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町田そのこ『ドヴォルザークに染まるころ』一話試し読み|「ドヴォルザークの檻より」

ドヴォルザークの檻より

 担任の先生のセックスを見たことがある。
 小学校六年の、夏休みのことだ。飼育当番で、夕方の餌やりのために学校に行った。二階建て鉄筋コンクリート造りの学校は〝く〟の字をしていて、内角部分の中庭にウサギ小屋と鶏小屋が並んでいた。卒業生の誰かの父親が大工で、彼が寄付したというふたつの小屋はしっかりとした造りをしており、小屋の生きものたちは一度も、校舎の背後にそびえる未幌山みほろやまから降りてくるキツネや野良犬に狙われることはなかった。あの日、わたしは同じく飼育当番であるひとつ年下の男の子とふたりで、せっせと餌と水の交換に励んでいた。
 作業の終わりごろ、わたしはほんの少しの油断をしてしまって、当時鶏小屋のボスだったサイゴーに左のふくらはぎを二か所つつかれてしまった。ぶつんぶつんと立て続けに皮膚の裂ける感触がして、すぐに激痛に変わる。短く悲鳴を上げて見てみれば、ぷくりと膨れた真っ赤な血の球が、とろりと赤い筋を作り始めた。血に弱かったわたしはそのことにおびえて涙どころか声も出なくなり、男の子は『保健室に行こう』と慌てて言った。夏休みとはいえ幾人かの先生は登校してきていて、挨拶を交わした後だった。誰かきっと、手当てをしてくれるよ、と言う男の子に従って、わたしたちは静まり返った校舎に入った。
 夕暮れの校舎内は、ねっとりとした熱が静かに沈んでいた。アブラゼミの悲鳴のような合唱が遠くに聞こえ、職員室の方からは教頭先生と誰かが口論しているような声がした。教頭先生は怒りっぽくて、いつも誰かを怒鳴り散らしているようなひとだった。わたしは『子どものくせに覇気がない』と、どうしたらいいのか分からない叱られ方をしたことがある。鶏に突かれて怪我けがをしたなんて言えば、鈍臭い子だ、と怒られるに違いない。暑さと痛み、緊張で体中がじっとりと汗ばむ。こめかみから流れた汗をぬぐった手から、うっすらと獣の臭いがした。わたしより少しだけ背の低い男の子は、ただただ震えるわたしのことを心配そうにうかがいながら、保健室まですぐだからねと小さな声でささやいた。自分の声すらわたしを傷つけてしまうのではないか、というようなやさしさだった。
 しかし目指した保健室の扉は、固く閉ざされていた。すりガラスの向こうは薄闇で物音ひとつしないから、誰もいないことが分かる。教頭先生のいる職員室には行きたくなくて、このままだらだらと血の流れる足を引きずって家に帰るしかない、と絶望に似た覚悟を決めた。
『待って。ぼくの机の引き出しに、バンソウコウがある』
 ぱっと、男の子が顔を輝かせた。
『ポケットティッシュもあったと思う。だいじょうぶだよ』
 彼の机のある二階の一番奥の教室まで、わたしたちはそろそろと向かった。
 流れる血が、わたしのソックスをらしていく。お気に入りだったキティちゃんの柄はどんどん色を変えていった。足はじんじんと痛んで、それどころかおなかまで痛くなって、歩くたびに、自分のからだが取り返しのつかないことになっていっているのではないかと怖くなる。鶏のくちばしって、ばいきんがいるかもしれない。それがいま、わたしのからだを駆け巡っているのかもしれない……。
『だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、るいちゃん』
 痛みに決して触れない小さな声だけを励みに、人気ひとけのない廊下をのそのそと歩く。がらんどうの教室の木製の床に、オレンジの光がきらきらと差し込んでいた。持ち帰り忘れたのか、三年生のたっくんの体操服袋が寂しそうに机に載っているのが見えた。終業式のとき、先生たちはうんざりするほどしつこく、忘れ物がないようにしろと言ったのに。
 持ち主から忘れ去られた袋がうっすらと影を帯びている。本来あってはならないものがあるとき、寂しいんだな。そんなことをぼんやりと考えた、そのとき。
 泣き声が聞こえた。
 まっさきに想像したのは、数日前に放映されていた『日本怪奇スポット』という番組だった。廃病院や自殺が多発する森、閉鎖されたトンネルにどこかの学校の旧校舎なんかがおどろおどろしい音楽と共に紹介されていた。首のとれた、赤インクを浴びた人体模型が転がっていた映像を思い出して身震いするわたしに反して、男の子はきゅっと眉を寄せた。
『誰か、具合悪いのかな』
『え?』
『だって苦しそう』
 男の子が、先に行こうとする。置いていかれそうに感じたわたしが短く悲鳴を上げると、彼は少しだけ困った様子を見せた後に、わたしの手をつかんだ。汗ばんだ、やわらかな手がわたしの手を包む。『平気だよ。行ってみよ』と彼はつぶやいて、わたしの一歩前を歩き出す。そしてわたしより先に、ほんの少し開いていた児童会室の引き戸の向こうをのぞき込んだ。ひゅう、と息をむ。
 手に、震えを感じた。立ち尽くした彼は明らかに何かに驚いていて、しかしそれは『恐怖』によるものではないようだった。ふしぎに思って、おずおずと視線の先を辿たどるように覗き見たわたしは、目を見開いた。そこには、スカートを腰までたくし上げたむれ先生がいた。わたしの、担任の先生だ。
 下着とストッキングがくちゃくちゃになって足首に絡まっている群先生は机に突っ伏していて、男性がその背中にかぶさるようにしていた。ぐ、ぐ、と男性がからだを押し付けるたびに、群先生は短く泣く。男性は群先生の首に手をかけていて、それはまるで首を絞めている最中のように見えたけれど、一瞬持ち上がった群先生の横顔は、とろけそうにほうけていた。
 これ以上の驚きはなかったはずなのに、群先生を組み敷く男性に目をやって、最大の衝撃を受けた。男性は、先月の頭に町にやって来た画家だった。日本人の原風景だかを描くために日本中を旅しているという彼は、夏休み前に学校でスケッチの授業をしてくれた。彼は痩せぎすで、ふわふわの髪を雑にひとまとめにし、口の周りのひげは好き放題に伸びた感じの、いわばだらしのない見た目をしていた。へらへらしていて、大人のはずなのに子どもらしい。サッカーの授業に不意に飛び込んできたかと思えば、給食時間まで居座って給食をうまいうまいとがっつく。それでいて、筆を持った瞬間に、目の色が変わった。まるで薄く青い炎をまとったかのように、薄ら恐ろしくなるほどの静謐せいひつな雰囲気を放ってキャンバスに向かった。
 彼は、人物のいない風景ばかりを描いた。彼が切り取れば、何の魅力もないはずの田舎いなか町が姿を変えた。ぞっとするほどのうつくしさで、どこか生々しい。子どものころのわたしは、幽霊を写し取ったようだなと感じた。このまちで生まれ死んでいったひとたちの息遣いを塗りこめたような気配がしたのだ。
 放浪の鬼才画家としてテレビに出たこともあると説明してくれたのは校長先生で、彼のために空き教室同然だった児童会室を宿泊用として提供した。『鬼才がわが校に滞在して名画を仕上げるのだ』などと興奮していたけれど、群先生は彼をあまり歓迎していないようだった。みんな、あのひとは特別なんだから、同じようなひとがいたらきちんと警戒するのよ。あのひとにもあまり近づかないようにね、なんてしかめ面で言っていた。なのにどうして、群先生が画家と一緒にいるの?
 群先生の声と重なるように、水音がする。独特なリズムは、わたしのふくらはぎの傷のうずきと奇妙に合わさった。共鳴しているようなふしぎな感覚は、先生の声がひときわ細く長く泣いたときにぷつんと切れた。それは声のせいではなかったのかもしれないが、声が途切れると同時に、こぷん、と己の股の間から熱い液体があふれる気配がした。のろりと見下ろすと、短いスカートから伸びた太ももの内側から、ゆっくりと赤黒い筋が伸びていた。
 これ、もしかして生理っていうやつ?
 わたしは胸だけはいっぱしの大人のようにふわふわ膨らんでいたのに、初潮はいまだ来ていなかった。母がそれをとても気にしていて、来月の誕生日までに生理が来なかったら産婦人科で診てもらうと言われていた。病院であんなところを見られるなんて絶対に嫌で、だからすごくすごく待ち望んでいた。でも、こんなタイミングでいいはずがない。
 思いもよらないことがいくつも重なって、心がついていけない。茫然ぼうぜんとしていると、遠くから音楽が鳴り始めた。ドヴォルザークの〝家路〟だ。帰宅を促すメロディはいつだって、外で遊ぶわたしを焦らせてきたけれど、このときは遥か遠く、夢の世界からの呼び声のようだった。ぼうっと聞いていると、急にぐいと手を引かれた。彼方の存在になっていた男の子が、心が遠くにあったわたしを呼び戻すように力を込めてきたのだ。のろりと目を向ければ、彼の視線はわたしの太ももに注がれていた。ああ、生理が来たことに気付かれたんだ、と頭の片隅で思った。ふしぎと、恥じらいは覚えなかった。
『行こう』
 きっぱりと意志のある声にようやくはっとする。でもわたしのからだは、硬直してしまったかのように動けなかった。『行こう』と男の子がもう一度言い、その声に画家が気付いて、視線を投げてきた。
 五センチほどの隙間から、画家と視線を交わした。
 顔を真っ赤にして汗だくになっている群先生と違って、画家はどこか平静だった。わたしたちの存在に気付いても、ちっとも焦っていない。どころか、キャンバスに向かっているときと同じような静かな青い火を纏っていて、やはりどこか恐ろしかった。息を呑んだわたしを前にした彼は愉快そうに、ゆっくりと目を細めた。唇が何か言葉をかたちづくる。誰も手の届かない木のてっぺんでれた柿のような、毒々しいまでに赤い口だった。
 ぐい、と男の子が腕を引き、固まってしまっていた足がやっと動く。途端、はじかれるようにその場から駆けだした。
 走るわたしたちを、ドヴォルザークだけが追ってきていた。



 里芋の皮をくのが、苦手だ。ぬる、ぬる、とぬめる感覚が好きじゃない。味も食感も好きじゃないから、普段はなるべく買わないようにしている。でも、夫の悟志さとしは好物だから、隣に住んでいる義母がしょっちゅう持ってくる。昨日も、近所からのもらい物だと言って大きな泥付きのものを二十個ほど持ってきた。親子三人で食べるにはあまりにも多い。無意識にうんざりした顔をしてしまったらしく、『あら、迷惑やった? 煮付けてあげればよかったかねえ』と苦い顔をされた。『そんな。ごめんなさい』と謝って受け取ったけれど、処理を考えると気が重い。今日ここに持って来て、それとなく混ぜてしまえばよかった。
「廃校なんて、いまどき珍しくも何ともないやん」
 大きな声がして、皮剥きをしていた手を止める。見れば、三年生の双子の姉妹の母である福嶋杏奈ふくしまあんなが、ピンクのジェルネイルが目立つ手で大きなさつまいもをもてあそんでいた。
「少子化が進んどって、日本中どこもかしこも廃校になっとるってネットニュースにでとったで。なのになんで最後やからって秋祭りなんて面倒なもん開催せなあかんの?」
 さつまいもから伸びた、ムダ毛のような細い根をぶちんと引きちぎる。その口は子どものように突き出されている。杏奈はいつも文句ばかりで、作業が遅い。
「これまで通り、子どもたちの発表会だけでええやんか。なのにバザーや出店やって、あほちゃう? しかも子どもたちの発表のあとは、婦人会だかの踊りの発表会があるんやって。みんな知っとった?」
「知っとるどころか、踊りのあとはカラオケ大会だよ。ラムネ早飲み大会もあるし、フィナーレは校庭で〝かなた町盆踊り〟だったかな。それは一ヶ月前から告知しとったことやし、一般客もかなり来るやろね」
 カレーの仕込みが済んだ大鍋四つを順繰りにかきまわしているのは、六年生の女児がいる井村瑠璃子いむらるりこだ。かなた町ママさんバレー部の部長でもある。瑠璃子の言葉を聞いた杏奈が「ありえへん」と大げさに天を仰ぐ。
「ありえへんって。いや、百歩譲って何をやってもよしとしても、やで。なんであたしら保護者が準備に追われなあかんのよ。父親らは設営準備に追われ、母親らはカレーやら豚汁やら作らされ。出店って、もちろん食べモンの店も来るんやろ? ほんならそれでみんなの胃袋まかなえばええんちゃう? なにもこっちが料理まで作る必要あれへんよ。どこのあほが決めたん。校長? やったらあの薄らハゲの残りの毛、全部むしったる」
「校長は校長で、餅つき大会の準備に駆けまわっとるよ。大昔は校内行事のひとつに餅つき大会があったとかで、最後に絶対にやりたいって意見が各所から出たんだってさ。つか福嶋、口はいいから手を動かせ、手」
 口を動かしながらも異様な手際のよさでごぼうをささがきにしているのは田中佳代子たなかかよこで、五年生の男児がいる。管理栄養士の資格があり、介護施設で料理の献立指導をしているという彼女は何にでも手際が良く、彼女の前のボウルには、早送りしているような勢いでささがきごぼうがまっていた。
「ひぃぃ、餅! 餅なんて絶対いらんやつやん。年寄りが喉詰まらせたらどーすんねん」
「その年寄りのリクエストだから、いいの。とにかく福嶋はいい加減、さつまいもを剥きな」
 彼女たちは、がやがやさわさわとしながら野菜を切り、煮込む。
