ショートストーリー6話 『アンディー・ウォーホールとネコの絵』
ある、気だるい暑さが漂う夏の日の夕方。
僕と妻は夕飯を求めてTシャツとジーパン姿で家を出た。
当てもなく、商店街のネオンの光に向かって歩いていたら、ふと気付いたように、妻が言った。
「こんなところに雑貨屋なんてあったっけ?」
「ん?知らなかったな。入ってみる?」
そう言って店内に入ると、雑貨屋というより、色々な国から買い付けてきたであろう家具や雑貨が所狭しと置かれていた。
フランス製の銀漆器と思われるものからアジアンテイストな人形まで、節操なく陳列されている。値段も百万円もするような絵画から、三千円のティーカップまで様々だ。
妻が面白がって入ろうと言ったお店だったが、僕はこの混沌とした世界感にひときわ興味を持ってしまった。
この手のお店の亭主は、世捨て人のような白髪の長いヒゲを生やし、黙々と古書を読みふけっているような細縁の丸メガネの老人と踏んでいたが、お店の奥に進むにしたがって、僕の予想は見事に外れることになる。
僕たちの話し声で気がついたのか、身長180cmもあろうかという、面長の顔をした大男が棚の隙間からひょいと顔をのぞかせた。
「いらっしゃいませ。何か気になるものがあったら、声をかけてくださいね。」
スポーツマンのように肌は黒く焼け、柔道選手のような耳の潰れ方をした亭主は、物静かな低い声でそう言った。
僕の予想が外れたのは良いが、この亭主に果たしてアンティークの価値などがわかるのか?素朴な疑問がふつふつと湧いた。
もしかしたら、お店番をしているだけなのかもしれないな。そんな疑問を抱きつつ、僕たちはお店の奥の方へと入っていった。
青や赤の色鮮やかな彩色がほどこされた中国製の大きな机にもたれながら、アフリカの民族調のお面が並ぶ壁を眺めていると、ふいに緑色のネコの絵が飛び込んできた。
画風にいささか見覚えがある。
世界的に有名なポップアーティストのアンディ・ウォーホルがファッション誌のために書き下ろした初期の作品だ。
確か、このネコのシリーズは色々なカラーヴァリエーションがあったような。でも、値段を見てみると八千円。そうなると、シルクスクリーンなどの高価なものではなくて、ただのポスターだな。と心の中で思っていると、面長の亭主が声をかけてきた。
「このネコ、可愛いですよね。目が気に入ってるんですよ。緑っていうのも珍しいと思ってね。誰の作品かわからないのだけど、絵の雰囲気が良いですよね。」
と言って、レジの方へ歩いていく。
「ん? 待てよ。もしかしてあの亭主、この絵がウォーホルのものと知らないのか? でもお店番だけやっているのならあり得るか・・・」
僕は俄然この絵に興味を持ち、店主に気付かれぬように妻を手招きで呼び寄せた。
「これ、どう思う?」
「ん? 可愛いネコだよね。絵柄も素敵。」
「いや、そうじゃなくて。この絵、ウォーホルの初期の絵なんだけど、亭主が知らないみたいで」
「でも、さすがに本物じゃないでしょ?」
「俺もそう思う。さすがにそう思う。でもこんなような話、なんでも鑑定団で聞いたことあるんだよな。本物と知らない無知な亭主から東山魁夷の絵をとんでもない安値で買った人の話。サインだけでも本物なら、かなりの値がすると思うよ」
「そんなに気になるなら、近くでよく見てみたら?」
「そうなんだけど、あんなに上に置いてあるから見えなくて」
「いや、絶対ないでしょ、そんな美味しい話」
「でも、あの亭主、見てみなよ。絶対にアートの事知らないでしょ? 柔道に青春をかけてきた息子がようやく帰ってきて、人手不足の骨董品屋を手伝ってる感じしかしないでしょ?」
「それは確かに。あの人が買い付けてきたって感じはしないよね」
「でしょ。これは確かめる価値あるんじゃない?」
「うん。最初から反対はしてないよ」
僕と妻は、絵を実際にこの目で見ない限り、疑問は永遠に解決しないと思い、意を決して面長の亭主を呼び寄せた。
「あのネコの絵、ちょっと見たいんですけど」
「ハイハイ、あの絵ですね。しっかりと壁に額縁ごと打ち付けてあるので、ちょっくら時間がかかっちゃうんですけど、お時間大丈夫ですか?」
僕と妻は顔を見合わせた。僕たちはご飯を食べに出てきていたので、店内をだらだらと見ていたこともあり、空腹も限界にきていた。
妻が軽く顔を横に振ったので、僕は妻に悪いと思い、亭主に断りを入れようかと思った。その瞬間であった。
「この絵、他に黄色のネコもあったんだけど、盗品にあっちゃってね。おかしなことに、店内でその絵だけ盗まれちゃったの。他によっぽど高いものもあるのにね」
僕と妻は再び顔を見合わせた。僕の額には、脂汗が落ち始めた。
そんなことがあったのに、亭主はこの絵の価値がわかっていないのか?
