ショートストーリー1話 『ナルシストくん』
「君は本当にナルシストだね」
これは、心の声だ。決して、私のパクパク動く口から発せられたものではない。ただ、いつかこの私の硬く閉ざした口からも、出て行ってしまうかもしれない、不安な文字の塊だ。
私は今年四十歳になる。女としては、もう花盛りを超えた頃だろうか。目尻に小さなシワもできはじめ、私もとうとう女を観念した頃であった。
まもるとの出会いは、去年の十一月。
渋谷で行われていた街コンの帰り、誰にも相手にされずにやさぐれたまま、立ち飲み屋で女友達とやけ飲みしていた時に、まもるの方から話しかけてきた。
「何飲んでるの?」
「どこから来たの?」
何を言われたかは覚えていない。
私は、まもるの整いすぎた顔を見て、ただただ呆然としていたからだ。
少し面長だが、白人のように彫りが深く、目はコンタクトを入れたかのように青々としている。まるでエメラルドを目に差し込んだみたいだ。髪はいかにも日本人、といった直毛ではなく、適度にクセがついていて、それがまた異国の雰囲気を醸し出していた。
一目見て、どっぷりと、私はその顔にはまってしまった。
本人曰く、「純粋な日本人だと思うんですけどね。どこかで外国の血が入ってるのかもしれないな。あまり興味がなくて・・・」
こんなにも美しい顔を持っているのに、なぜそんなことも知らないのだろうと、私は不思議に思った。
対する私は、街に出れば、百人はいるだろうという、典型的な日本人顔である。特に優れた特徴もなく、特にひどいところもない。
要するに、いじりがいも褒めがいもない、ただの顔なのだ。
まもるの美しい顔は、私を不満にもさせ、同時に優越感も与えるのだ。
昔、友人がかっこいい男を連れ歩いていると、みんなが振り向くから、高級なアクセサリーをつけてるみたい。と言ったことがあったが、今はその気持ちがよくわかる。
私は度々、まもるを「所有」していると思ったことがあるからだ。
まもると出会った立ち飲み屋で全然喋れなかった私を不憫に思い、後日、一緒にいた友人が改めて飲み会を開いてくれた。
友人はちゃっかりと、まもると連絡先を交換していたのだ。
私はでかした、と思い、四十歳にしては若すぎるかな、というくらい肩を露出した白いニットを着て、意気揚々と飲み屋に向かった。
電車のドアの窓ガラスに映る、はしたなく若作りしている自分を見て、一度は引き返そうかと思ったが、やはりやめた。
きっとまもるは、私なんて見ないだろうと思ったからだ。
飲み屋に着くと、まもるとまもるの友人、そして私の友人がすでに席についていた。本場のスペイン料理が評判の、壁に闘牛士が描かれたお洒落な内装のお店だ。
私の友人が私に手を振る。
「こっち、こっち!」
私は小走りで三人が座る席に急ぐ。急いだせいで、私は四人テーブルの角に足をぶつけ、テーブルの上にある蝋燭を倒してしまった。
蝋燭のろうが机の上にこぼれ、小さなろうの池を作っている。
私は、やってしまった! と思い、すぐさま店員を呼び、事態を伝え、布巾を持ってきてほしいと頼んだ。
私の友達は、「大丈夫?」と言って、私の足を心配する。
まもるの友人も、少し驚いた表情を見せたが、すぐに、「これ、危ないよね」と言って、蝋燭を立て直した。
まもるはしばらく蝋のたまった池を見つめ、その池に反射されて映る自分の美しい顔をぼんやりと眺めていた。
そして、右手の親指と人差し指で前髪をつまみ、少しの力を込めてねじり始めた。私だけにこの光景は見えているのだろうか。あとの二人は、何も起こっていないかのように、また話を始めている。
私が席についてからも、まもるは前髪をいじくりまわしている。
右の前髪をねじると、今度は左の前髪が気になってくる。次は左手で左の前髪をねじると、次はまた右の前髪が・・・。
リズム良くねじられるまもるの前髪を見ていると、私は酔いそうになってきた。
やがて、店員が蝋の池を拭き終わると、まもるは前かがみの体勢から、椅子の背もたれに深々ともたれかかった。
この不毛な、沈黙の時間はなんだったのだろうかと、私は怒りを覚えるのかと思ったが、意外とそうではなかった。
私は決して短気ではないが、気が長い方ではない。
こんなナルシストくんには決して心を開くまいと思っていたのだが、いざ、まもるの美しい顔が目の前にあると、全てがバカらしく思えてくる。
こんなに整った顔をしているのだから、もう前髪なんて気にしなくても、十分に他人よりカッコ良いよ、とまもるに伝えたいのだが、いつも言葉が口から出てこない。
それは、まもるに嫌われたくないとか、こんなことを言うと、自分が嫉妬していると思われるかも知れない、ということではない。
まもるの、その前髪をいじる行為さえも美しいと感じたからだ。
確かに、今まで見てきたナルシストくんたちとは一線を画している。
まもるはナルシストぶりまで美しいのだ。
その美しさは、場所を選ばず、人も選ばない。誰が目前にいようと、まもるの美しさは誰にも咎めようがないのだ。
スペイン料理は美味しかった、ように思う。私はまたその時のことを覚えていない。
まもるの前髪以外は。
私とまもるが結婚したのは、その一年後。
結婚式を挙げた教会は、大理石の光る重厚な造りで、大変だった。見渡す限りの大理石にまもるの顔が映り、まもるは前髪の移動で大忙しだった。
指輪の交換の時も、指輪に映る前髪を直し、牧師さんが宣誓を読むときも、牧師さんの目に映る自分を見て「自分の顔の、最高の角度」を探していた。
私が母に感謝の手紙を読んでいる時でさえ、私の涙に映った自分の顔を見て、急に眉毛が気になりだしたのか、スーツのポケットに隠していた毛抜きを取り出し、涙ぐむ私の横で眉毛を整えだした。
私はそれでも、最後まで手紙を読み続けた。
四十歳にしてようやく結婚した私から、母は嬉しそうに手紙を受け取っていたが、父は、まもるの銀色に光る毛抜きを見ながら、私に聞こえるくらいの小さいため息をついた。
私とまもるは、今も仲良く暮らしている。
来年には子供も生まれる。どんな子が生まれるのだろうか。
私に似ると、まもるは怒るだろうか。まもるに似ると、ナルシストに育つだろうか。
どちらでも良いと思った。
結局、私の口からは、何も言葉が出てこないことを知っているからだ。
まもると出会った時から私は、自分の言葉を失ったように思える。それが今は幸せなことかも知れない。
まもるとの思い出が蘇る。
いつか、まもると自転車を二人乗りしていた時、まもるは、私が後ろの席に立っていることも知らずに、交番の窓に映る自分の前髪を直していたね。
その交番の中では、若い警官が呆れたふりをして警棒を叩いていたよ。
いつか、まもると繁華街をぶらぶらと散歩していた時、まもるは中に強面のおじさんが乗っていることにも気づかずに、ベンツのミラーに映る自分の前髪を直していたね。
その強面のおじさんは、逆に、私の顔を睨んで「こいつ、どうにかしろ」と言わんばかりに睨んでいたよ。
いつか、病院で赤ん坊のエコー画像を二人で見ていた時も、まもるは、赤ん坊には興味なんてなくて、パソコンに映る自分の前髪を直していたね。
お医者さんは心配して、私に知り合いのカウンセラーを紹介してくれたよ。
まもる。
私は、ずっと美しくいてくれる、まもるが好きだよ。
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