ショートストーリー12話 『トルネード小学生』
近所に「平和の森公園」という公園がある。
この公園には、400mほどのトラックがあって、その中央は芝生が敷き詰められている。トラックといっても特に舗装されている訳ではなく、道はコンクリートのままであるのだが、円形のトラックに作られているので、ランナーたちはそのトラックを時計回りに走るのだ。
僕はこの公園が気に入っていて、休みの日でも妻とよく散歩に来ていた。
休みの日にもなると、トラック内の芝生はサッカーをする子供たちや、フリスビーをする大学生の若者など、いろいろな人たちが青空の下、気持ちのよい汗を流している。
この公園には、スポーツをする他にも、いろいろな人種が存在する。
公園の片隅では、派手なアルファベットの入った服を着たラッパーたちが輪を作り、子気味よいビートを響かせながら手をあげてラップをしている。
ベンチには年老いた白人三人が一つの将棋盤を囲んで、ああでもない、こうでもない、と談義を続けている。
はたまたトラックには、ランナーたちと時速10kmほどの速さで並走する、ウサギを抱えたオジサンもいる。
一度だけ見たことがあるのだが、パラグライダーに挑戦している若者もいた。この助走距離のとれない芝生内で、どうやって大空に羽ばたこうとしているのだろうか? 僕も子供たちと並んで、その若者を固唾を飲んで見守ったことがあるが、結局そのパラグライダーが空に飛び立つことは一度もなかった。
彼らは皆、この公園を愛する者たちであろう。
少し前に、この公園が取り壊されるかもしれないという事態に陥った際には、皆が団結して反対のビラを配っていた。今は取り壊しの危機を逃れたのか、いつもの平和な公園に戻りつつある。
名物的な存在が多いこの公園には、今日も変わった訪問者が現れる。
僕と妻は、いつものように芝生が見渡せるベンチに腰掛けていた。
すると目の前には、親子でキャッチボールをする微笑ましい絵が飛び込んできた。
父親にとっては、子供ができた時、絶対にしたいことリストのダントツ一位が、この親子でのキャッチボールである。
僕と妻は、この何気ない平和な情景に浸りながら、ウトウトとし始めていた。
父親の方は四十歳くらいであろうか、細身のポロシャツに短パン姿。メガネをかけていて、野球の経験など皆無であろうかと思えるほどの女投げであった。
僕と妻は、子供のほうが野球が好きなんだな。と思い、父親の優しさに気持ちがホッコリとしていた。
メガネの父親はグローブの使い方もままならぬようで、良く玉を落としていた。
「しっかり!」と僕たちは心の中で思ったが、何か違和感のあるモヤモヤがずっと頭から離れないでいる。それは、メガネの父親のヘタさ具合ではなく、子供の方に問題があった。
子供は小学生くらいで、ほっぺたの赤さがチャームポオイントの可愛いおデブちゃんであったが、その投げ方が独特すぎたのだ。
子供は父親からボールを受け取ると、限りなく体をよじらせるように振りかぶり、往年の野茂秀夫選手を彷彿とさせるくらいのトルネード投法でボールを投げているのである。
「今時、野茂って珍しいね」僕が言うと、
「うん、久ぶりに見た。しかも子供で見たのは初めてだね」と妻が返す。
僕が思ったことは一つ。
確実にこのままだと、彼の肩はいつか壊れる。
あのトルネード投法は体に負荷がかかりすぎる。あの鍛え抜かれた野茂の体幹とバランス能力があってこそ、あの投法に体が耐えられるのだ。
イチローがプロ野球界で頭角を現し出したころ、母校の愛工大名電の選手たちは、こぞってイチロー選手の振り子打法のマネをした。しかし、体ができていない高校生がマネをすると、必ず怪我をすると、監督が必死で選手たちを止めたという逸話も聞いたことがある。
まさに、今のこの状況なのではないか?
