小説:狐027「正しい嘘」(997文字)
いつものカウンター席に腰かける。ドアがギギギと音を立てた。
「ぅいらっしゃっ」
マスターの挨拶の仕方で分かる。あのトーンと言い回しは一見さん向けではない。常連客、それも常連度の高い客が来店したのだろう。そんなことを思い浮かべつつジョッキを傾ける。
案の定スミさんだった。
「えっ! どしたんだナリさん!」
私のビールジョッキを指さして、大きな声を上げる。店内の他の客も私のほうに目を向けている。注目されるのは苦手なんだが。
スミさんが驚嘆の表情を浮かべながら
「こ、氷、入れてないのか?」
と慌てる。人の眉毛ってそこまで上がるものなのか。スミさんは見せたことのない顔になっている。
「はい、今日は入れないで飲んでます」とありのままを告げる。久々に声を張ってみた。張ってみたとは言え、人よりも小さな声なのだろう。喋るのはとにかく苦手だ。
すると、ヒトエさんが
「確かに、珍しいね」
と受ける。珍しいと評してはいるが、スミさんほど驚いてはいない。宇宙物理学者の彼女は世界の法則性みたいなものに対する考え方が柔軟なのだろうか。珍しいことが起こりうる。それを熟知した人の態度だと思えた。
「今までずっとナリさんが球体の氷を入れてビールを飲んでいたのは確かだよね。
でね。それと、今日氷を入れていないことの間には本当はつながりなんてないのよ」
ヒトエさんは眉を動かさない。綺麗な切れ長の目を確かに見開いてはいるのだが、別の何かを見ているような気にさせる。私たち凡人が信じている世界の外側を。超越世界を。あるいは超越などというよく分からない概念の更にその彼方を。
ボウリングとは何か、という話題で盛り上がった日のことを思い出す。ボウリングの話から大きく逸れて、それこそガーターのようなわき道の話題が展開された末に、彼女はこう語っていた。
「法則、公式ほど不完全なものはないわね。正義みたいな顔して、人を傷つけたりもする。
うん。そう。もちろんね、教科書の大元はわたしたち学者が作っているけれど。あれは、今のところだいたいそんなような感じです、っていう仮の正しさでしかないからね。でも教科書だから教科書のふりをしている。
ともかく、定理や公理は正しい嘘なの」
正しい嘘とヒトエさんは表現した。定理や公理なるものをそのまま信じていた私には刺激が強かった。そうなると数学も歴史も、もしかしたらでたらめってことか。