087 #100日後にムスリムになる僕
変容と解釈。
アッサラーム・アイライクム、ワロフマトゥラーヒ・ワロフカトゥー。
いよいよ、間近になった信仰告白。
ゆらいではいないですが、もっと内なる方向へ、思考が向かっています。
ムスリムになると決めてから、イスラームの勉強を始めてから、もう100日以上経っています。
何が変容していったのか。
それが最近わかるようになったので書いてみます。
一つは「アッラーが唯一の神」であると信じるようになったこと。
一つは「預言者ムハンマド(saw)は使徒である」と信じるようになったこと。
まさに「信仰告白」そのものなのですが、それが浸透してきました。
「アッラーが唯一の神であること、アッラーの他に神はなし」はクルアーンを読んでいきながら自分の信仰体験(どの宗教でも可)と照らし合わせていけば自然とそう考えられるようになります。
では「ムハンマド(saw)は使徒である」はどうかというと、クルアーンだけを読んでいればいいのですが、このご時世、中東問題やイスラーム国問題、預言者ムハンマド(saw)の肖像問題などの「ある種偏った」報道が日々流れてくる中、日本人として考えてしまうことが色々とあると思うのですね。
ここがイスラーム圏ではない国に生活する人の「課題」だと僕は思っています。(あ。宗教的課題と言ってもいいかもしれません!)
そこが弊害となってしまったという要素が少なくとも僕にはありました。僕はどのように克服したかというと、それは「預言者ムハンマド(SAW)を必要以上に神格化しない」です。預言者ムハンマド(SAW)は「神に遣わされた預言者であり、使徒である」ので、信用すべき、敬うべき人間であるのですが、「神」ではないということをはっきりと線引きすべき。
預言者ムハンマド(SAW)は人間ですので、大なり小なり、「言動にゆらぎ」がある。残念ながら今は生きている人ではないので、ハディース(言動録)などでその真意を「憶測」していくしかない。だからこそ、解釈に多様性が生まれて、イスラームは多彩な輝くを増していくのですが、どう解釈するかはある程度、法学者、もっと言えば信者自身に任されていると思うのです。
「言動にゆらぎ」すら愛すればいいと思えばいいわけで、「ゆらぎすらない」とするのは「神格化」に他ならない道ですので、極力、避けていく。
預言者ムハンマド(SAW)の言動録に「音楽」に関する逸話があります。
愛妻「アイーシャ」が鼻歌を歌っていたら、従者?教友?がアイーシャをたしなめた。すると預言者ムハンマド(SAW)は「まあ、いいじゃん」とそれを許したとあります。
音楽史的にいうと「音楽」は「神を崇める方法のひとつ」をルーツとしています。イスラームは偶像崇拝を禁じており、神を崇める行為は「礼拝のみ」なので、音楽は割と「忌避」されてきたきらいがあります。
なので、そこだけ抽出すると「イスラームは音楽を禁じている」となるわけですが、そこに「預言者ムハンマド(SAW)のゆらぎ」が生じてしまうわけです。
「恋女房の歌ぐらい家のなかで聴かせろよ」という解釈でいいと思うのですね。それは「外」と「内」をゆるやかに分ける行為のひとつであり、それこそが「ゆらぎ」なので、そういう人間味を魅力として捉えるべき。
僕は単純にそういう風に解釈することによって、預言者ムハンマド(SAW)を日本語でいえば「使徒(apostle)」なのですが、むしろ「先生」とか「師匠」、「先輩」的な「和訳」で捉えるようにしています。
僕的にはしっくりくるのですがどうでしょう?(怒られそうだなー!)
大事なのは何度も書きましたが「神格化」しないこと。「神」に愛されたもっと重要な「預言者(人間)」ですが、「神」ではないことをきちんと理解することが「ボーン・ムスリム」ではない「改宗者」にとっては大事なことのように感じます。