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理論を学ぶことは、可能性を狭めること - 2024/2/23

一日の終わりに日記なんて書けない

その日の終わりにかならず日記を書こうと決めるだけ決めて、まったく書けていなかった。その日の終わりなんてもう 0 時くらいで、眠たくて疲れていて頭が回らない。そんな状態でその日の振り返りや総括をするなんていう気にはなれなかった。

なので次の朝に前日の振り返りと総括をして、日記を書くようにしようと思った。朝は再起動した PC みたいに頭が軽くて、思考が晴れているような気がする。それでいまこの日記を書いている。アウトプットや重要な仕事は朝にやってしまうのが良さそうだなと感じる。

理論を学ぶことは、可能性を狭めること

DTM にはずっと興味があって、まだ手を付けていないけど DTM 関連の動画はときどき観ていて、下記の動画もたまたま観た。

この動画の中で「理論を学ぶことは、可能性を狭めること」という話しがでてくる。それがなんとなく自分に刺さった。

小説とか書いていた事もあって、創作においての型の重要性みたいなものには触れたことがあった。そのときも同じようなことが言われていて、無限の可能性があるよりも、ある種の縛りがある方が創作はしやすいというようなことが書いてあった。

今回も同じようなことが言われているだけなのだけど、言語化がうまくて、より深く再認識することができたような気がした。

zettelkasten でいうところの白紙の神話もこれに通じるところがある。

型の学習、理論の学習、あらかじめのパーツの準備、締め切り、自分が知っている創作に必要なもの。縛り、有限性の中で創作すること。

例えばこの日記も下記の制約を設けて書いている。

  • 最大 3 セクション

  • 各セクションが 400 字程度

  • 内容は昨日の雑なメモから作成

  • 書く時間は最大 30 min

制約があるから有限性が生まれて、創作することができるようになる。

自分にとってシンプル = 幸福、複雑 = 不幸かもしれない

自分はワーキングメモリが極端に弱いということを実感している。普通だったら 6, 7 個くらいの事象だったら覚えられるらしいけれど、自分は 1 個が限界。2 個目を記憶しようとすると、1 個目が何だったのかすぐに忘れてしまう。それくらい自分の脳は認知負荷に弱い。

最近部屋の片付けをしようと思って(確定申告からの逃避行動)、でも片付けって体系的に学習したことがないなと思って、手始めにこんまりの『人生がときめく片付けの魔法』を買った。おれも人生をときめかせたかった。散らかった部屋は認知負荷が大きすぎるし、不幸の具体化みたいなものだと思っていた。おれはホテルみたいな、毅然としたシンプルな部屋で生活したいと常々思っていた。

そもそも片付けって何をすればいいんだっけという疑問に、こんまりはシンプルにこう答える。

  • まずときめかないモノは捨てなさい

  • そのあとモノの定位置を決めなさい

大枠はこれだけだ。シンプルでいい。しかも自分が驚いたのは、こんまりの提唱する片付けというのは一生に一度だけすればいいということ。こんまりは「祭りの片付け」と「毎日の片付け」という分け方をする。

「祭りの片付け」というのが、ときめかないモノを捨てて、モノの定位置を決めるという片付け。「毎日の片付け」というのは、使ったモノを定位置に戻すという片付け。「祭りの片付け」を一度やってしまえば、「毎日の片付け」は、モノを定位置に戻すだけなのでぜんぜん苦痛じゃなくなるという。

自分の部屋を見回すと、どうでもいいモノや、定位置の決まっていないモノで溢れていた。最近は所有ということについても考えることがあるので、所有物の整理のためにも、いちど「祭りの片付け」を実施しようと心に決めた。

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