 明日は、わたしたちの子どもが通っているかなた町立柳垣やながき小学校で、『柳垣秋祭り』が開催される。いつもの秋祭りは子どもたちの発表会――演劇や合唱など――を保護者が観覧するだけなのだが、今年は違う。百二十一年の歴史のある柳垣小学校は、来年三月に廃校になることが決まっており、その最後をみんなで惜しもう、という意図でさまざまなイベントを行うことになったのだ。在校生、卒業生、それに近隣住民まで巻き込むかたちとなった祭りは、わたしたちの予想を超える規模になってしまっていた。いま、体育館では町の青年部が舞台をセッティングしており、音楽室では教員たちがバザーの準備。校庭はPTAの仕切りで設営が進み、この家庭科室では在校生の母親で構成されている母親会のメンバーが明日無料で振舞う料理の仕込みに追われている。
 六年生の息子がいるわたしは、ノルマとして課された里芋の処理を黙々と行っていた。大きなボウル四杯分、その半分がやっと終わったところだ。家に帰っても同じことをしないといけないと思うと、うんざりする。やっぱり持って来てしまえばよかった、とため息をくと、杏奈が「るいちんのときはあったん?」といてきた。「何が?」と返すと「餅つき大会」とさつまいもできねを振るう真似まねをする。
「餅つき? あったよ。そういや、いつからなくなったんだろ」
 冬の恒例行事だった。児童やその家族、近隣の住民たちみんなで餅をつき、きな粉や大根おろしで食べたものだけれど、息子が入学したときにはなくなっていた。
「面倒になってやめたんやで、きっと。そういやさー、類ちんのときって、もっと子どもおったん?」
「いまとさほど変わんないんじゃないかな。わたしが通ってたころから、全校児童三十人くらいだった、と思う」
 わたしの学年は六人で、ひとつ下の学年は五人いた。確か、児童がひとりもいない学年もあった。
「あのときも、二学年同時に授業を受けたりしてたもん」
 児童が少ないから他学年と共に授業を受けるのが当たり前で、学校全体がひとつのクラスのようでもあった。とても狭い世界ではあったけれど、その分陰湿ないじめはなくて、みんなのびのび生活していた。それを言うと、佳代子が「それが柳垣小のいいとこなんよね」と深くうなずいてみせた。
「集団生活のなんたるかなんてさ、中学、高校で十分学べるやん? 子どもの心がやわらかいときは、少人数でやさしい時間を過ごす方が絶対いいと思う。わたしたち夫婦は、そういうところで子どもを育てたくて、ここに来たんよ」
「え、田中さんってそんな理由で転校してきたん?」
 瑠璃子が驚いた声を上げると、「みんなも知っとるやろうけど、うちの子、えらい気が弱いんよ」と佳代子が眉尻を下げた。
博多はかたのマンモス校でいろいろあって、うまく友達作れんかったと。そんで、旦那の祖父母が住んでいた土地が余ってるってんで、こっちへ。ってまあ、旦那は最初からその土地を狙ってて、タイミング見てこっちに帰るつもりでおったみたいなんやけどね。やけん、ちょうどよかったっていうか」
「えー、佳代ちんの旦那さん、田舎に戻りたいなんて変わってんなあ。あたしはこんなとこもう飽き飽きやわ」
 杏奈が声を大きくする。もともと大阪に住んでいた杏奈は、喘息ぜんそくわずらっている双子のために、夫の両親が暮らすこの町に引っ越してきたのだ。
「飽きた? でも福嶋は、義理の両親が持ってる土地に一軒家を建てられそうでラッキーって喜んでたやんか。大きなガレージ付きの家を建てて、自宅でネイルサロンやるんが夢なんやろ?」
「あー、それな? 無理無理。町営住宅のやっすい家賃でも、正直生活カツカツやもん。持ち家なんていつになるか分からへん。それに、田舎でサロンやったって客なんてこおへんって気付いてん」
 放置しっぱなしだったピーラーを、杏奈はようやく手に取った。緩慢にさつまいもの皮を剥き始めながら続ける。
「ていうか、ここに住んでたらな、自分のセンスがゆっくり腐っていくのが分かんねん。センスっていろんなひとから刺激受けてナンボってとこあるやん? 田舎モンしかおらん町でどんな刺激があるん? って話。旦那も、ここに来てからなんかえないおっちゃんになってきてる気がすんねん。最近、大阪戻りたいなーってめっちゃ思う」
「でもほら、双子の喘息、だいぶよくなってるんやろ? こっちに来て、いいこともあるやん」
 瑠璃子が慰めるように言うと、杏奈は肩をすくめた。
「それが目的やから、むしろ当然やんか。いや、子どもらのためにここに住んどるってのは、分かっとんねん。でもな、親は子どものためにこんなにも我慢せなあかんのかなーってときどき思うんよ。旦那を魅力的に思えへんくなって、あたしはせっかくのお天気の土曜日にイモの皮剥き。どうしても、人生を無駄に消費してるような気がすんねんなあ」
 あきれちゃう、と声をとがらせたのは佳代子だった。いつもは感情を波立たせない彼女が珍しい。
「その愚痴は聞きたくないな。子どものために使う時間なんて、人生のほんの一部やんか。それくらい、我慢しなよ」
「ああ、ああ。正論はええねん。あたしだってちゃんと分かっとって、いまのはただの愚痴やで。でもさあ、子どものために使うこの数年って、自分にとっても大事やと思わへん? あたし、あと二年で三十代に突入やねんで。大事な二十代、こんなとこでだらだら消費や」
 佳代子が何か言いかけて、しかし口をつぐんだ。佳代子はいま、四十四歳。二十八の杏奈とは違うと思ったのだろう。しかし瑠璃子が「遊びたかったなら避妊すればよかったんだよ、避妊」と言わなくてもいいことを言う。できちゃった結婚だと言ってはばからない杏奈が、あからさまにむっとした顔をした。ピーラーを雑に置く。
「あーあ、みんな退屈なひとたちやねんな。なあ、ほんとうに満足してんの? こんなド田舎でつつましく、なーんのドラマも刺激もなく生きていくことに、ほんまに疑問はないん? 井の中のなんとかで、ただ世間知らずなのかもしれへんって考えへんの? 実際、都会にはトキメキがたくさんあるんやで?」
「あのねえ、杏奈さん。それは、あんまりに失礼な言い方だよ」
 会話に入らず黙々とこんにゃくの下ごしらえをしていた春日順子かすがじゅんこ――一年に男児、三年に女児がいる――が、我慢できないとばかりに口を開いた。眼鏡めがねの奥の目が、あからさまに軽蔑の色を浮かべている。
「私はいまの生活に満足しとるよ。田舎暮らしに憧れとったもん。それに、類さんみたいにずっとこの町で生活してきたひとをばかにしとるんじゃない?」
 突然巻き込まれたことに驚いて「え」と声を漏らしたわたしを、杏奈がちらりと見る。それからすぐにぷいと顔を背けた。
「類ちんは、ほんまに世間を知れへんカエルやんけ」
 きっぱりと言った杏奈は、ピーラーを掴んで皮を剥き始めた。言葉の強さに驚いた順子がわたしを見る。瑠璃子は「わぁお」と意味のない呟きを漏らし、佳代子はあわれむような顔を一瞬わたしに向けた。わたしはそんな彼女たちに、微笑ほほえんでみせた。
 別に、腹を立てることではない。そう言われてしまうのは、ほんとうだから。
 わたしは生まれてからこれまでの三十六年、かなた町から離れたことがない。
 かなた町は、九州は福岡県の北東部にある小さな町だ。農業が盛んで、というより農業くらいしかない牧歌的な町。その町の山中にある柳垣地区に、先祖代々住んできた。小高い未幌山と、そこから流れる乾川いぬいがわを囲むように広がる豊かな田んぼ。誇れるのは、自然だけだろう。
 若い世代を引き込むべく、古い町営住宅がモダンなマンション風に建て変えられてからは少しだけ活気が出てきたけれど、それでもはっきりと田舎のままだ。
 わたしは柳垣小学校を出て、かなた町立かなた中学校に通った。高校は隣の市で、大学は少し離れたところにある北九州市。どちらも、家から通える範囲にあった。就職先は家から車で五分の農事センターで、子どものころからの顔見知りの従業員たちに囲まれて事務作業をした。保育園から大学まで一緒という筋金入りの幼馴染おさななじみであり、かなた町に本社を置く土木会社に勤める悟志と結婚して、子を産んで、いまに至る。
 わたしは確かに、この町以外の生活を知らない。この町での当たり前のルールや言葉、季節の移り変わりのさまだけを知っている。しかしそれだけの知識でも、十分生きていける。
 それに、杏奈は愚痴をこぼしているけれど、いまの時代、田舎に住むことでのデメリットはさほどない。博多まで高速道路を使えば小一時間で行けるし、東京へも飛行機で二時間程度。たいていの流行はやりものは手に入れられるし、コンサートやイベントも田舎であることを理由にあきらめたことはない。
 この場所以外、世間を知らない。そう言われても怒る必要などどこにもない。
「杏奈さんは、センスが落ちたって言うより、やる気が落ちてるんじゃない?」
 突然、冗談めかして言ったのは、これまでずっと気配を消していた村上三好むらかみみよしだった。四年生の女の子がいるシングルマザーの彼女は、わたしの幼馴染のひとりでもあった。高校からは別で、彼女は熊本の大学に進学して、そこでそのまま就職もしたらしい。中学校の卒業式で別れてから彼女がどんな風に生きてきたのかは一切知らない。知っているのは、五年前に離婚して、子どもを連れてこの町に帰って来たことと、仕事は雑誌の記者だかで、ときどき子どもを実家の親に預けて取材に出かけているということ。
「そのネイルさー、軽く三週間はってるよね? 右の中指、浮いちゃってるみたいだけど、大丈夫?」
 三好が指差すと、杏奈がかっと頬を赤くした。順子がくすりと笑い、慌てて口元を隠す。ネイルを隠すように手を重ねた杏奈が「これは、子どもらが風邪かぜひいてそんな暇なくて」と恥ずかしそうに言う。
「そっかー。双子のママも大変だね?」
 家庭科室の中の空気が、気まずくなる。そのタイミングを見計らったかのように、教室のドアが勢いよく開いた。
「お疲れさまー! 地区会長が、全員に差し入れだって」
「ひとり一本でーす」
「冷えてるうちにどーぞー」
 どやどやと入って来たのは、PTAのメンバーだった。佳代子の夫でPTA会長の田中つとむとわたしの夫の悟志、三年生の男の子の母親の梅本美衣子うめもとみいこ。務が、抱えている発泡スチロールの箱から缶コーヒーを一本取って振ってみせた。その気楽そうな様子に、ピリついた空気がさっと入れ替わる。杏奈が「コーヒーしかないんですかー?」と明るい声を出した。
「うん、コーヒーだけ。でも、無糖、微糖、カフェオレ、カフェラテとございます」
 務が言うと、さっきまで眉根に深いしわを刻んでいた佳代子が「無駄に種類が多いね、パパ」と微笑んで近寄る。夫に寄り添うようにして箱を覗き込んだ佳代子は「地区会長の差し入れって毎回微妙だよね。前は子どもたちにアイスを差し入れてくれたけど、黒蜜きなこモナカって渋いやつだった」とすっかり機嫌をよくして言った。佳代子たち夫婦は、とても仲が良い。ひとり息子を可愛かわいがっていて、いつも両親そろって校内行事に参加しているくらいだ。
 みんなが手を止めて、PTAメンバーのところへ行く。それを眺めていると、悟志が無糖の缶を持って来てくれた。
「お疲れ、類。こっちはいつまでかかりそう?」
「あと一時間、いや一時間半くらいかな。そっちは?」
「設営はほぼ完了。年寄りの休憩用テントをもう一張用意するかどうかって話をしてて、それ次第では終わる」
 悟志が缶のプルタブを引き、口をつける。喉を鳴らして半分ほど飲んだ悟志はわたしの視線に気が付いて、「ん」とわたしに差し出してくる。
「喉渇いてるなら、全部飲んでいいよ。わたし、喉渇いてないし」
「そう? いや、さっきさ、カフェオレとカフェラテの差ってなんだって話になって、全員で飲み比べしとったんよ。ラテって激甘だな。シロップ飲んだみたいに口の中がベタベタして困った」
 やっと落ち着いた、と悟志が笑う。目じりに深い皺が寄る笑顔を眺めながら、そういえばこの町以外の男も知らないなと気付いた。高校二年のときに初めて付き合ったひとつ上の先輩も、そのあとに付き合ったクラスメイトも、かなた町に住んでいた。そして、目の前にいる夫も。そうだ、このひとも、わたしと同じでかなた町以外の場所を知らない。
「それは単にそういう商品だっただけだよ。甘くないラテだってあるよ」
「え、そうなん? くっそ、梅本のかーちゃんが言っとったん、まじだったか」
 言いながら、悟志は残りも一息に飲み干した。それから思い出したように、「明日の夜、何人かウチに来ることになったけん。飯の準備してくれな」と言う。新しい里芋に伸ばしかけていた手を、思わず止めた。
「は? 秋祭りのあとは、つくし亭で打ち上げじゃない」
 県道沿いにある小さな居酒屋だ。二階に広い宴会場があって、町内の集まりはたいていつくし亭の二階で行われる。昔からあるというだけで、店内も店員も洗練されておらず、味もそう。田舎の無個性な店だけれど、みんな当然のように、何かあればつくし亭を使っている。
「ふたり分の会費も、もう払ってるんだけど」
 思わず声がざらつく。でも悟志はまったく気にしていない様子で「我が家はキャンセル」と言う。何を急に、と顔を顰めると、悟志は「つくし亭の方には、笹原ささはらさんが来るんだよ」と顔を近づけてきた。コーヒーと電子煙草たばこが混じった臭いが鼻をついて、わたしは顔を少し逸#そ$らす。電子煙草の臭いは紙煙草のそれよりも苦手で、でも悟志は電子煙草の方が紙煙草よりマシだから、とめてくれない。
「笹原さんが来るのは、仕方ないんじゃない?」
 息を止めながら言う。