しかし、頼みの綱の監督(父親)はひどい女投げの実力である。野球のことなどわかるはずもない。
ここはどうするべきか、僕にできることはないかと、頭から煙を吹きあがらせていた。
そんな様子を見ていた妻は言った。
「教えてあげたら?」
僕は妻の頬を力一杯、ひっぱたいた。
唖然とする妻。
「いいか、父親にとって息子とのキャッチボールは夢なんだ。いくら野球の経験がないからって、僕たちがこの親子のキャッチボールという会話に入ることほど無礼なことはない。分かるか? これはただのボールの投げ合いじゃない。親子の無言の会話なんだ。いずれ、これから重大な決断をするたびに、彼らはキャッチボールという行為を通して会話をする。そんな儀式に他人が入っていくことは許されないんだ」
そう言って僕は、「でも、ひっぱたいたのはゴメンよ」と言った。
すると妻はニッコりと笑ってから、僕の十倍ほどの力を込めて、僕の右頬をビンタで撃ち抜いた。
僕は、地球が反転したのかと思うような衝撃を受け、ベンチから転げ落ちた。
それに気づいた親子が僕の方に駆け寄ってくる。
父親の方が僕の肩を支え、「大丈夫ですか?」と心配そうに言った。
僕は真っ赤に腫れ上がった頬を両手で押さえ、「あ、大丈夫です」と言った。
父親に抱えられて、やっとのことでベンチに座りなおしたが、妻は僕の方をチラリとも見ずに、遠くの凧揚げの様子を眺めている。
「くっ・・・イキがったのは悪かったが、やりすぎだろ・・・」と思い、バツの悪い顔をして、僕は父親にお礼を言った。
息子の方は、僕を見て不思議そうにしている。
「君のせいで、今、僕はとっても奥歯のあたりが痛いんだゾ!」と、子供に目線を送ったが、この気持ちが届いているような表情は見せてはくれなかった。
親子はまたキャッチボールに戻っていったが、妻の機嫌は直らずにいた。
僕は、どうにか挽回しようと、妻の喜ぶ話題を探していた。
すると、また息子の方が、今度は躍動感あふれるマサカリ投法で父親にボールを投げ始めた。
マサカリ投法とは、一昔前に村田兆治選手が使っていたピッチングフォームで、マサカリのように大きく足を振りかぶって投げることから「マサカリ投法」と名付けられた投げ方である。
僕はそれを見て、嫌な予感がした。
そして、妻の口から再びあの言葉が聞こえてきた。
「教えてあげたら?」
僕の脳裏におぞましい記憶が立ち登ってきた。まだ、さっきのビンタの衝撃で奥歯の方がギンギンに響いている。
丁寧に妻の方から振ってくれたとはいえ、あのビンタをもう一度くらってしまったら、確実に歯の二本はいかれるであろう。そんな悪夢がよみがえってきた。しかし、時は待ってはくれないようだ。
妻が頬を僕の方に突き出して、ニヤリとしながら僕のビンタを待っている。
僕は覚悟した。自分が始めたことに責任を持ちたい。そんな大人になりたい。その一心で、妻にビンタをお見舞いした。
「なんで分からないんだ! 僕たちがあの親子のキャッチボールを邪魔する権利なんて、一つもないんだ!」
少し半泣きになりながら、僕は言った。
すると妻は、まるで竜巻のように勢いよく体を反転させ、大空に向かって大きく足を振りかぶり、めいいっぱい開いた掌で、僕の頬を撃ち抜いた。
僕には、妻がスローモーションで動いているかのように見えた。
妻のうしろには、亡霊のように野茂英雄と村田兆治が立っていた。
僕が覚えているのはそこまでである。気がついた時には公園の芝生の上に寝転がっていた。遠くからカラスの声が聞こえる。
僕は今まで何をしていたのだろう。しっかりとは思い出せない。ただ、奥歯が痛むにつれて、かすかな記憶がよみがえってきた。
僕は遠のく意識の中で、キャッチボールをしていた父親の、僕を呼び続ける声を聞いた。
「大丈夫ですか!」の男性の声と、
「ほっといてください、ただのアホですから」という妻の声も聞こえた。
両肩には僕のことを掴んでいたのであろう、大きな手形が二つ見受けられた。
僕は自分の腫れた頬をさすりながら、少しだけ、妻の頬も心配した。
さあ、腰を上げて家に帰ろう。
この時間だと、サザエさんがやっているはずだ。だとしたら、妻はもうすっかりご機嫌だろう。磯野家に感謝だ。
夜ご飯は何かな。
この痛む歯でも食べられる、柔らかい料理だと良いが。
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