト」を産もうとしています。
作者名が伏せられていても、

「あ、これはきっとカトマンズ錠が書いたものだな」

「なんか、カトマンズっぽいな?」

「カトマンズかもしれない」

と思ってもらえれば、もう、それでいいのです。

「私」はどこに?

「私」などというあやふやなものの消えた境地(意識階層)もまた、あるような気もします。ほとけのおしえにも、西洋哲学にもその発想はあるようですけれど、そこには至っていない、と書き留めておきます。今後そうなるのか、ならずに現世を通り抜けるのか。

テイスト

毎晩深夜に、あのような脱皮詩(自称)を投稿しているわけですが、

「この人いっつも同じテイストだよね」

「たまにはもっと違う感じの詩を書けばいいのに」

「えっ、またアレクサンダー大王出てきたじゃん」


という声が聞こえてくるような、こないような気もしますが、やりたいようにやっています。それこそが脱皮詩なのだと思っています。
ちなみに私としては大王をトポスとしている自覚は、あります。脱皮とアレクサンダー大王は私の中では同一なので。

脱皮を巡って

脱ぐためには何らかの殻を持つ必要があります。殻・外殻・境界線。脱皮詩とは、入力と出力、凝集と分散、集中と放散の同時性であり、クスノキの落ち葉から生じる新たな生命体の活性のごとき踊り、あるいはひずみです。作られたものは、作られた瞬間から逆の力が発生しますからね。その象徴としてのセミの抜け殻。

ですから、時系列として脱皮前なのか脱皮中なのか脱皮後なのか、はポエジーに委ねられることになるわけで、そこに書き手のオリエンテーリングは発動しません。
海岸に打ち寄せる波は私たちが制御するところのものではないのと同じです。
そのようなことを詩作を通じて感得する次第でございます。

ではまた

そして、これをお読みの皆さまもその道を進んでください。書くことを通じて、書くこと以外をもって、そして暮らしそのものの中において。「言われなくてもやるよー/やってるよー」あ、そうですよね。大変失礼いたしました。

それではまた。
脱皮詩人・カトマンズ錠でした(服についた泥を払いつつ)。

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ジブラルタル峻
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