 去年までPTA会長を務めていた笹原には、四人の子がいる。第一子である長男が小学校二年のころから会長を務め、その任期は十一年に及んでいた。教員よりも学校に詳しくて、それをとても鼻にかけていた。悟志は笹原のことが嫌いで、『PTAの権限を私物化してる』なんて批判をするが、本音は口うるさい彼を目の上のたんこぶのように思っているのだ。
「笹原さんは実行委員のひとりなんだし」
 最後の祭りならば、と実行委員を買って出たひとは多い。コーヒーを差し入れてくれた地区会長もそうだし、かつての卒業生も、幾人か帰省してまで準備に参加している。打ち上げは、PTA役員たちはもちろんのこと実行委員も参加するので、笹原が不参加なわけがないのに。
 悟志がうんざりした顔をした。
「オレがあいつのこと嫌っとるん、知っとるやろ? 同じような考えのやつは何人もおってさ、だからウチで別途打ち上げしようってことになったとって」
「ってことになったって言われても。わたしはつくし亭の方へ行くよ。お金、もったいないもん」
 いったん支払った参加費は、よほどの理由がない限り返金してもらえない。前PTA会長が来るから嫌だ、なんて子どもみたいな理由を言えるはずないし、通用だってしないだろう。飲み放題込みのコースはひとり四千円で、だからふたりで八千円。それをみすみす捨ててしまうなんて、絶対にできない。しかし悟志は「何、言っとん」と目を剥いた。
「あいつの顔見てメシ食ったって美味うまくないやん。金がもったいないのはどっちも一緒やろ」
「明日は絶対疲れてるんだよ、わたし。食事の心配しなくていいんならって思って会費払ったんだよ。誰と一緒でも、胃が満たされるならいいよ」
 明日は朝七時に学校集合だ。カレーと豚汁の最終味付けをして、配布準備をしなくてはいけない。祭りが終わる予定は十八時で、そのあと一時間は片づけの時間を取っているけれど、その通りにきちんと終えられるかも怪しい。もちろん、休憩は取れるし食事だってできるだろう。でもきっと、すべて終わったころにはヘロヘロだ。そこから家に帰って、客をもてなす支度をしろ? そんなしんどいこと、できるわけがないでしょ。やりたきゃ自分で全部やってよ。口に出せば大喧嘩おおげんかに発展することを脳内でまくし立てたが、悟志は「ふたりとも、キャンセルなの!」ときっぱりと言った。
「メシは、刺身とか惣菜そうざいとか? そういうの適当に買ってきて、大皿に盛り付けるだけでいいけん。いちから作れとは言わんけんさ、簡単やろ? 浩志こうしはうちの親と一緒に晩飯食いに行く予定やったやんか。子どもがおらんだけ、全然マシやんか」
 悟志の声がささくれ始めた。思い通りにならないと、いつもこれだ。気分がよくないとアピールすれば、あとはこっちが勝手に察して動いてくれると思ってる。黙っていると、「じゃあいいよ、おかんに頼む」と口を尖らせた。
「オレの実家で打ち上げやる。類はつくし亭に行けば?」
「外食の予定を、取りやめさせるっていうの? そんなの、お義父とうさんが怒るよ。予定を変えられるの、嫌いなひとじゃない。わたしが叱られる」
「分かっとるんなら、類がやって」
 鼻の穴まで膨らませる。その顔は、ねたときの浩志とまったく同じだ。
「……誰が来るの」
 ため息を吐きながら言うと、悟志が数人の名前を出す。その中に『福嶋』があって、もう一度ため息を吐きそうになった。杏奈の夫が来るとなれば、杏奈だって絶対に来る。あの子は夫に魅力がなくなったなどと言っておいて、ほんとうは夫にべったりなのだ。そうなると当然、双子を連れて来る。結局、子どもの食事まで必要じゃないか。
「じゃ、そういうことで決まりな。何ならさ、この後買い物して帰ってもいいけん。そうすっと、明日が楽やん?」
 悟志は急に機嫌よく言って、「じゃ、残りも頑張りますか!」と声を張ってみんなの方へ戻っていった。
「大変だね」
 ふいに声をかけられて、振り返ると三好が立っていた。
「あ、三好。さっきはかばってくれてありがとう、あの、大変、って?」
 まさか、いまの悟志との話を聞かれてしまっただろうか。恥ずかしい。身構えると、三好は「地元を出てないってだけであんな風に言われてさ」と父親たちと談笑している杏奈を顎で指した。
「類が羨ましいんだよ、ほんとは。類の実家は地主で父親が現役町議会議員でさ、悟志は代々続く鈴原すずはら土木の跡を継ぐ予定でしょ? 親にでっかい家を建ててもらって、優雅に暮らしてるときたもんだ」
他所よそからはそう見えるかもしれないけど、実際は羨ましがられるほどじゃないんだよ。わたしの実家はお兄ちゃんが継いでるし、悟志の実家とはお隣さんで気を遣うし。わたしはパートにだって出てるんだよ?」
「豊かなのは、ほんとうのことじゃん。パートって言っても、週二回公民館の管理という名の留守番をやってるだけだよね。朝の九時から五時までベルトコンベアと格闘しているひとからすりゃ、そりゃ天国だと思われるよ」
 あっけらかんと笑われて、反論の言葉を見失う。義父の経営している土木会社の現場で働いている悟志の給料は、先はどうあれ、いまは決して高くない。そしてひとり息子の浩志は勉強が苦手で、中学校に入ったら隣の市の個別指導塾に通わせる予定にしている。だからこそいまからパートに出てお金をめておきたかったのに、義父が『嫁がガツガツ働いていると体面が悪い』と言い『ここならなんぼかマシ』と勝手に選んできたのだ。でも、それを三好に話しても、「職探しの手間も知らないんだ」とまた笑い飛ばされるだけだ。口を引き結ぶと、三好は「ひとはさ、分かりやすいところにねたむんだよ。しかも類は大人しいし、目をつけられやすいから大変だねって言ったの」と微笑む。
「そんで、あのひとはまだ幼いから、自分の目に見えないところで誰にどんな苦労があるのかなんて想像もつかないんだと思うよ。トキメキは都会にある、なんてまさに幼い幼い。みんなこの町で、しちゃいけない恋愛なんかをじゅうぶん楽しんでるよ。瑠璃子さんとか、ね」
 くすりと三好が笑って、瑠璃子に意味ありげな視線を流す。目で問えば、三好は「美衣子さんとこの、夫」と声を小さくした。
 思わず、離れた場所で笑っている美衣子を見た。美衣子は息子のほかに、今年中学一年生になった娘もいる。自動車部品工場の管理課で働いているという旦那さんは、ときどきしか見たことがないけれど、やさしそうな穏やかなひとだった。一度だけ話したことがあるけれど、子どものためにPTA活動に精を出す美衣子を『とてもいい母でありいい妻』だと誇らしそうに言っていた。
「え。夫婦仲、いいと思ってた……」
「どこの夫婦にも、水面下でそれぞれ問題があるってことよ。そんで、瑠璃子さんの夫は学校行事完全拒否のレアキャラ。暇さえあればゴルフにばっか行ってるっていう」
「うん、そうだったそうだった……。でも三好、何でそんなこと知ってるの」
「ふたりがホテルのバーで飲んでるところに、遭遇しちゃった」
 三好が肩を竦めて見せた。小倉こくらのリーガロイヤルホテルのバーに、仕事仲間と行ったのよ。そしたらカウンターでぴたーと寄り添ってるふたりがいてさ。手をぎゅっと恋人つなぎして、ばしばし見つめあっちゃってんの。ガチな不倫現場に遭遇するのなんて初めてだからさ、仲間と一緒にガン見しちゃった。向こうは全然、気付いてなかったけどね。
 わたしはこわごわと瑠璃子の方に目をやる。瑠璃子は、たしか三十九歳。明るいムードメーカーではあるけれど調子に乗ると小学生みたいな下ネタが多くなる。短く切った髪に肉のついていないからだつきで、最低限のメイクしかしていない彼女は色恋めいたものとは縁が遠いと思っていた。
「う、わあ。意外すぎて、なんだかショック……」
「あっはは。類も幼いわ。恋や愛で生まれるドラマは、ひととタイミングさえみ合えばどこでだって、老人介護施設でだって発生すんのよ。ついた火がどこまで燃えあがるかも分かんない。つか、この学校だってドラマがあったじゃん。覚えてるでしょ、群先生」
 三好がさらりと口にした名前に、心臓が跳ねた。
「六年生のときだったよねー。二学期が始まる前に、行方ゆくえ不明になっちゃった」
 わたしが群先生たちのセックスを目撃した日の、翌日のこと。
 初潮を迎えたわたしは、じりじりと疼く下腹部と、初めてのナプキンの不快さにすっかり参ってしまい、リビングで寝転んでいた。眠れば前日のことを夢に見て飛び起き、アブラゼミは相変わらずうるさくてイライラもしていた。母は昼食後にPTAの会議があると言って学校に行ったまま、日が暮れかけても帰って来ない。もしかしてふたりのことで何かあったのだろうかとやきもきし始めたころにようやく帰宅した母は、群先生が行方不明になっていると言ったのだった。
『昨日の夕方に学校を出たまま、家に帰っとらんのって。ご主人が警察に届けたらしいんやけど、もしかしたら車ごと山のどっかに落っこちたんやないかって消防隊が捜索しとるんよ。ほら、先生は頼りないっちいうか、こう、ぼんやりしたところがあるやない? そういうことも十分ありえるって話になったんよ。先生は車通勤で、いつも、山越えた先の方のスーパーを使ってたはずなんやけど、そこに行く途中に何かあったんやないか、って』
 どうしたんやろうねえ、と顔を曇らせる母を前に、茫然とした。群先生がいなくなった。それはきっと、あの画家が連れて行ったに違いない。群先生は、画家とこの町を出て行ったのだ。
 立ち尽くしたわたしの股から、ずるりと血の塊が吐き出される感触があった。
 それから数日後、群先生は自身を必死に捜索している夫に記入済みの離婚届を送りつけてきた。彼と一緒に、広い世界を見つめて生きていきます、とメモ書きをつけて。大人たちは、そのときになってようやく画家がいなくなっていることに気付き、狭い町は駆け落ちだと大騒ぎになった。
 群先生はあのとき二十七歳で、新婚だった。かなた町出身で、六年付き合って結婚した恋人は隣町のひと。夏休みの半年前に結婚式を挙げて、わたしたち児童は群先生のためにビデオレターというのを撮影した。群先生、結婚おめでとー。絶対絶対、しあわせになってね。そしてこれからも、わたしたちの先生でいてください。群先生、大好き! 一年生から六年生みんなで贈る言葉を決めて、先生たちや近所のひとまで巻き込んで、手作りのフラワーシャワーをいた。群先生は結婚式の会場でそれをてわんわん泣いたと、式に出席した先生たちが言っていた。
 真面目まじめだけど少しだけ抜けていて、自己紹介をすれば好きな言葉は『堅実』と言うようなひとだった。児童文学と絵本の知識が深くて、群文庫と名付けられた、群先生の私物で構成された学級本棚にさまざまな書籍を並べてくれていた。化粧っ気がなく、黒く、やわらかな細い猫っ毛をひとつに纏めて、本を読むことだけが楽しみというひと。そんなひとが出会ったばかりの画家と駆け落ちなんて。誰もが口々に、信じられないと言った。
「いま思えば、なんだけどさ。あの絵描きってさ、小汚かったけどわりといい男だったよね。ダメンズゆえの魅力っていうのかな、ひとをたぶらかすのにけてる感じ、あったよ。男子とか、あいつに夢中になってあとをついて回ってたよね。そうそう、先生がいなくなった後、先生の夫が毎日のように学校に来て怒ってたの、覚えてる? 校長の管理不足じゃないかーとか何とか言って。管理不足って何だよって感じだよね。逃げられたあんたにも非はあったんじゃないのかって、わたしなら言っちゃうだろうな」
 三好がくすりと笑うがわたしは笑えなかった。あのとき自分が見たものは、いまだに誰にも言えていない。群先生と画家のことで何か気付いたことはないか、と大人たちはわたしたち子どもに訊いたけれど、わたしは首を横に振った。一緒に目撃した、あの子も。
「群先生、明日、来たりしないかな」
 思わず呟くと、三好が一拍の間を置いて「はぁ?」と声を低くした。
「来るわけないじゃん。でも、そういうことしそうな図々ずうずうしさは、確かにありそう。なんたって愛の逃避行なんてできるひとだし」
 三好は納得したように頷いて、手にしていた無糖の缶コーヒーに口をつけた。
「わたしはあのころから生意気な子どもだったからさ、『意外とだらしないひとだったんだなー』くらいの印象しかなかったけど、捨てられたってガチ泣きしてた子もいたじゃない? ああいうのを思い出すと、いま不幸だったらいいなーって考えちゃう。どういう情熱が爆発してああいう道を選んだのか分かんないけど、罪は罪だよ。因果応報ってのを味わっててほしいよ」
 軽いようでいて、しかし重たい言葉に、そういえば三好も泣いていやしなかったかと思い出した。そうだ、三好は群文庫の一番の読者だった。
「因果応報で苦しんでる姿なら、見せてほしいよ」
 きっぱりとした三好の言葉に、何も答えられなかった。
 わたしは、あれから何度となく、そして最近は特に、あの日のことをふっと思い出していた。そうして、この町を出た彼らの『あれから』を想像してしまうのだった。
 彼らは、ここを出てどこへ行ったのだろう。
 画家は、小さな子どもひとりくらいならすっぽりと入れそうな、大きくてくたびれたリュックを背負っていて、その中にごちゃごちゃと日用品や画材を詰め込んでいた。二十年愛用しているというステンレス製の傷だらけのマグカップや、目をみはるほど高価だというラピスラズリの絵具。食べかけのビスケットの袋に使い込まれたサバイバルナイフなんかが一緒くたになったリュックは、二十二世紀から来た猫型ロボットのポケットのように、何でも収納できてしまいそうだった。画家はそのリュックひとつで、日本中、世界中を旅してきたのだと言った。
