ショートストーリー3話 『痕跡』
知人に白色のロングコートを愛用する男がいる。
仮にTとしておこう。
Tはいつも、シャツの襟、ジャケットの襟、ポロシャツの襟など、襟と言われるものは全て立ててきた、ダンディな着こなしをする男だった。
彼はいつだってスキがなく、仕事においても完璧を求める熱い男だ。
そんなTと一緒にランチを食べる機会があった。
その日は、木枯らしが吹き始める秋の始まりのような寒い日だったが、Tは、いつものように白のトレンチコートの襟を立てて、待ち合わせの場所に立っていた。
少し遅れてきた僕に、物腰の柔らかいトーンで「少し、待ったよ」と言い、コートの襟の立ち具合を確かめた。
僕は時間に遅れてきたこともあって、バツを悪そうにしながら「今日は、何を食べましょうか?」とTに尋ねた。
するとTは、間髪入れずに「今日はイタリアンで決まっている」と言った。
完璧を求める男には悩むという言葉はないらしい。
僕たちは行きつけの洋食屋に入り、二人用のテーブルに向かい合って座った。まだ十二時前ということもあり、空いている席がちらほらあるようだ。
席に座り、オーダーを頼み終えると、一息ついたTが言った。
「で、最近何か面白いことあった?」
で、という話し始めに少しイラっとしたが、このイライラは空腹からくるものだと自分を納得させて、答えた。
「最近ですか? そうですね。前に六本木の美術館に行った時に、女優の加藤ローサさんを見たんです。前から好きだったので、すごい嬉しかったですね! 正直、めっちゃ可愛かったですし。その美術館にある全ての美術品より美しかったんじゃないかな! 神様の作った最高傑作ですね」
わりと上手いことを言えたな、と満足げに浸っている僕に、Tは続けて言った。
「ほう、それで?」
「そ、それで?」
「いやいや、加藤ローサ、前から好きだったんだよね?」
「は、はい・・・。好きでしたね。だからかなり嬉しかったです」
「いやいや、嬉しかったです・・・て君、かなりのチャンスを無駄にしたよ?」と言って少し水を口に含み、ニヤリと笑った。
これには僕もムッとした顔で「なんですか? チャンスって?」と答えた。
「あのね、この世界で好きな女優と会えることなんて、めったにないことじゃんか。いや、舞台やコンサートに会いに行くって手もあるけど、それだと、遠くから見てるだけで、会ったって感覚にはならないでしょ? 楽屋まで行く勇気あるの? 勇気あってもスタッフパスないと入れないよ(笑)」
「いや、そんなことは分かってますよ」
「いや、分かってないって。まじで。分かってなさすぎだって」
「じゃあ、どうすれば良かったんですか?」と僕が聞くと、少し考えたようなふりをして言った。
「俺なら、なんでもいいから痕跡を残すよね」
「痕跡?」
「そう、こ・ん・せ・き」
Tは、伝言ゲームをするかのように口をなめらかに動かして、嫌味たっぷりに言い放った。
「痕跡というと・・・?」
「いや、考えてみ。こんな芸能人に会えるチャンスなんてめったにないでしょ?だったら、そんなチャンス見過ごす方がダサいじゃん。しかもプライベートでしょ。それなら話しかけても仕事なんで、って断れないし。俺なら話しかけるね。神様に千載一遇のチャンスをありがとう、って思ってガンガン話すね。もはや、その芸能人が好きじゃなくても話すね。だって、ネタになるじゃん。何かが起きそうじゃん」
僕はその時、執拗に責められていることを恥ずかしく思い、少しでもTを楽しませようとした自分のことを考えると、また悲しい気持ちになった。
「そうなんですね、でも自分は緊張して、話しかけるなんて余裕はなかったですね・・・」
バツの悪い顔で取り繕う僕を見て、さらにTはまくしたてる。
「まあ、いきなりは無理じゃないかな。俺は常に準備してるからスタートダッシュかけられる自信あるけどさ」
たたみかけてくるTに、少しでも反抗したかった僕は言った。
「でもプライベートなんで、余計に話しかけられたくないと思うんですけど」
「言うよね、それ、言うよね! 声かけられない人ってそれ、言いがちです、ハイ。じゃあ、君はいつも人に声かけられるの待ってる訳? そんなんで、声がかかったことってあるの? 待ってて得したことある?」
