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ショートストーリー5話 『ヨーダの絵』

旦那のタモツは、翻訳家だ。

活字の仕事をしているせいか、目が悪く、机に置いてあるテレビとエアコンのリモコンの区別がつかない。
テレビのチャンネルを変えようと手探りでボタンを押すと、度々エアコンが動きだす、といったことが日常茶飯事であった。

前にバーベキューをした際も、豚肉と牛肉の違いが見えずに、仕分けの時間で肉を痛めることがあった。胡椒と塩の瓶を両手に持ったまま、十分くらい瓶を睨み続けていることもある。
花火大会をみんなで見に行ったことがあったが、彼だけがみんなと逆の方向を見て、「綺麗だな」と言っていた。

ただしそれは、彼がメガネを外している時に限る。
メガネをかけた時は完璧主義で、何事も上手にこなす。
料理だってプロ級の腕前だ。卵焼きのふっくらとした焼き加減。中もトロトロで申し分ない。どんな魚だってさばけるし、たらのムニエルを作らせたら絶品だ。
ゴルフだってスマートにこなす。去年、スコアはついに八十を切った。
以前、一度だけメガネを忘れた時は、ドライバーとアイアンの違いがわからず、百五十を叩き出したのが嘘のようだ。

彼はいつも言っている。

「メガネさえあれば」


仕事やスポーツをする際には、やむなしにメガネをかけているのだが、家でくつろぐときや、オフの日にはメガネをかけない。
かけすぎると、メガネが体の一部になって、体から離れない妄想にかられるらしい。これは、彼だけに限ったことではなく、彼の友人も同じようなことを言っていた。
風呂でも、食事中も、寝る時も、いかなる時もメガネをかけていると、外すのが怖くなるらしい。
外すと、レンズ越しに見えていた世界が一瞬のうちに暗闇に変わる。そんな恐怖を想像してしまうのだ。
彼らは、耳の裏側に引っかけただけの、いつ壊れるかも知れない不安定なものに、それほどの信頼と恐れを抱いている。
二年前までの彼も、完全にメガネと同化した生活を送っていた。
ようやく最近になって、裸眼での生活を始めたのだ。


妻のトモコは出版社で働いている。

トモコも、日常から本に関わる仕事をしているので、目が悪い。
しかし、トモコは三ヶ月くらい前にレーシックの手術を決意した。
レーザーを目に当てて角膜を削るなんて恐ろしいこと、絶対に無理! と言っていたが、医師の説明を聞くと、気持ちがずいぶんと軽くなり、もう勢いでやってしまおうと、トントン拍子で手術に踏みきった。

レーシックの手術には、タモツも反対していた。
彼は何度も、「ドライアイ」や「合併症」などのリスクについて説明していたが、彼女はそんな時に限って、
「タモツは本当に心配性だなあ」と言い、持ち前の楽天家の一面を見せていた。
それでも、この件についての議論が幾度となくされたが、一向に意見は一致しなかったため、彼女は一人で眼科に通うようになった。

レーシックの手術では、天井にヨーダの絵が貼られていた。
映画「スターウォーズ」に出てくる、緑色の小さなジェダイマスターである。ヨーダは博識で、最強のジェダイとしてみんなから尊敬され、愛されているキャラクターだ。
トモコは、旦那がスターウォーズの大ファンだったので、このキャラクターにも少しの愛着があった。
 
五十歳くらいだろうか、白髪をなびかした医師は、手術中はこの絵を見ていてくださいね、と言った。
トモコは、何か意味があるのだろうか? と疑問に思ったが、なぜかは聞かずに、ぼんやりとヨーダの絵を眺めていた。
やがて、医師が点眼麻酔を行うと、ヨーダの緑色がうっすらと青白く変化していった。
医師は私を怖がらせないように、「大丈夫だからね。フォースがついてるから」と優しく声をかける。
トモコは、医師の言葉を聞きながら、タモツのことを思い出していた。手術台の上に仰向けになりながら、無防備な自分を憐れみ、涙がこぼれそうになった。

手術はものの十分くらいで終わり、トモコは手術台から起き上がることができた。世界はまだぼんやりとしていたが、気持ちは晴れ晴れとしていた。
 

後から聞いた話では、レーシックの手術時には、患者の視点を定めるために、天井に絵を貼ることは、よくあることのようだ。
時にはネコの絵であったり、単なる記号であったりするらしい。
手術の後、医師から色々な生活上の諸注意を聞かされたが、トモコは上の空で話を聞いていた。洗顔がどうたら、入浴がどうたらと話していたが、この新しい眼球が運んでくる、色々なものにワクワクしていた。

真っ先に見たいものはある。

タモツの顔だ。
 

全盲だった人が答えるのとは違い、今までも旦那の顔など嫌ほど見てきただろうが、彼女はそう思った。
レーシックの手術を受けた人は、街行く人々の顔が違って見えると聞いたことがある。だったら、長年付き添った旦那の顔はどうだろうか。
タモツの顔は、町の人々と同じように、変わって見えるだろうか?
トモコは期待と不安に胸を膨らませて、家に帰った。


タモツは、リビングのソファに寝転びながら、本を読んでいる。
トモコに気がつくと、本を机に置き、
「おかえり。どうだった?」と聞いた。
トモコは、何も答えずにタモツの顔をまじまじと見た。


うん、いつものタモツだ。


すこしゴワゴワした頰の感触も、額と髪の間にある、小さな頃についたすりキズも変わらずに、そこにある。私が好きな切れ長の目も、そのままだ。
わたしは彼の、産毛の一本一本まで、もれなく記憶している。

今まで見た彼が、そのままの彼でいたことに、トモコは安堵を感じた。

タモツはトモコの右目を覗き込む。
トモコの目には、目を細めるタモツが映る。

「痛かった?」
タモツが聞くと、
「いや、全然。タモツもやればいいのに」
「そうだな、俺もやろうかな」
タモツは、またソファに座り、本の続きを読み始めた。
本の表紙が逆さまだったが、トモコはその光景を微笑ましく眺めていた。

トモコは小さな声で言う。

「フォースがついてるから」

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