 子どものころは、きっと群先生は、愛車だったピンクの軽自動車ごと、あの画家のリュックにすっぽり入ってしまったのだろう、と想像した。群先生はカンガルーの子どものように、リュックのふちからぴょこんと顔を出している。そして日本や海外の素敵な町の素敵な場所で出してもらって、丁寧にコーヒーをれられるカップのように、宝物のごとくそっと筆に載せられるラピスラズリの絵具のように、一等特別に触れられるのだ。青い炎を纏った画家に。
 ありえない空想だ。けれどそれは真実のように思えてならなくて、わたしは薄い絵を何度もなぞって濃くしていくように、何度も色を塗り重ねていくように、想像を鮮明にしていった。だからいまでも、わたしの想像する群先生は画家の背負うリュックから幸福そうな顔で外を眺めている。

 料理の仕込みをどうにか終えて学校を出たときには、日が暮れかけようとしていた。
 まだ残っているPTA役員の何人かが、設置されたばかりのテントで楽しそうに話をしていた。「早く帰れよ、手抜き主婦」「とーちゃんが夕飯作ってくれてるから大丈夫なんですう」「そんなことしてたら、捨てられちまうぞ」「余計なお世話ですう」美衣子が誰かの夫と呑気のんきに笑っているのが見える。その中に悟志はいないようだ。もう家に帰っているのか、と思えばタイミングを見計らっていたかのようにスマホにメッセージが届く。見れば、『明日、おかんが鶏の唐揚げ作ってくれるって。よかったな、お礼言っとけよ』という内容だった。それをしばらく眺め、最近流行っている猫みたいなキャラクターが『了解です!』と笑っているスタンプだけを返した。既読はつかない。
 スマホをバッグに押し込んで、車に乗る。エンジンをかけて、スマホをもう一度見る。今度は浩志から『お腹空なかすいたから、ばあばの家で夕ごはん食べる』とメッセージが届いていた。浩志は夕飯が待ちきれないときや、おかずが不満なときは、すぐに隣の義実家に行く。孫に甘い義母はきっと、野菜嫌いの浩志のために肉料理を支度してやっているのだろう。返信せずに、スマホを助手席に放った。
 車を動かして、学校を後にする。数メートル進んだところで、ふっと車をめた。窓を開けると、やわらかな風が吹き込んでくる。ふわりと浮いた髪を片手で押さえた。
 鮮やかな赤と深い紫、濃い黒のグラデーションが、山稜をふちどっていた。空と山のあわいに向かって、鳥がまっすぐに飛んでゆく。稲刈りを終えたばかりの広大な田んぼを挟んだ先に点在する家たちに、ぽつりぽつりと灯#あか$りが宿る。遠い昔、あの画家はたまたま通りがかったかなた町の、この夕日をうつくしいと感じたからここに滞在したのだった。とてもいいよ。お前たちはこんな景色を当たり前に見て過ごせるなんて、しあわせだな。毎日が名画だぞ。どこか恍惚こうこつめいて言った画家に、わたしは『こんなの全然つまんないです』と言った。『ちっとも綺麗きれいじゃない』とも。そんなわたしを、画家は愉快そうに見てきた。
 あのときからいままで、この景色をどれだけ眺めてきただろう。膨大な時間だろうけれど、一度たりとも、うつくしいと思ったことはない。いつだって、わたしはこの景色に絶望していた。この景色の向こう、あの山々の向こうの世界ばかりを想像して、かれてしまう。
 スマホが震える音がした。今度はメッセージではなくて電話のようだった。ちらりと目を向ければ義母からのようだった。手を伸ばしかけて、しかしスマホを掴む前にぴたりと止まる。言われることは、想像がつく。
 着信は、途絶えない。小虫の羽音のようなその音を聞いていると、無性に腹が立った。ぼっと炎が燃え上がるような衝動を覚え、スマホを鷲掴わしづかみにする。通話ボタンを押そうとして、すんでのところで止めた。
「ふっ」
 大きく息を吐いて、スマホを握りしめる。手の中で、うるさいスマホが大人しくなった。空のグラデーションが黒に飲み込まれそうになるまで、わたしは動けずにいた。



 翌日は朝から嫌な雰囲気だった。どういう訳だか、わたしの母をはじめとした〝かなた町婦人会〟の女性数人が、手伝うと言ってエプロン持参で現れたのだ。わたしたちがカレー用の米をせっせと研いでいる横で、「ええ!? カレーも豚汁も、たったこれっぽっちしか作ってないの」「あたしたちのときはもっと大量に作らされたもんよねえ」「この際、具は少なくてもいいからさ、かさ増ししちゃいましょ」と勝手なことをし始めた。そんなことをしておいて、プラスティックの器が足りなくなりそうだと慌てるものだから、みんながイライラし始める。順子がやんわりと「数を計算して作ってましたので」と言うも「その計算がそもそも足りてないんじゃ仕方ないでしょ」と返す。そんな中で地区会長が「君たちが忘れてたらいけんち思って、持ってきてやったけん」とドヤ顔で福神漬けとらっきょうを三十袋も持って来た。それらは忘れたわけではなく、そこまでしなくていいという判断だったのだが、母たちは「まあまあ! こんなに女がいてそんなことに気付かなかったなんて」と呆れた顔をして地区会長に大げさに礼を言った。近所のおじいさんが、豚汁に使ってくれと自分の家の畑から泥付きのねぎを大量に持って現れれば、また大げさに礼を言う。
「なあ、帰ってもらえへんの?」
 黙って葱を刻んでいると、そばに来た杏奈が小声で言った。
「自分の母親やろ? 受け取ったもんはしゃあないけどさあ、せめて、あたしらがやるから遠慮しろって言ってや。うるさくてかなわん」
「……無理。言ったら大変なことになる」
 母は、自分こそが正しいと信じている直情的なひとだ。そして娘は世間知らずで愚図だと思っている。わたしが下手へたに口を出せば「何も分かっていないくせに」とどこであっても怒鳴り散らす。それをなだめるのは一苦労で、黙っているのが一番穏便なのだ。
 杏奈が「そーゆーのさあ、共依存っていうやつちゃう? 迷惑やから、家でやってくれや」と舌打ちしたが、わたしは手元の葱だけを見つめていた。
「おはよーございまーす! 豚汁できた? できあがり次第、来賓の教育委員会のひとたちに振舞うから、教えてくださーい」
 大きな声と共に、美衣子が入ってきた。
「とりあえず、五人分用意してくれる? お盆に人数分よそったら、声かけて。務さん……田中パパが持ってくことになっとるけん」
「いちいち声掛けに行くの、手間やない? こっちで持ってくよ」
 瑠璃子が言うと、美衣子はひょいと肩を竦めた。
「だめだめ。ここは田中〝会長〟じゃないと、だめなんよ」
「え? ああ、そういう」
 美衣子と瑠璃子が目配せしあう。「えー。何? 何なん?」と大きな声を上げたのは杏奈で、美衣子が少し躊躇ためらう様子を見せる。美衣子が口を開く前に、母が「立ててあげないといけんっちことやろ」と大きな声で答えた。
「はあ、たてる」
 きょとんとした杏奈を無視して、母は「仕方ないわねえ、男のひとは。はいはい、そうしましょ。じゃあさっさと味を調ととのえないと」と味噌みそを手にした。
「意味分かんないです」
 杏奈より大きな声で、しかし静かに言い放ったのは三好だった。
「おばさん、さっきからなんで不必要に男性にぺこぺこしてるんですか。過剰な安売りされると、同じ性を背負ってる別の誰かが困るんで、止めてくれませんか」
 母の笑顔が凍った。
「え、え、三好ちゃん。どういうこと?」
「これは役割分担なんだと思って、わたしは黙って作業してます。でも、自分の仕事の成果を無関係の誰かの手柄にするというのは納得いきません。昨日から作業しているわたしたちの誰かが持っていくのが当然じゃないですか?」
 同性、ましてや年下に反論されることをよしとしない母の顔が、さっと赤らむ。婦人会の他の女性が「ちょっとちょっと、豚汁くらいで何を大げさなこと言っとるんよ」と割って入った。
「誰が持っていこうと、そんなの大した問題やないでしょ」
「大した問題じゃない、そういう積み重ねが大きな問題に繋がります。ねえ、美衣子さん。もし会長に持って行かせたいんならさ、ここに来させて葱の一本でも刻ませてよ」
 ぱっと周囲を見回す。こういうとき、会長の妻でソツのない佳代子がいたらうまく収めてくれるんだけど、と思うも佳代子はいない。そういえば、家の用事で来られなくなったという話だったか。
 美衣子が大げさにため息を吐いた。
「三好さーん、ちょっと冷静になろ? いまそんなことで口論してる暇、ないやんか」
「女性は男性の体面を配慮して折れるべき、そう考えてるの? わたしはそんなの納得いかないんだけど」
「待って待って、そんな大きな枠で話すの止めようよ。えーと、ほら、大人が子どもに対して花を持たせることってあるやん? 今日のところはさ、そういう感じで妥協してくんない?」
「わたしは子どもに、正当に手にしたものだけを誇りなさいって言ってます」
「ああもう、うるさい子やね! あんた、もう出て行き!」
 母の限界がきた。出入り口を指差し、「たかが料理ひとつ譲れんなんて心が狭すぎるっちゃないと? 和を乱しとるんはあんたやろ!」と叫ぶ。室内が、しんと静まり返った。いくつもの鍋が煮える音が小さく響く。肩で息をする母を、三好は、とても冷静な目で見返した。それからぐるっと室内を見回して「そうですか」と呟くように言った。
「では、わたしはここで失礼します」
 三好がエプロンをぎとり、端に置いていた自身のトートバッグを手にする。杏奈が一緒に出ていきたいようなそぶりを見せたけれど、周囲の様子を窺って止めるのが見えた。三好は一度も振り返らずに、家庭科室を出て行った。
「あの子、昔っから屁理屈へりくつばかりこねとったもんねえ」
 母が怒り冷めやらぬ声で言い、しかしわたしたちを見回して「さあさ、作業に戻りましょ」と無理やり笑って見せた。
「そしてあなた。すぐに支度するから、そこで少し待ってなさい」
 母が美衣子に言い、美衣子は「あ、その、すみません」と居心地悪そうに頭を下げる。それぞれがのろのろと作業に戻りはじめ、わたしも再び葱を刻んだ。
 三好はすごいな、と思う。わたしはあんなこと言えない。言えたらいいなとは思うけど、きっと全身が震え、言葉はうまく出てこないだろう。そして、集団からはじき出されてしまうことに恐怖を覚えてしまう。でもそれは、わたしだけのことではない。わたしが弱いわけではない。だってほら。誰も、杏奈ですら結局動かないでいる。
 いまの時代、さまざまな意識が変わっていこうとしている。人間は誰しもが平等で、男女は対等だ。これまでは見えないものとされてきた、差別ゆえの苦しみやかなしみは、その存在を認められた。そんな痛みは取り払われていくべきだと、みんなが言っている。誰しもが自分をおとしめずに生きることのできる世界にしていくために、三好のように迷いなく言葉にできるひともこの世にはたくさんいる。そういうことを、わたしだって知らないわけじゃない。
 でもこの町でのマジョリティはいまもまだ、家庭科室に残ったわたしたちなのだ。
 だって大した問題じゃない。たかが豚汁の話じゃないか。それくらいのことで声を荒らげていらぬ体力と時間を消費して、挙句にいらぬ傷を負うなんてばからしい。黙ってハイハイと従っておくほうが、よほど楽に生きていられる。そう思ってるからこそ、みんな黙っている。わたしを含めて。
 罪悪感を抱かないわけではない。
 傷つくことになっても闘った三好を、母だけではなくわたしも傷つけた。母となんら変わらない加害者だ。わたしのような無数の『加害者』たちが、世界が生まれ変わるのを邪魔しているのだろう。
 でもそんな薄暗い感情は、この部屋に横たわる沈黙が薄めてくれる。罪悪感は、わたしだけのものじゃない。
「おい、類! すごいゲスト来たぞ!」
 興奮気味の悟志が家庭科室に飛び込んできたのは、葱が全部刻まれたころのことだった。
「見てくれよ、ほら!」
 言うなり、誰かを押し出してくる。困ったように笑って入って来たのは、ひとりの男性だった。見覚えはない。やわらかそうな白のカッターシャツに、カーキのチノパン。片腕に、ベージュのステンカラーコートをかけていた。ちらりと見た裏地で、バーバリーだと分かる。
「誰?」
 出入り口の近くにいた順子が、わたしより先に悟志に訊くが、悟志はにやにや笑っている。何か答えを言わなくてはならないのか、と男性を改めて見る。三十代半ば、くらいだろうか。背が高く、スタイルも悪くない。服のセンスもいい。柔和な顔立ちで、雰囲気イケメンという感じ。俳優の誰だったかにちょっと似ている、と観察したところで何か引っかかるものがあった。この違和感は、と小首をかしげると「香坂玄こうさかげん!」と順子が大きな声を上げた。次いで母が「ああ! 香坂くんじゃない!」と同じくらい大きな声を出す。
「香坂玄くんでしょう。あらあら、全然分かんなかったわあ。あら、なんであなたが香坂くんのこと知っとるん? この町出身やなかったわよね?」
「だって有名ですよ! え、え……、信じらんない。香坂玄だ……」
 興奮しすぎてしまったのか顔を真っ赤にしている順子に、男がふわりと微笑んだ。その顔に、わたしもようやく思い出した。
「こうちゃん……」
 ああ、そうだ。間違いない。彼は、あの夕暮れにわたしといた男の子だ。
「そうなんだよ、オレたちの一個下だった、玄! しかもこいつ、いまじゃ有名な作家先生なんだって!」
 悟志が、あたかも自分の手柄のようにドヤ顔で言った。
 気付けば、こうちゃんは母たちに囲まれて、できたばかりの豚汁を供されていた。
「なんか、すみません。おれ、何の手伝いもしていないのに」