よほどの天然なのか、本当にこの商売に興味がないのかどちらかだ。僕たちはその真意を知るために幾つか質問をする必要があった。
決してウォーホルの名前も出してはいけない。この手の輩でも有名な人の作品だとわかれば、手のひらを返して値段を考え直すに決まっている。
「あのー、この絵はどうやって手に入れたんですか?」
「ああ、それは知らないねー。僕は先月、お店の亭主だったオヤジが死んで後を継いだだけだから。そのネコの絵はタンスにしまってたんで、せっかくだから出してみただけだけど」
僕の脂汗はひときわ大きくなった。
そして、このチャンスを逃すまいと、自分至上、最も白々しい顔をして質問を続けた。
「へー、そうなんですね。じゃあ、どこで買ったかわからなさそうですね」
「オヤジはずっとアメリカに住んでいたので、その時のものが多いみたいですけどね。知人に有名な人も多かったみたいで」
「ネコ好きのアメリカ人から貰ったんですかね」
「そうかもしれないですね」
僕が慎重に言葉を選びながら探りを入れていたその時、一向にラチがあかない会話にしびれを切らした妻が、会話に割って入ってきた。
「で、その絵、本物ですか?」
なんて直球の玉を投げるんだ、妻よ!
僕の今までの白々しい会話を無下にするつもりか!
こんなことなら交渉術のなんたるかを教えておくべきだった・・・と後悔したのもつかの間、亭主の口から「勿論、本物ですよ」という言葉が返ってきた。
実にその間、三秒くらいの出来事であった。もはやシャーロックホームズとワトスンが乗り移った僕たちの頭に、この三秒が重くのしかかった。
三秒。
亭主の返答は明快であった。
本物と言い切るのなら、この値段はおかしい。しかし、自分のお店のものを偽物と疑われた事に対する怒りの感情からくる三秒という速さだったのかもしれない。はたまた、本当の無知からくるもので、とにかく「本物」と言っておいて、後から偽物とバレても阿呆なふりしてやり過ごそうという腹づもりなのか? ともかく、自分には「本物」を見定める方法も知らないから、自信だけはあると伝わるように即答したのかもしれない。
考えれば考えるほど迷宮の奥深くに入り込んでしまう。
この亭主が初めから、白髭を蓄えた細縁丸メガネの老人ならこんな事態にはなっていなかったはずだ。人の見た目は恐ろしいと改めて思った。
僕は決意して「やっぱり、この絵、壁からおろして見せてもらえますか?」と言った。
妻はその瞬間、僕を強い眼光で睨みつけた。長時間、この狭い店内で探りあうかのような面倒なやり取りを見ていて、ホトホト呆れているのだろう。空腹も手伝っているのか、いつもよりガンが効いている。
しかし僕は「さっきの君の直球がそうさせたんだよ」と強い心で睨み返した。妻も察したのか、ため息をつきながらお店の入り口の方にスタスタと歩いていってしまった。
ここからは男だけの勝負だ。僕は覚悟を決めた。
あれから二十分くらい経っただろうか。ようやくその緑のネコは自分の目の前に現れた。
僕はすぐさま、亭主に気づかれぬように絵の下の方に書かれたサインを注視した。額縁がかなり汚れていて、直筆かどうかの確認ができない。
「andy Warhol」
確かにウォーホルらしきサインがある。しかし、ウォーホルのサインは頭のAの文字が大文字ではなかったか? 僕はウォーホルの手がけたベルベットアンダーグラウンドのレコードジャケットを必死に思い出そうとしていた。
こんな時に頼みの綱のワトスンは、店の入り口付近で大蛇の絵が描かれたブーメランに夢中になっている。
僕は亭主に悟られないように妻の方に歩み寄り、すぐさまウォーホルのサインをスマホで調べるように頼んだ。妻は面倒くさそうに返事をして、カバンの中を漁り始めた。
僕は小声で「いいか、何気なくスマホを出すんだ。絶対に調べてますって感じで見るなよ。ここは勝機を分ける大事なところだ。抜かりなくな」
妻は「ハイハイ」と言った呆れた感じで返事をした。
まずは「ウォーホル サイン」で検索した。すると、ベルベットアンダーグラウンドのレコードジャケットがパッと画面に映し出された。そのサインは紛れもなくAの文字が大文字であった。
妻は「やっぱりあれ、偽物じゃん・・・」と言いかけたが、僕はその口を右手で優しく覆った。
「落ち着け。次は『ウォーホル 猫の絵 サイン』で検索するんだ」
その時の僕は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
画面に映し出された緑のネコの絵には、andy Warholという小文字のサインがはっきりと書かれていた。
僕は顔の彫りを少し深め「ビンゴ」と言った。
今まで苛立っていた妻も生気を取り戻し、「へー、初期のウォーホールは小文字のサインなんだ!」と少し嬉しそうに言った。
機は熟した。
僕は堂々と亭主の元に戻り、再び白々しい顔をして直球で言い放った。
「ちょっと、額縁の中から出してもらっても良いですか?」
普段ならこんな面倒なお願いをするのも気がひけるが、妻の機嫌をこれ以上逆なでるわけにはいかないし、空腹も迫っている。この戦いでは長期戦は不利になるからだ。
亭主はゆっくりと額縁から絵を取り出し、僕の方へと差し出した。
ここまでの道のりは長いものだったと感慨しながら、僕はすぐさま、サインを覗き込んだ。そして思った。
「完全に印刷だな ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
僕は優しく絵を持ち直し、ゆっくりとした動きで亭主に絵を返却した。
亭主が「いかがですか?」と聞き、僕は一瞬考えるようなそぶりを見せて「やっぱりやめときます」と言った。
亭主は不思議そうな顔をして見せたが、そこに苛立ちは感じてはいないようであった。
僕は中国製の大きな机を指でなぞりながら、空腹で待つ妻の方へ歩いていった。妻は、あの絵が本物だったのかどうか、聞くことはしなかった。
二人で寄り添いながら店を出ると、外はすっかり日が暮れて、商店街にはワイワイと話す人々の声がこだましていた。
妻が僕に話しかける。
「お腹、空いたね。何が食べたい?」
僕は少し悩んで「うーん、中華かな」と言った。
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