その後もTは、延々と僕の駄目なところを羅列していたが、さすがに温厚な僕も、これにはいささか怒りにも似た感情を覚え、もうTのことは無視しようと思い、携帯電話を眺めていた。
そして事態は急変した。
ふと気づくと、なぜかTがブルブルと震えている。私も突然の出来事に事態が飲み込めないでいたが、その答えはすぐに分かった。
僕たちの隣の四人席に、今まさに座ろうとした人物が、あの卓球少女あいちゃんなのであった。
そういえば、ここは高田馬場の洋食屋。あいちゃんは今、早稲田に通いながら卓球界で活躍していたことを思い出した。
あいちゃんは、普通の大学生のようなジャージ姿だったが、テレビから伺える天真爛漫な空気感を醸し出しながら、友人と談笑をしていた。
今までマックス(最高潮)にイキがっていた(偉そうにしていた)Tは、恐る恐る僕の顔を見た。私は、この突然訪れた幸運を必ずものにし、Tに復讐しようと、先ずは、あいちゃんに気づいていないふりをすることにした。
「あれ、どうかしたんですか? Tさん」
「い、いや、なんでもないよ ・・・」
Tは、僕があいちゃんに気づいていないと思ったのか、少しホッとしたような表情で胸をなでおろした。
やがて僕たちのテーブルに料理がやってきた。
僕たちはお互いにパスタを頼み、僕は、Tにフォークを手渡した。
「おいしそうじゃん。やっぱりパスタはナポリタンだな」
「そうですね。やっぱり昔ながらの味付けが一番ですね」
「知ってる? ナポリタンの発祥は第二次世界大戦のあと、アメリカから入ってきたヌードルが日本で土着化した・・・」
何事もなかったかのようにナポリタンの起源を話し始めるTにしびれを切らした僕は、Tの話に割り込むように言った。
「そんなことよりTさん、あの痕跡ってやつ、お願いできますか?」
すぐさまナポリタン講義は中断され、Tは焦った表情で僕の顔を見た。
そこには、恐ろしいほど口角の上がった自分の顔があったに違いない。
Tは、ニヤリとした私の意地悪い顔を見て、再びブルブルと震えだした。
「あれ? どうしたんですか、T先輩? 震えてます? こ・ん・せ・き・ですよ、こ・ん・せ・き」と僕はたたみかける。
「い、いや、ナポリタンはやっぱり・・・」
「先輩、ナポリタンはもういいんですよ」
と言って、左のテーブルに少し流し目をやり、僕、すでに気づいてましたよ。とTに合図を送った。
Tは、この地獄の時間が一秒でも早く終わって欲しいといった様子で、今までの一・五倍の速さでナポリタンをかきこみ始めた。そして汗だくになりながら、「やっぱり、きっかけって大事だよね、きっかけって・・・」と言った。
Tが苦しい言い逃れを言った瞬間、また神様のイタズラだろうか、あいちゃんの話し声が聞こえた。
「あれ? ケチャップがないな・・・」
あいちゃんはオムライスを頼んだらしく、このお店は自分たちでケチャップをかけるシステムであった為、ケチャップを探していた。
そして、あいちゃんのテーブルにはケチャップがなく、僕たちのテーブルにそれはあったのだ。
僕はテーブルのケチャップを手に取り、ニヤニヤとしながらTに話しかけた。
「T先輩、ラッキーですね。きっかけ、ここにありましたよ」
Tの震えは一層縦に大きくなった。食欲もなくしたのか、もはやナポリタンには手をつけず、口元に手をやって壊れたオモチャのようにガタガタと震えている。
見かねた僕は、ケチャップを手に取り、
「これ、よかったらどうぞ」
と言って、あいちゃんにケチャップを手渡した。
あいちゃんはそれを受け取り、満面の笑みで「ありがとう!」と言った。
そのやりとりをTは見ていたのかどうか、今となってはもう分からない。
ただ残ったのは、気まずい空気とナポリタンの懐かしい昭和の香りだけであった。
それから僕たち二人はお店を出た。
Tは、まだ何が起こったのか分からない様子で呆然としている。
「あいちゃん、可愛かったですね」と僕が言うとTは、「そ、そうだね! や、やっぱり芸能人はオーラあるわ!」と言った。
僕は心の中で、二度と偉そうにしないでね!と思ったが、口には出さなかった。
Tは、手に持っていたトレンチコートをさっそうと羽織り、綺麗に襟を立てると、僕を先導するかのように坂道を登りはじめた。
その姿は哀愁を帯び、秋の風を一層冷たく感じさせた。
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