「お客さんなんやけん、気にせんでください。ていうか、あの香坂玄がこの学校の卒業生だったなんてちょっと信じられんのですけど」
 こうちゃんの横で頬を染めているのは、順子だった。いつもは出しゃばることなく控えめにしている順子が、珍しい。それくらい、こうちゃんの登場がうれしかったということだろう。
 こうちゃんは作家で、最近人気が出始めているのだという。読書家である順子は香坂玄の大ファンで、既刊は全部持っているのだと若い女の子のように恥じらいながら言った。その隣にいる母は、「香坂玄って作家は知っとったけど、あの香坂くんとは繋がらんかったわあ。わたし、ひとの顔を覚えることには自信があったんやけどねえ」と悔やんでいる。
「気付かなくても仕方ないですよ。おれ、るいちゃんが小学校を卒業する前に家の都合で引っ越しましたから」
 穏やかに笑ったこうちゃんが、綺麗に箸を使う。作家と聞いたからか、白くてきめの細かい手がとても繊細に見える。あのときわたしと繋いだのは、いま箸を握っている右手だった。
「でもどうして、香坂くんはここに?」
「知り合いのクリエイターが、廃校をリノベーションするって企画をやってるんです。たまたま候補の学校を見せてもらっていたら柳垣小学校の名前があったので、びっくりしました。それで、おれの母校だって言ったら、いい機会だから下見に行ってくれって頼まれて。ていのいい使い走りです」
 困ったように、こうちゃんが笑う。母が「廃校のリノベーション! テレビの特集で見たことあるわ。どういうことをする予定なん?」と身を乗り出した。
「おれが聞いたのは、ワークショップやカフェを考えてるってことでしたね。この周りは自然豊かだし、宿泊施設にしても面白いんじゃないでしょうか。星を見るツアーや山菜採集ツアーなんて企画をやるのもよさそうだなあ。もちろん、成功してる例があるんですよ」
 離れた所にいた杏奈が「それええやん!」と声を弾ませた。
「ワークショップができるんなら、ネイルサロンもやれるやんな?」
 もちろん、とこうちゃんが頷けば、婦人会の面々が「ハンドメイドアクセサリーの販売とかも? あたしたち、そういう場所を探しとるんよ」と言う。
「いいと思いますよ。いま、廃校舎を再利用した事業で成功している自治体は多いです。たくさんのひとが立ち寄ることで、町も活性化しますし。もちろん、その土地に住むみなさんのご理解と協力があってのことですけど」
 杏奈が「やっばい、テンション上がってきた」と手をたたく。
「絶対やってほしい。ここがにぎやかになるん、大賛成。あたし、めっちゃ協力するわ。香坂さん、きっとやってよ」
「はは。残念ながら、おれに決定権はないんです。でも、プレゼンはしっかりするつもりです。さっき悟兄さとにい……じゃなかった鈴原さんにもお話ししたら、同様に喜んでくれて」
 悟志は、PTAの仕事に戻らなければいけないと言って名残なごり惜しそうに去っていた。イベント好きな悟志のことだから、それは大乗り気だっただろうな、と思う。うちの会社にも絶対手伝わせてくれよ、くらいのことはもう言っているだろう。
「それは、うちの主人にも話さないといけんわね。過疎化が進んでいるこの町にどうひとを呼び寄せて、どう盛り上げていくかって、いっつも頭を悩ませとるんよ。きっと協力するはずよ。でも、香坂くんったらすっかり立派になったんやねえ。この町から出世したひとがおるっちいうだけで、何だか嬉しいわあ」
 母が感心すると、こうちゃんは「やめてくださいよ、おばさん」と困ったように笑う。
「本音を言うと、そういう理由でもつけないと、子どものころに通っていた小学校に来られなかっただけなんです。だってセンチメンタルすぎるでしょう? でも、懐かしい顔に会えて嬉しいです。悟兄や、るいちゃんに会えた」
 こうちゃんが、わたしを見る。彼の目の動きが、スローになった気がした。
「久しぶり、るいちゃん」
 こうちゃんが、花が咲き零れるように笑った。思わず、目を奪われる。わたしの周囲に、こんなに綺麗に微笑む男はいない。
「元気だった?」
 目を逸らせないまま、喉がからからになっていることに気付いた。体温が上昇していく。
 どうして。どうして?
 まったくの別人なのに。似ても似つかない顔なのに、なのに、こうちゃんがあの画家と重なって見えた。あのひとみたいにだらしなくないし、男くさくないのに、フィルムを二枚重ねたみたいに、すっかり同じに見えた。
 黒板の上に設置されたスピーカーから、ブブ、ブン、と不愉快な接続音がした。
『全校児童並びに、ご来場のみなさま、柳垣小学校関係者のみなさまにお知らせいたします。これより校庭にて、柳垣秋祭りの開会式を行います。みなさまどうぞ、校庭にお集まりください』
 やだ、もうそんな時間? とみんなが立ち上がる。エプロンをしたまま外へ向かうひとたちの中で、わたしはこうちゃんから視線を外せずにいた。彼もまた、わたしの方を見たままだった。
 あの日、校舎から飛び出したわたしたちは、校門まで全速力で走った。お腹の一部をぐっと鷲掴みにされたような痛みと、ふくらはぎの痛みがべったりと張り付いている。混乱の叫びが溢れそうになって、でも決して声を上げてはいけない気がして、唇をぐっと噛み締めて耐えた。
 門を出て、いつも通りの景色を前にした途端、『わあぁ』と悲鳴に似た声が溢れる。全身が震え始めたわたしの両手を、こうちゃんは『大丈夫だよ』と強く握った。
『とりあえず、ぼくの家に行こ? ぼくの家、近いから。それに、ぼくのお母さん、看護婦さんだから治療してくれるよ』
 こうちゃんに手を引かれて、そろそろと歩く。下を向けば、血で染まった足が嫌でも見えて、涙が溢れる。でも、目を逸らせずに泣きじゃくるわたしの隣で、こうちゃんは何も言わなかった。ただただ、強く手を握ってくれていた。でも途中、ふっと足を止めて『あ、ほら』と先を指差した。
『すごくきれいだよ』
 わたしは、こわごわと顔を上げる。そこには、真っ赤な夕焼けが広がっていた。取り残された入道雲が、大きな刷毛はけで朱色をさらさらと塗られたように色を纏っている。鳥の影が山に向かって羽ばたいている。遠くに、自転車を漕いで田んぼの見回りをしている誰かの姿があった。
『あのひとと同じこと、言うんやね』
 ぽつりと呟いた声の最後は、嗚咽おえつで潰れた。
『同じこと、言わんで』
 うめきながら涙を零すわたしに、こうちゃんは驚いた顔をした。それから『ごめん』と茫然と呟いた。
 過去に思いをせることができたのは、そこまでだった。秋祭りは、始まってしまえば想像を超える忙しさだった。母親たちはそれぞれの子どもの発表の時間だけは体育館に行って観覧することができたけれど、それ以外はひたすら雑務に追われた。餅を丸める手が足りないと駆り出されたかと思えば、バザーに使ってと採れたての野菜を持ち込んできた近所のひとたちの応対をさせられる。ピンクのツインテールが目を引く派手な女の子を珍しいと思って見ていれば具合が悪いおじいさんに捕まって、彼を保健室に運び込んだ。そんな中で、懐かしい私のこと覚えてるといきなり大昔の知り合いにも捕まった。目が回るような忙しさで、しっかりめにメイクをしてきたつもりだったけれど、午後にはすっかり剥げ落ちていた。
 順に取っていいことになっている休憩時間――といってもわたしがやっと一息つけたのは、十五時を回ったころだった。出店に遅すぎる昼食を買いに行く元気も、二割引きで販売され始めたバザーで出物を探す体力もなかったから、休憩所になっている家庭科室で誰かの差し入れのエナジードリンクをちびちびと飲んでいた。校庭からは、三十分ほど前から始まったカラオケ大会の歌声が響いてくる。いまは、飛び入り参加した杏奈の双子の娘が『Wink』の『淋しい熱帯魚』を歌っている。二卵性双生児のふたりは、顔立ちも性格もあまり似ていないけれど、完璧にハモっているように聞こえる。歌う前、特別な練習はしていない、と司会の質問に答えているのが聞こえたけれど、それが信じられないほどシンクロしている。特別ではなく日常的に練習しているんだろうな、とぼんやり思った。
 大歓声の中で双子の歌が終わり、今度は年配の女性の声がした。『わたしの大好きだった、柳垣小学校。ありがとー!』と感極まったように叫んでいる。いつかの卒業生なのだろう。それを聞いて、小さな笑みがこみ上げてきた。ここがなくなる、それだけのことに、一体どんな感傷があるというのだろう。ここが取り壊される様子を目の前にしても、わたしの心はきっと微塵みじんも揺れない。いやむしろ、晴れ晴れとした気持ちになるのではないだろうか。何の変化もないこの町に、喪失という変化が生まれるのだから。
「ああ、はやく終わらせてほしい」
 無意識に呟いていて、はっとする。あまり大きくなかったはずの呟きが届いたらしく、椅子に深く腰掛けてスマホを操作していた順子が顔を上げる。何を言われるかと身構えると、「同じく帰宅希望」と片手を挙げた。
「拘束時間、長すぎやんね。さっさと家に帰って、ビール飲んで寝たい」
「ビール、いいね。キンキンに冷えたやつ」
 ちょっとだけほっとして笑うと、順子がふしぎそうな顔をした。
「類さんは飲まないひとやんか。下戸げこやろ?」と訊かれる。
「それ、違います。浩志のおばあさんたちが、お酒を飲む女のひとが嫌いってだけです。浩志が言ってました」
 わたしの代わりに答えたのは、瑠璃子の娘の美冬みふゆだった。とても勉強ができるが、それと同じくらい気難しいらしい。クラスメイトである浩志は、『あいつオレたちのことばかにしてんだ。意味分かんないことですぐ怒る』としょっちゅう腹を立てている。
 他の子どもたちはそれぞれ祭りを楽しんでいるはずだけれど、美冬はここでひとり本を読んでいた。見回せば、瑠璃子の姿はない。ページに視線を落としたままの美冬は「浩志もそれに影響を受けてるみたいで、お酒飲む女はばかだとかだめだとか偉そうに言ってたんで、もうちょっと脳みそ使って考えてみなって怒りました。類さん、浩志は浅はかだと思います」と淡々と言った。我が子と同い年の子どもに『類さん』と呼ばれるのは何だか座りが悪い。戸惑っていると順子が噴き出し、「あ、ごめん、類さん」と慌てて謝る。どういう意味で笑ったのだろう、と思うもわざわざ訊かない。
「えっと、美冬ちゃんはさっきから何の本を読んでるん?」
 うまく返せなくて話を逸らすと、美冬は「動物の生態について書かれた本です」とやはり顔を上げずに言う。
「動物? 好きなん?」
「捕食される側の動物は、死ぬ瞬間痛みじゃなくて幸福感を覚えるんだそうです」
 ぱっと上がった顔には、何の感情も窺えなかった。
「脳が、死っていう強いストレスや攻撃された痛みを快感に変換する、ってこの本には書いてある。セーフティ機能っていうやつやと思うんですけど、すごくないですか」
「はあ、のう」
「それで私考えたんですけど、ライオンに襲われて一回死にかけて、でも助かった鹿がいたとして。その鹿はそのときの幸福感をもう一度味わいたくてライオンのところにわざと行ったりするんかな? 強いストレスが幸せに変わるのなら、そのストレスすら味わいたい、みたいな。ストレスについてこんなに考えることなかったです、私」
 興奮気味に早口で話す美冬に、今度こそ対応が分からなくなる。順子が「え、どんな本読んでるん? ちょっと見せて」と美冬の手から本を取る。
「ひゃあ、難しそう。こんなの、もう読めるんだ。うちの子にも見習ってもらいたい。瑠璃子さん、いい子育てしてるなあ」
 感心したように順子が呟くと、「ママは関係ないです」と美冬が静かに言った。
「ママは私からすればスマホ依存です。画面の向こうばっかりに意識をやって、現実をおろそかにしてる」
 順子がぎょっとした顔をし、「そ、そっか。そうだよね。本人の努力を親の手柄にしたらいかんよね」と慌てて取り繕った。それからわたしに「賢い子って、いろいろすごいね!」と引きつった笑顔で言う。
「ほんとだね。うちのスマホゲーム大好きな浩志にいまの台詞せりふ聞かせてあげたい」
 わたしも曖昧に笑い、微妙な雰囲気をごまかす。そうしながらふと、三好から聞いた話を思い出した。瑠璃子はほんとうに、美衣子の旦那さんと不倫をしているのかもしれない。やけに大人びている彼女の子どもは、それを察している気がした。
「美冬ちゃ」
 口を開こうとした瞬間、廊下側の窓ががらりと開いた。
「やだ、懐かしいー、昔のまんま!」
 聞き覚えのある声がして、見ればそれはさっきわたしに話しかけてきたひとだった。わたしは美冬への問いを呑み込んで、それとなく背中を向けて順子の陰に位置をずらす。わたしに気が付いていないらしい彼女は、「ねえ、懐かしいね」と誰かに向かって親しげに話しかけた。
「そういう感情は、よく分かんねえな。オレ、しょっちゅうここに来るからさ」
 答えた声は、悟志のものだった。
「地元に残ったままのひとは、そうなのかもねー。私はすっごく懐かしい。家庭科の授業でさ、みんなでサンドイッチ作ったよね」
「あー。あったな。オレ、ゆで卵つまみ食いした」
「そうそう。先生にすごく怒られて、悟志だけきゅうりだけサンドになったんだよね。可哀相かわいそうだから、私の分を分けてあげたの」
「そうだったそうだった。あんときだけは、千沙ちさが女神さまに見えたな」
「やだ、あのとき以外も女神だったって言いなさいよ」
 ぽすんと音がして、悟志が「いて」と笑う。その笑い声に彼女の声が重なる。
「次はどこに行こうかなー。あ、みなさん休憩中にすみませんでしたぁ!」
