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ショートストーリー9話 『ドリアン・グレイの青年』

『ドリアン・グレイの肖像』は、オスカー・ワイルドの小説である。
また、彼の代表作であり、唯一の長編小説でもある。

『500日のサマー』という映画では、主人公がヒロインに振られた理由として、「カフェで私が『ドリアン・グレイの肖像』を読んでいたら、それ、僕も好きなんだと話しかけられ、意気投合したから」というものだった。

それほどまでに女性は恋愛小説を好み、また重視し、その甘酸っぱい言葉の羅列にロマンティズムを感じる生き物なのである。
しかし、実際の『ドリアン・グレイの肖像』は、まっとうな恋愛小説ではなく、美の虜になった青年が犯す罪と贖罪の物語のように思う。

 
とある純喫茶の本棚の前に腰掛けた青年は、『ドリアン・グレイの肖像』の文庫本を手に持ち、どんな思いにふけっているのだろうか。

僕は、彼の座った席の隣に陣取り、物思いにふける彼の横顔に、オスカー・ワイルドの面影を感じながら、コーヒーをすすっている。

そう、彼はなかなかの美しい顔立ちの青年だった。
鼻筋はピンと伸び、切れ長のまつげはバネのようにしなり、サラサラの髪は英国の貴族を思わせるようなオリーブ色に輝いていた。

当のオスカー・ワイルドも誰もが認める美男子であり、小説中のドリアン・グレイも、絵のモデルになるほどの美しい顔の持ち主である。
そんな美のトライアングルに陶酔しながら飲むコーヒーはどんなものだろうと、思いをはせながら僕は文庫本の陰から覗く彼の顔をチラチラと見つめるのであった。

やがて、彼はコーヒーを飲み終えると、マスターにお代わりを頼んだ。

そこで、僕は一つの不思議な事実に気がついた。
彼の文庫本は両手にもたれたまま、一向にページがめくられていない。
ただただ彼は、目線を文庫本の中身に合わせていただけなのである。

この不思議な光景をしばらくの間、眺めていたが、ようやくその答えがわかる時が来た。

カランコロンとドアに掛けられた鈴の音がなると、ショートカットで目がクリクリとした可愛いフランス人形のような女の子がお店に入ってきた。
ゴダールの映画「男性・女性」に出演していた当時のシャンタル・ゴヤのような雰囲気を持ったその女性は、まさに文学少女といった面持ちで、赤いニットのカーディガンがとても良く似合っていた。

彼は女性を見るや否や、肘をつき直し、文庫本を目線の高さに合わせた。
僕の方からは、完全に口元が隠れて、その魅惑的なオリーブ色の髪と、青く輝く目だけが覗くようなあんばいだ。

なるほど。

彼は、この喫茶店に通う、彼女へのアピールとして文庫本をたいそう長いこと手にしていたのか。まさに、『500日のサマー』の恋愛術を実行しようとしていたのだ。

フランス人形のような彼女は、そのまま彼の対面の席に座った。これで、彼女の目には、彼の文庫本の表紙が嫌でも目に入る。
彼の手にも力が入り、文庫本はその強力な力で少しばかりねじ曲がったように感じる。僕は、早く勝負をつけないと、あの文庫本がかわいそうだと思った。

彼女は、ちらっと彼の文庫本に目をやったが、何の反応も示さずに、さっさとトートバッグの中から一冊のハードカバーの小説を取り出し、読み始めた。
そこには、「百年の孤独」と記されてある。
こちらもガルシア・マルケスの代表的な長編小説である。

その様子を見ていた僕は、この戦いは長期戦になりそうだと、少しため息をついた。

彼は何度か大きく咳払いをしたり、一気にコーヒーを飲みきり、五回目のお代わりを頼むといった「気づいてくれアピール」を試みたが、彼女は気にも止めずに読書に没頭している。

とうとう彼の腕は限界になり、文庫本はスローモーションのようにゆっくりと机の下に落ちてしまった。
僕は、その文庫本がボクサーに投げられたタオルのように見えて、少し切ない気持ちになった。

それから、彼女は一杯のコーヒーを飲み終えると、本をバッグにしまい、スタスタと喫茶店を出て行ってしまった。
彼を見てみると、コーヒーのお代わりのしすぎで頭が痛くなったのか、テーブルに両肘をついて頭を抱え込みながらウーン、ウーンと唸っている。

彼女がたまたまこの喫茶店に来たのか、または常連客だと知っていて、彼が待ち伏せていたのかは分からないが、とにかく、彼女のような文学少女に『ドリアン・グレイの肖像』が効果がないのであれば、仕方がない。

僕たち愚かな男たちは、図書館で同じ小説に同時に手を伸ばして恋が始まることに憧れを持っているわけではないが、そのような強烈な出会いには決して勝てないことを知っている。
彼も、そのことを熟知していて、今回の篭城作戦に踏み切ったのだと思う。

しかし、彼に一つの誤算があるとすれば、恋が始まる時は、やはりいつも男性から女性に声をかけるべきなのである。
『500日のサマー』でも、勿論そうであった。
彼は、ただ「男前」と「文学青年」という餌をまいただけで大魚が釣れると勘違いしてしまった。
その結果、カフェインの毒に侵されてしまったというだけの事なのだ。

しかし、僕には彼を責めることはできない。

いくら彼がそのことに気がついていたとしても、「百年の孤独」を読んでいる美人に話しかけるのは至難の技だ。
見せかけの文学知識はすぐにバケの皮がはがされ、もっと悲惨な事態を招いたことだろう。



やがて、外から五時を知らせる町内会のチャイムが聞こえてくると、またドアの鈴の音がカランカランと鳴った。

ドアの隙間から大きなリュックが覗き、ニット帽を深々と被ったアウトドアルックの綺麗な女性が入ってきた。

それを見た彼は、くしゃくしゃになった頭を瞬時に整えて再びマスターを呼び、六杯目のコーヒーを注文した。
そして本棚から、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』をゆっくりと取り出した。

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