 がらがら、と窓が閉まる音がする。何かを察したのかそれとなくわたしを庇ってくれていた順子が「知り合いじゃないの?」とわたしに訊いてきた。
「ここの卒業生っぽかったけど」
「そう、ひとつ上の学年の子。あのひと、昔から元気すぎて苦手なの。疲れてるときに相手するのは、ちょっと無理」
 エナジードリンクの缶に口をつけて言うと、順子は「それは、分かる」と笑った。
 ほんとうの理由は、違う。彼女は、悟志のかつての浮気相手なのだ。あのときわたしたちは大学三年生で、交際を始めて一年ほど経っていた。そして彼女は北九州市内の病院に看護師として勤めていた。悟志がバイトしていたガソリンスタンドに、彼女が客として訪れたのがきっかけで仲良くなったという話だったけれど、めに興味など持てるはずがないので詳しくは知らない。ただ、彼女は悟志の子どもを妊娠して、堕胎した。悟志は出来心だったとわたしに土下座してびて、彼女もただの遊びだったと言った。お互いのそういうタイミングがほんの少し合ったっていうか、出来心ってだけなんだよね、とちっとも悪びれずに笑った。
 彼女があまりにあっさりとしていたから、悟志が過ちはたった一度だと言ったから、周囲が若いときの過ちは許してやれとさとしてきたから、わたしは何もかもを忘れて許すと言った。その後、彼女は悟志の両親から出してもらったお金で子どもを堕胎して、何だかここに居づらくなったからと東京に働き口を見つけてこの町を出て行った。
 だけど、だからといって。のうのうとここに現れた彼女の気持ちが分からない。話しかけられたとき、虫に飛び掛かられたような嫌悪感を覚えた。振り払いたくなった衝動をどうにかこらえて、忙しさを理由にして逃げるように離れたけれど、やっぱり本人だったのだ。そして、そんな彼女の案内をしているらしい悟志の気持ちもまた、分からない。悟志は、隠れるように背を向けていた女がわたしだと気付かなかったのだろうか。それとも、気付いたけれど無視した? わたしが振り返っていれば、どんな顔をしたのだろう。十年以上ぶりの再会だから時効だって開き直るか、後ろめたいことは何もなかったかのように振舞うか。いずれにせよ、無神経すぎて笑えてくる。ああ、最低。
「あー。早く終わんないかなー」
 エナジードリンクの残りを一気に飲み干して言う。順子もほかの母親たちも、苦笑して頷いた。
 それから、どれくらい経った頃だっただろう。
「すみません、こちらにるいちゃんはいますか」
 からりと扉が開いて、遠慮がちに顔を出したのはこうちゃんだった。わたしはどきりとして反応が遅れたが、順子は即座に「あら、先生」と華やかな声を上げた。こうちゃんは「先生なんてそういう風に呼ぶのやめてください」と困ったように頭をいた。
「だって先生じゃないですか。さっき話しそびれたんですけど、わたし『シーツのほころび』が大好きで。ドラマもよかったです。あれ、ボロボロ泣いちゃった」
 わたしは、そのことはトイレに入ったわずかな時間でこっそり検索をして知った。香坂玄は、十年ほど前にデビューした作家で、二年前に『シーツのほころび』という作品で一躍有名になった、とあった。風俗嬢や専業主婦、学校教諭の女性が愛と安寧の夜を探す群像劇である『シーツのほころび』は、ドラマで観たことがあった。どこか明るくて寂しくて、夜の水族館の中をひとり歩かされているような息苦しい物語だった。あの物語の作者と記憶の中のこうちゃん、そして目の前にいる男性がうまく重なってくれない。
「ああいう話って、どういう風に思いつくんですか? 文章の書き方なんかはどうやって覚えたんです? あたし、パート先の報告書を書くのも頭抱えちゃうから、尊敬しちゃう」
「うーん、それは、上手うまく説明できないなあ。ああでも、作文は、昔から書くのが得意でしたね」
 こうちゃんがはにかむと、順子は美冬に「美冬ちゃんも作文得意だったよね? いけるかもよ! ていうかせっかくの機会だし、いまのうちに何か教われば?」とはっぱをかける。美冬はちらりとこうちゃんを見て、こうちゃんはにこりと笑いかけたが、美冬は返事をせずに、また本に視線を戻した。順子が少し焦った顔をし、しかしこうちゃんは気にした様子はないようだった。「あ、るいちゃんいたいた」とわたしを見る。
「申し訳ないんだけど、少しいいかな? おじさんにもリノベーション事業についての相談したいなって思ってて、それで」
「うちのお父さん? いいけど」
 立ち上がり、家庭科室を出る。廊下で向かい合うと、奇妙な気持ちがした。浩志が入学してから、もう何度もこの廊下を歩いた。家庭科室も、何もかも、わたしにとっては懐かしむ過去ではなく日常であって、思いを馳せる場所ではない。なのにどうしていま、身の内から湧き上がるものを感じるのだろう。
「えっと、どういう話かな? わたしはお父さんの仕事はよく分かんないし、肝心のお父さんは今日は知り合いの県議会議員だかとゴルフに行ってて、ここには来てないんだけど」
 声が上ずり、緊張していることに気付く。何を、意識しているのだ。ネットでは、彼には特別な存在の女性がいると記載があった。どこかのインタビューで、物語を作るうえでインスピレーションを与えてくれるファム・ファタルなのだと語ったことがあるらしい。今日は連れて来ていないようだけれど、一体どんな女性なのだろう。わたしのような無個性の女ではないことくらいは、分かるけど。
「それは、ただの口実」
 こうちゃんがにこりと笑う。え、と漏れたわたしの声は、外からの歓声にかき消される。さあ次は、飛び入り! 柳垣小学校の児童たちとかなた中学校ブラスバンド部による、校歌斉唱です! みなさま、大きな拍手でお迎えください!
「もう少し早くるいちゃんのところに来たかったんだけど、いろんなひとに捕まってなかなか難しくて。もし時間があれば、少し話さない? おれ、校内もゆっくり見学できていないままだから、散歩がてら」
 躊躇いは一瞬だった。はっきりと、頷く。あと三十分ほどしたら、鍋の片づけ作業に入らないといけない。いくつもの大鍋を洗うのは大仕事で、去年の冬に子どもたちにぜんざいを作ったときには、全員手を真っ赤にしたものだ。油分の多いカレーはぜんざい以上に洗い落とすのに時間がかかるだろうし、爪を長く伸ばした杏奈は嫌がるだろう。少しでも遅れたら、類ちんがサボった! とわめくに違いない。でも、そんなこと、どうでもよかった。
「よかった。じゃ、行こう」
 プワァ、とトランペットの音が鳴る。ピィィ、とフルートの音色が乗る。司会らしき男性の「楽しみですねえ!」という声がする。
 音楽室の扉が開き、婦人会の女性たちが満足そうな顔で出てくるのが見えた。「買い叩けたね」「売れ残りに福だわあ」と紙袋を抱えて去っていくのを見送る。下足箱のところで子どもたちが、「カラオケ大会の次は赤しそラムネの早飲み大会やろ?」「飲むぞー!」「勝つのは、おれだ」と騒いでいるのが見えた。それを横目に通り過ぎると、男の子と女の子が、正面玄関に掲げられた校旗の前で記念写真を撮っていた。卒業生だろうか。
 賑やかな熱がそこここに残る廊下を、こうちゃんはゆっくりと歩く。わたしは、その左側を歩く。彼の気配をやけに強く感じて、わたしの右半身はストーブにでもあたったみたいにじんじんと熱を持ってしびれてくる。パンツのポケットに入れられた彼の左手が、やけに気になった。
「ほんとの、ほんとはさ、廃校になるって知って居ても立っても居られなくなって来たんだ。るいちゃんに会えたらいいなとは思ってたけど、実際に会えて、驚いた。とっくに町を出たと思ってたんだ」
「両親がね、どうしても娘に近くにいてほしいってうるさくて。あ、それで悟志と結婚したってわけじゃないんだけどね。まあ、昔からよく知ってるひとだし。でも、地元のひとだったら親を安心させられていいかなと考えてたのは事実っていうか」
 言い訳がましいことを言っていることに気付き、口を噤んだ。
 悟志にプロポーズされたと告げたとき、父は諸手を挙げて喜んだ。母親の腹に入っているころから知ってるあいつなら安心だ。あれ以来浮気もしてないようだし、大したもんだ、と満足そうに頷いた。
 悟志は浮気が発覚したときに、わたしの実家に来て土下座をした。ちゃんとケジメつけますけん、と言う悟志を、父はさほど怒ることなく「筋を通すのはいいことだ」と感心してみせた。母くらいは怒ってくれるのではと期待したけれど、「男は許す女に弱いけんねえ」と意味の分からないことを言った。ああ、嫌なひとに会ったから、こんなことまで思い出してしまう。
「おれは、再会できたとしても、おれと同じように久しぶりにこっちに戻って来たるいちゃんとかなって思ってたんだ」
 こうちゃんの声に耳を傾ける。わたしの記憶の中の男の子はとても綺麗なソプラノをしていたのに、いまは耳の粘膜をざらりざらりとこするような声だ。
「それが、エプロンつけて豚汁作ってるんだからびっくりだよね」
 もう一度、はは、と笑う。こうちゃんに失望されている気がした。しかしこうちゃんは首をゆっくり横に振って「いや、ほんと言うと、そんな気もしてた。そうであれと思ってた、かな」と言った。
「おれさ、引っ越してからもときどきるいちゃんのこと思い出したよ。そしてふしぎと、るいちゃんはずっとこの校舎にいるような気がしてた」
「どうして?」
「どうしてかな。でも、会った瞬間に『やっぱり』って思った。やっぱりここにいるんだな、って。あのときと、同じ顔で」
 もう、どうして、とは聞けなかった。こうちゃんの声には、今度こそ隠そうともしない憂いがあり、この町に住み続けているわたしを哀れんでいるのだとはっきりと分かったのだ。それは、そうだろう。わたしだって、こんな大人になっている己を想像だにしなかった。
「進歩してないって言いたいんでしょう。それとも、自立心がないって感じ?」
 恥ずかしいな、と笑ってごまかすと、こうちゃんが「勘違いしないで」と言う。
「自分に対して、後悔したんだよ。気になっていたくせに、今日まで動かずにいた」
 作り笑顔を張り付けていたわたしは、ふっと口を噤む。それから、「後悔することなんてないよ」と呟いた。
「わたしは見ての通り、いちおう、大人になってる。大人としてそれなりに生きてるし、泣き虫の子どもでもないよ」
「そうだよね。ああ、だめだなあ。こんなところでるいちゃんといると、時間軸とか、感覚がおかしくなりそうだね」
 こうちゃんが困ったように頭を掻き、わたしの少し先を行く。ひとが、波が引くようにいなくなっていく。校庭の声がどんどん遠ざかっていく。一歩歩くたび、あのときの自分が近づいてくる。昔よりも見知ったはずの校内風景が、色を鮮やかにしていく。窓から差し込む夕日のまぶしさが、あの日に戻っていく。
「誰かに、あの日のこと話した?」
 訊くと、こうちゃんは「るいちゃんはせっかちだったっけ?」とやさしく言う。
「そういう話は、急がないでもう少しとっておきたいんだけどなあ。まだ時間はあるでしょう? でも、そうだな。言ってないよ、誰にも。るいちゃんは?」
「わたしも、話してない。あの日以来、これが初めて」
 カラオケ大会、優勝は笹原郁夫いくおさーん! 外で、ひときわ大きな声がした。こうちゃんが足を止めて、中庭に目を向ける。
「ああ、なくなったんだね」
 視線を追ったわたしは、すぐに気付いて頷く。
「老朽化しちゃって。だいぶ前からウサギも鶏もいなくなってて、五年前に撤去されたんだ。だからもちろん、飼育当番もない」
 ふたつの飼育小屋の跡には、畑ができている。近所のお年寄りたちが野菜作りをレクチャーしていて、夏にはたくさんの枝豆やトマトが収穫できたものだけれど、いまは閑散としている。廃校後、ここがどうなるか決まっていないが、野菜が植えられることはもうないだろう。
「そっか。じゃああの日の痕跡は、るいちゃんのふくらはぎにしかないってわけだ」
 どきりとした。わたしの左のふくらはぎに穿うがたれた、ふたつの穴。いまでは薄茶色のかすかなあざになっているあれは、悟志だって知らない。こうちゃんは、わたしがその傷痕にときどきそっと指をわせていることを見透かしたのかと思った。
「……ないよ、もう。あんな傷」
「そうなの? それは、寂しいね。あの日は、もうどこにもないんだね」
 こうちゃんが再び歩き始める。つい、と階段を見上げて「二階は立ち入り禁止なんだね」と言う。二階は子どもたちの教室があるから不用意な出入りはしないでほしいという学校からの申し出で、今日は立ち入り禁止区域として黄色いロープを張っていた。
「でも、るいちゃんがいるなら、いいよね。万が一見つかったら、一緒に謝ってもらおう」
 こうちゃんが、ひょいとロープをまたぐ。それから、ロープを挟んだところで逡巡しゅんじゅんしているわたしを振り返って、「いこうよ」と促した。
「ほら、ちょっとだけだから。付き合ってよ」
 微笑んできたその顔に、別の男の顔が重なって見えた。
 混乱する。わたしがいま向かい合っている男性は、ほんとうにこうちゃんなのだろうか。ありえないのに、画家だと思ってしまうのは何故なぜだろう。意志をもって持ち上げられた口角も、きちんと整えられた顎周りも、画家とは何もかも違う。違うのに、わたしのどこかが『同じ』だと告げている。
「あなたは、どうしてここを出て行ったの?」
 彼は、突然いなくなった。家庭の都合だとかで、何の前触れもなくいなくなった。両親や、大人の誰かに彼の事情を訊こうとしたけれどできなかったのは、『何かあるの?』と逆に問われたくなかったから。わたしたちは、あの日以前はそんなに親密な関係じゃなかった。あの日わたしたちが距離を密にするほどの『何か』を共有したと誰かに感づかれることなどないだろうに、でも怖かった。
 それと同時に、彼をずるいと思った。
 何て狡い。あの子はもう、ここで秘密を抱えて生きなくてもいいんだ。あの子は、群先生を魅了した広い世界へ、画家と群先生のいる世界へ行ったのだ。わたしを置いて。
「親が離婚したんだよ」
 こうちゃんはあっさりと言った。うちの両親、不仲でね。離婚して、おれは母と、母の実家のある山梨に身を寄せたんだ。香坂玄はペンネームで、いまは倉田くらたって名字。
 そっか、と答えながら胸の奥に寂しい風が吹いた気がした。ああ、わたしは本気でそう願っていたのだな、と気付く。ばかなわたし。置いていかれたような気持ちで、そして同じくらい羨んでいたのだ。ずっと、長い間。
「それより、二階にいこうよ。るいちゃん」
 再び促されて、わたしはロープを越えた。
 小学校の階段は段差が低くて、歩くたびにつんのめりそうになる。薄緑のリノリウムの床は、わたしが子どものころから変わっていない。たくさんつけられた傷を目で追いながら、ゆっくりと段を踏む。
「こうちゃん、あの日のこと、覚えてる?」
「るいちゃんは、ほんとうにせっかちだなあ。もう少し、この時間を楽しませてよ」
 踊り場に、子どもたちの描いた絵が飾られている。『三年生の作品』と掲示された中に、福嶋家の双子の絵もあった。ふたりの絵は、色使いに構成、何もかもが似ていた。まるで間違い探しのようだ。その重なりに小さな感動を覚える反面、双子というのはほんとうに勝手にシンクロしてしまうものなのだろうかと疑問を感じる。ほんとうに、似通ってしまうものなのだろうか。相手はこうするのではないか、という無意識の選別が、双子はこうあるべきという周囲の期待が、彼女たちをそうさせているのではないのだろうか。実際の彼女たちそれぞれの『ほんとう』を、いびつにゆがめてまで。彼女たちの姿かたちが似ていないせいか、彼女たちの精密な重なりを目にするたびにそんなことを考えてしまう。誰かに歪められずに育つことができるひとなんていないのだろうけど、歪んだ具合はきっと大きな差があるだろう。
「るいちゃん? どうかした?」
 じっと絵を見つめていたわたしに気付いて、こうちゃんが訊く。うまく説明できそうになくて、「別に何でもないよ」と双子の絵から目を逸らした。
 二階は、喧騒けんそうがさざ波のように響いていた。でもそれは、テレビの向こうの音たちのように、遠い。
 窓から光が差し込み、床を赤く染めている。教室の外壁に均等に取り付けられたフックには、色とりどりの体操服入れがぶら下がっていた。誰もいない教室には、子どもの匂いが残っている。ふっと、あの日の気配を感じた。十二歳の夏が、いまわたしの傍らにいる。
「ははあ、まったく、変わらないもんだねえ」
 こうちゃんが愉快そうに笑った。その声に、我に返る。
「何だか、驚いちゃうな。こんなにも、変わらないものかな。おれたちはタイムスリップしたのかもしれないよ、るいちゃん」
「……そんなわけ、ないでしょう。そもそも季節違うし。ほら、カラオケ大会の表彰の声も聞こえるし、あのころにはMARVELの体操服入れなんてなかったでしょ」
 慌てて、近くにあった袋を指すと、「そんな、ムキになって否定しなくても」とこうちゃんが唇を尖らせる。それから、「でも、同じなんじゃないかと錯覚するよ」と声をことさらやわらかくした。
「そうだろ? だってほら、あれ」
 細い指がついと指差した先には、木製の表示板がある。夕焼けに染まったそれには達者な筆で、『児童会室』と書かれていた。足が一瞬、震える。何を、動揺することがあるの。ばかみたい。でも、わたしはあの日から一度も、あの中を覗けていない。
「あれから何年だっけ。まるきり、同じ場所で同じ状態だなんてすごいよね」
 答えないでいると、ねえ、とこうちゃんが顔を覗き込んできた。
「るいちゃん。あの部屋の中、覗いてみようよ」
「え。何言ってんの。何も特別なものはないだろうし、不法侵入になるから、やめておこうよ」
「覗くだけだよ。ほんの少しだけ、ね?」
 言いながら、どうしてだかわたしたちは声をひそめていた。あのときと同じ、誰にも見られないように足音を忍ばせて、そっと言葉を交わして。
 表示板が、ゆっくりと近づいてくる。ばかみたいに心臓が高鳴りだす。
「ねえ、群先生たちがいたらどうする? なんて」
 耳元で歌うように囁かれて、くらりと眩暈めまいがする。足を止め、ぶんぶんと首を横に振った。
 あの中に入ったら、だめだ。あの中には画家も群先生もいない。だって画家はリュックの中に群先生を入れて旅をしている。
「……ごめん。わたしあそこには、入れない」
 一歩、後ずさりした。
「どうして?」
「うまく、説明できない。でもいまの、こうちゃんの言葉。群先生たちがいたらってやつ。わたし、それがほんとうにありそうな気がして怖いの。もちろん、群先生もあのひともいない。分かってるけど」
「分かってるけど、怖いの? 何が怖いの?」
 ひょいと、顔を覗き込まれる。色素の薄いはしばみ色の瞳が、わたしの心の芯を探るように動いた。その動きは頭の中身をやわらかく撫#な$でてくるような錯覚を与えて、わたしは馬鹿正直に答えた。
「わ、わたしが群先生になるんじゃないかって、怖いの」
 口にして、恥ずかしいと思った。お願い、ばかげてる、と笑い飛ばして。るいちゃん何を期待してるの? と見下げてくれたっていい。突如湧いた感情を、木っ端みじんにしてほしい。
「おかしいよね。でもね、なんかそういう気がして、どうしようもなくて」
 はは、と笑う声が漏れた。
「さ、最近ね、群先生のことをしょっちゅう思い出しちゃってさ。おかしいんだよ、わたし」
「どういう風に、思い出すの」
 静かに問われて、少し躊躇う。こんなこと話しているなんて、あんまりにも、情緒がおかしくなっている。でも、ここまで言ってしまえばもう取り繕うものはない。彼にならすべて話してもいいような気がして、口を開いた。
「……群先生はいいなあ、羨ましいなあって」
 群先生にどんな理由があったのかは知らない。三好の言う通り、情熱が爆発したのかもしれない。きっと誰にも分からない、彼女なりの理由があったのだろう。でも理由なんかは、どうでもいい。わたしは画家とこの町から消えた群先生が、ただ羨ましかった。
「そうか。いまも、そうなんだね」
 説明する言葉を探している間に、こうちゃんが言った。
「あのときるいちゃんは、なんでわたしじゃないんだろう、って泣いたんだったね」
 ああ、覚えていたのか。わたしは小さく笑う。学校から彼の家に行く途中、わたしはそう言って泣いた。なんでわたしじゃないんだろう。わたしの方が、群先生よりあのひとが必要だったのに、と。
「こうちゃん、ドン引きしたんじゃない? あんな場面見ておいて、ショックを受けるところが違うだろって」
「そんなことないよ。彼は、すごく魅力的だった」
 それはうそを感じさせない言葉で、だからわたしは素直に頷いた。そう、画家は魅力的なひとだった。町にいる男の誰よりも面白くて奔放で、何でも知っていた。子どもたちのほとんどはあの画家に夢中で、わたしもそのひとりだった。彼の話はとても面白くて、どこまでが現実でどこからが作り物なのか分からないほどに無茶苦茶で、寝る前に何度も彼の話を反芻はんすうした。わたしは彼に夢中だった。好きだったのかと訊かれると、正直分からない。そんな言葉では言い足りない感情だったように思う。彼がどこかに旅立つときには、わたしも何もかもを捨ててもいいから一緒について行きたかった。彼のリュックの中に丸まってしあわせそうに眠る未来が、いつかわたしにありますようにと毎晩、祈っていた。
「るいちゃん、あのとき画家はるいちゃんに何か言ってたよね」
 こうちゃんが続ける。おれさ、実は聞き取れなかったんだよ。彼はあのとき何て言ってたの? 確かあのときも訊いたけど、るいちゃんは言いたくないって、教えてくれなかったよね。いい加減、教えてくれないかな。
 わたしは、これまでに何度も思い返した言葉を一度口の中で転がして、そして初めて音にした。
「もう手一杯、って言われたんだよ」
 口にしてしまえば、少しだけ笑えた。彼は立ち尽くしているわたしに、群先生の首を物のように絞めながら『こいつでもう手一杯』と言い放ったのだ。セックスを目撃した小学六年生の女の子に向ける言葉ではない。
 そんな彼の下にいる群先生と、一瞬目が合った。夢の最中にいるような顔をしていた群先生は、わたしに気付くと顔を強張こわばらせ、はっきりと顔を背けた。甘くて蕩けそうなお菓子を独り占めしていた子どもが他の子に見咎みとがめられたときのような、みっともない態度だった。
 それらが、わたしの心をぐしゃぐしゃにした。わたしが子どもじゃなかったら、群先生がいなければ、画家はわたしを選んでくれていたかもしれない。だってわたしこそが、画家を望んでいた。求めていた。群先生なんかよりもずっとずっと、乞うていた。
「群先生はあのひとのこと嫌ってたはずなのに、ずるいよ」
 ぽつりと、言葉を落とした。わたしが、彼に選ばれたかった。
「新婚で、しあわせだったくせに、何もかも持ってる大人の女だったくせに、あんな風にあのひとまで手に入れるなんて、ずるいよ」
 目元が熱くなる。悔し涙だと思った瞬間、自分が嫌になる。あんな大昔のことで泣くなんて、いまだに羨んでいるなんて、ばかみたいだ。
「……覚えてる? あの当時、群先生はPTA役員にひどくいじめられてた」
 ふいに放たれた言葉の意味が分からず、え、と声が漏れた。何を、急に。
「おれの母とも話したことがあるから間違いないと思うんだけど、きっかけは多分、六年生の担任になったことだろうな。『若い新婚の女は子どもたちに悪影響を及ぼす』っていまじゃ考えられないような理由で騒いでただろ」
「PTA……六年……」
 繰り返してみて、どきりとした。そのときのPTA役員と言えば……。
「悟兄のお父さんが会長で、るいちゃんのお母さんもメンバーにいたころだよ」
 ああ、と小さく呟いた。そうだ、思い出した。思い出してしまった。
 あの当時、母はしょっちゅう学校教育の在り方だの、子どもとの関わり方だのを論じていた。その中で、『若い新婚の女なんて』は母の口癖だった。
「あの画家の件もさ、校長は大歓迎だったけど保護者はちっともいい顔をしていなかった。子どもたちに少しの危険もないように、って先生にずいぶんとプレッシャーをかけたらしいよ」
 母が教育熱心だったのは、仕事人間の父のせいだ。父は『子育ては女の仕事だからお前が責任をもって育てろ』とどんな相談にも耳を貸さず、しかし子どものことで不満を覚えたら――テストの点が低いとかリレーのアンカーになれなかったとか――些細ささいなことで激昂した。だから母は母なりに必死になっていたのだと思う。連絡帳や授業のノートを逐一チェックし、少しでもミスがあればわたしや兄を叱り飛ばし、そしてすぐに学校に電話をかけた。頻繁にほかの母親たちに連絡を取り『こんなことじゃ中学に上がったら大変なことになる』とか『柳垣小は周囲の学校と比べて授業の進行が遅れてる』とかいう話を長々と語っていた。授業参観日でもないのに、授業の見学に来たこともあった。そんなときに現れて学校に滞在し始めた画家は母たちにとっては恐ろしい異分子でしかなく、母は『あんな若い新婚の女が子どもたちを守り切れるのか』とばかみたいな心配をしていた。
「でも、あれは……いじめ、だったのかな……?」
 いや、薄々、そんな気はしていた。類ちゃんのお母さんはやりすぎ、と誰かの親が零した言葉を耳にしたことがある。『群先生にもっとやさしくしてってお母さんにお願いして』と言ってきたのは何学年下の子だったか。
 でも、親の行動は絶対に正しいのだと育てられたし、母の苦しみも分かっていたから、だからそういう呼ばれ方をするものではないと信じた。信じ込んでいた。
「いじめ以外の表現をするなら、ハラスメントかな」
 こうちゃんが思案するように言って、わたしは唇を噛む。自分自身が断罪されているような気がした。
「PTAだけが悪い、ってこともない、かもしれないでしょ」
「そうだね。おれもさすがに、当時の群先生の私生活のことまでは分かんないさ。しあわせだったかもしれない。でももしかしたら何か、つらいことがあったかもしれない。こればかりは、他人が知ることはできないよね」
 いろいろなものが、頭を巡る。この町しか知らないわたしは、この町のことなら手に取るように分かる。濃度の高い空気に酔う感覚も、休まる場所を見つけられない居心地の悪さも、見えないルールに手足を拘束されるような苦しさも。
 そして、母たちがどんな風に先生を追い詰めたのかも、容易に想像がついてしまう。家庭内のことだって、そう。哀しみや諦め、やるせなさや苛立いらだちの種類をわたしは知っている。きっと、辛かったことだろう。
 だけど、考えてしまう。そんなの誰だって感じていることじゃないか。群先生だけが特別辛かったわけじゃない。わたしだって我慢していることがある。自分をすり減らして、消費されて、でもそれを黙って受け止めてきた。
「いじめ? 私生活が辛い? そんなものを理由にあのひとにすがったの? それは『逃げ』じゃない。逃げるくらいなら声を上げればよか……」
 家庭科室を去る三好の背中を思い出して、言葉を切った。
 声を上げないことを選択し続けたわたしが、何を言おうとした? 何を、責めようとした?
「るいちゃんは、どうしてあのひとに選ばれたかったの?」
 はっとする。彼の顔が、目が、画家のそれに見えた。
「選ばれたかった、理由を教えてよ」
 理由。わたしが、画家を求めた理由……。
おりの中の猿なんだろうな、お前は』
 画家の言葉の意味は、最初うまく掴めなかった。
 あのときわたしは、母から画家との接触を固く禁じられていた。みんなのように彼の周りではしゃぎたかったけれど、母に知られて怒られるかもしれないと思うと怖くてできず、指をくわえてみんなの様子を眺めるばかりだった。だから彼に初めて近づいてしまったときの、罪悪感を伴った喜びをいまもはっきりと覚えている。
 どきどきするわたしに、彼は『綺麗だ』と目の前の景色を指して言った。それを聞いた瞬間、腹が立ってしまった。息苦しいばかりのこの世界の、どこが綺麗なのだ。それを口にしてすぐに、嫌われてしまうと後悔したけれど、画家は不機嫌にもならずに笑って、わたしを前述の通り、檻の中の猿だと言った。
『猿って、なんですか』
 相手にされもせず、ばかにされたのだ。かっとしたわたしに『哀れだな』と画家は言った。
『この景色の向こうに格子が見えてりゃ、そりゃ興奮できねえよ。つまんねえもんに見えても、仕方ないよな』
 やわらかな声に驚いたわたしの頭を、画家は『いつか出られるさ』と撫でてくれた。その手はとても大きくて、温かくて、わたしは思わず両手で掴んだ。骨ばった長い指に、広い手のひら。甲には青い血管がうっすらと浮いていた。
『じゃあ、出して。この手で』
 この手なら、檻の外まで連れ出してくれると思った。そんな強さがあった。画家は微かに眉を持ち上げ、わたしを珍しそうに見て、そして鼻で笑った。
『まあ、いつかな。出られる方法も思いつかない、どん詰まりのときに』
『いま。わたしは、いまなんです』
『ガキが面白いこと言うじゃん。俺の手を使うには、まだまだ早いんだよ。それに、俺は雑でちっとも器用じゃない。使わないほうがいい』
 自分でどうにかするほうがいい、と画家は縋るようにしていたわたしの手をほどいた。彼に触れた手は、絵具の油の匂いがした。
「選んでもらって、そして、連れ出してもらいたかったんだ」
 わたしを檻の中にいると言ったあのひとの手にかかれば、檻の外――夢のような世界にいけるのだと思った。何にも知らないくせに偉そうに怒鳴り散らすだけの父も、父の機嫌を取ることばかりが大事な母も、どこに行っても誰かの目がある土地も、何もかもが嫌だった。だから、憂いのない愉快な世界に連れ出してもらいたかった。
「でもあのときはきっと、わたしより群先生の方が遥かに追い詰められていた、んだろうね。それで逃げたというのなら、わたしは、群先生を責められない。責めたい気持ちはあるけど、わたしは責めちゃいけない」
 両手で顔を覆う。あのときの真実に触れて、感じるのは哀しさだった。群先生は、わたしと同じだった。わたしは己の未来の姿を見ていたのだ。
「るいちゃんはさ、そこまで出て行きたがってたのなら、どうしていまもここに残ってるの」
 それは、残酷な問いだ。わたしは手の中で顔を歪める。
「みんながいなくなって、取り残されて、それからわたしだって努力したよ? 自分なりにあがいたつもりだった。でも、どうやっても無理だった。いつだって、わたしの意志は潰されていった。怒りだったり、力だったり。心配という名の束縛だったりもした」
 何度だって、外に行こうとした。でもすべて、誰かに邪魔された。
「そういうのに歯向かう力をなくしたことを愚かだとか弱いとかいうのなら、そうだと思う。わたしは、わたしの弱さを誰より知ってる」
 どこでどうしたら、出られたんだろう。どこでわたしは諦めてしまったんだろう。どこまで頑張れば、出口が見えたんだろう。分からない。ほんとうに、分からない。
「出ていけないのなら、いまいるこの場所こそが、わたしがしあわせになれる場所なんだと思ったこともある。そういう風に作っていくことこそが大事だって信じて、できることもやった。でも、」
 わたしの言葉を止めるように、ドヴォルザークの『家路』が響いた。音に誘われるように、手を降ろして顔を上げる。こうちゃんと、目が合った。
 記憶のひだの奥に忍び込み震わせるようなメロディが、外の世界の音を、何もかもをかき消してゆく。この空間を、向かい合うわたしたちの間を、ひたひたと埋めてゆく。
 こうちゃんが視線を外に投げた。それを追えば、見慣れた夕暮れの景色が広がっている。暖かな秋の一日の終わりの空は、赤が深い。深く濃く混ぜ合わされた赤に一滴の黒を落とし込んだような、濃密な赤。それは、明日も同じ穏やかさが続くのだと教えてくれる、太古からの光。こうちゃんが、眩しそうに目を細めた。
「……でもね、何をやっても、わたしはこの世界を綺麗だと思えないんだよ」
 目元が熱くなって、光が乱れる。
 綺麗だと心から思えたことなど、一度だってない。あのときも、いまも。わたしはずっと檻の中にいて、救い出してくれるあの手を待っている。
「自分じゃ何もできない弱い人間のくせにって思うでしょう? ばかだって思うでしょう? でも、自分じゃ何もできないの。分かってても、できないの」
 こうちゃんがわたしに顔を向ける。強い光で、顔が少し不明瞭になる。
「この部屋の中に、群先生になりたい君がいると言うんなら、おれがあのひとになろうか」
 息を呑んだ。いま、彼は何と言った?
「連れ出すよ、おれが」
 夕日を浴びた彼は、わたしに手を差し出してくる。繊細な細い指。異性にしてはうつくしすぎる手。あのときわたしが縋りたかった無骨な手と、これは同じなのだろうか。
「ほんとうのことを言うよ。おれは、この児童会室の中にるいちゃんを置いてきたんじゃないかって、そういう変な妄想に取りつかれてるんだ。大人になったいまも、それが頭から離れないでいる。ばかな考えだって、分かってる。でも、そう思っていて、おれは、おれこそがるいちゃんを連れ出すべきじゃないかって」
 彼の細い指先が、微かに震えている。
「いまの話を聞いて、それは妄想なんかじゃないって確信した。あのときのおれは、るいちゃんの涙を止めることもできなかった。でも、いまなら。いまならおれは、るいちゃんをここから連れ出すことができる。るいちゃんがここで泣いているままだと言うのなら、おれにそうさせてよ」
「……ど、どうしてそんなこと、言えるの。わたしたち、何十年ぶりに会ったと思ってるの」
 わたしはもう十一歳の女の子ではないし、夫も子どももいる。二十年以上の空白があるというのに、そんなことをどうして言える?
「いまの話じゃ、信じてもらえない? おれは、ここに残してきた君を今度こそ連れ出しにきたんだよ。ほんとうに」
「それを素直に信じられるほど、わたしは若くない」
 やさしい言葉や甘い言葉は、わたしをうまく使うための道具だし、わたしから何かを隠すための嘘にもなる。
「困ったな」
 彼が困ったように頭を掻いた。それからそっとうつむく。
「でも、まっさら純真な気持ちだとは、胸を張って言えないな。それは、ごめん。謝るよ。おれはね、ひとをうまく愛せないんだ。このひとだと信じたひとはみんな、おれを愛してくれなかった。でもそれはきっと、おれのせいなんだ。あの夏の日に見たものが、おれの心を歪ませてる。うまく説明するには時間がたくさんいるんだけど、つまりはおれは、誰かを無条件にいとおしむことができなくなってるんだ」
 ああ、このひともあの夏の日に縛られているのか。でも、当然のことかもしれない。それくらい、ショッキングなことだった。
「愛おしむことができなくなっているのに、わたしは助けたいの?」
 そろそろと訊くと、こうちゃんは俯いたまま頷いた。それからわたしを窺うようにゆっくりと顔を上げる。
「自分でも、ふしぎなんだ。るいちゃんをここから連れ出すことができたら、あの日からおれの心を捕らえ続けているものから解放される気も、してる。だから、ねえ、おれのためにも、連れ出されてくれないかな」
 手を取れずに逡巡していると、こうちゃんがわたしの手を取った。わたしはそれを、振りほどけない。
 わたしはいま、感情的になりすぎている。落ち着かなければ。わたしには大事にしないといけないものがたくさんあって、手放してはいけないものもうんとあって、分かっているのに、でも、それらがどうしてだか何ひとつ思い浮かばない。わたしを引き留めてくれない。最初から何も持っていなかったんじゃないかと怖くなるくらい何もなくて、そしてわたしは身じろぎもできない。
 こうちゃんがぐっとからだを寄せてくる。ふわりと熱を感じる。
「嫌なら、逃げて」
 肌に吐息がかかる。掴まれた腕は、いつの間にかじっとりと汗ばんでいた。くらくらし始めた頭で、このひとを拒否しなければ何もかもを失うのだと自分に言い聞かせる。必死に、想像する。安定した生活に安全な日々、子どもや夫、何もかもを失うところを。あの当時の群先生より、わたしは年を取っている。きっと、あのひとよりたくさんのしがらみをかかえている。
 捕まれた手を強く振り払おうとして、でもそれは身を軽くよじっただけで終わった。この手から逃れられるほどの強さは自分にないのだと分かって、情けなさに乾いた笑い声が漏れた。
「……ねえ、こうちゃん。わたしは、どうしてこんなにだめなんだろう。こんなかたちじゃだめだと分かってても、でも別の方法が分からない」
 心の中で三つの思いが暴れて、どこに落ち着けばいいのか分からなくなっていた。
 ひとつめは、己に対する嫌悪。三好の『因果応報ってのを味わっててほしい』という声が脳内で反響していた。どんな事情や苦しみがあったとしても、感情のままに飛び出すことは憎まれる。恨まれる。もしここでわたしがこの手に縋っていなくなれば、三好はわたしを心底軽蔑するだろう。愚かだと言い捨てるだろう。それに、逃げるだなんて、わたしのこれまでを否定することになる。これまでのわたしの何もかもが、認めてもらえなくなる。分かっているはずなのに、わたしのこれまでを、他でもないわたし自身がだめにしてしまおうとしている。
 ふたつめは、喜び。望んでいた手がやっとわたしの前に差し出された。子どものころがれていた手が、やっとわたしを選び取ってくれた。その事実に、からだの芯が甘く疼いている。えていた心から湧きあがる喜び、これを押しとどめるすべをわたしは知らない。
 そしてみっつめは、絶望だ。どうしてわたしはこんなにも無力なんだろう。三十六年、自分なりに必死に生きてきたはずなのに、立派な大人のはずなのに、わたしはわたしだけでここから抜け出す力を持ち合わせていない。わたしの苦労は、わたしに生きる力を与えてくれなかったのだ。ほんのひと欠片かけらの勇気さえ。
「るいちゃんは、せっかちな上にまじめだなあ」
 こうちゃんはこんなときなのに、あの、花が咲くような笑みをみせた。
「いますぐすべてを放棄して逃亡しよう、なんておれは言ってないんだよ? いま、このときくらいは連れ出されてみない? っていう簡単な話さ。そう、ほんの少しの時間だけだよ。その先は、あとで考えればいい」
 一筋の光が差し込むような、いや、カンダタの掴んだ糸のような言葉だった。
「ほんのつかの間、一瞬のエスケープだよ」
 捕まれた手に一層の力が込められた。わたしを見つめる彼はいま、画家そのものだった。
 ふと思う。わたしは、あのときどうしてあんなにも画家を乞うたのだろうか。
 彼の秘めた荒々しさや、常識から逸脱している行動性、そういうものに強く惹かれたのは、間違いない。あのときのわたしは、躊躇いや迷いを乱暴にかなぐり捨ててくれそうな強さに、無責任に『わたし』を託したかった、のだろうか?
『ライオンに襲われて一回死にかけて、でも助かった鹿がいたとして。その鹿はそのときの幸福感をもう一度味わいたくてライオンのところにわざと行ったりするんかな? 強いストレスが幸せに変わるのなら、そのストレスすら味わいたい、みたいな』
 遠い昔の気がするけれど、ついさっきの美冬の言葉がよみがえる。この年になってもなお画家のことを思ってしまうのは、もしかしたら捕食されている群先生の『幸福』を見てしまったからかもしれない。
 いや、そんなことはもはや、どうでもいい。
 こうちゃんの奥に秘めたものが画家と同じなら、わたしは戻れるだろうか? ほんとうに、ここに戻って来るだろうか。
 ねえ群先生、あのときあなたは本気でこの檻から逃げようとしていましたか?
 ドヴォルザークが、鳴りやもうとしている。

〈おわり〉


町田そのこ(まちだ・そのこ)
1980年生まれ、福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞。2017年、同作を含む『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。2021年『52ヘルツのクジラたち』で本屋大賞を受賞。他の著書に『星を掬う』『宙ごはん』『夜明けのはざま』『わたしの知る花』など多数。


『ドヴォルザークに染まるころ』 定価1,870円(税込み)

〈あらすじ〉
「先生のセックスを見たことがある―—」廃校が決まったかなた市立柳垣小学校で、最後の秋祭りが行われる。あの日、担任の先生と町の外からやってきた絵描きの男の姿を見てしまった類と玄。息子の母親会で祭りの準備をしていた類は、人気作家になった玄と再開するが……「ドヴォルザークの檻より」
類の夫、悟志の元浮気相手である千沙は、東京でバツイチ子ありの男・翔琉と暮らす。翔琉が娘の結婚式に参列する日、千沙は廃校が決まった母校の秋祭りを訪れ...…「いつかのあの子」
小さな町でそれぞれの人生を懸命に生きる女性たちを描いた傑作集。

〈収録作〉
「ドヴォルザークの檻より」「いつかのあの子」「クロコンドルの集落で」「サンクチュアリの終わりの日」「わたしたちの祭り」



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光文社 文芸編集部|kobunsha
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