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004 #日本人ムスリムになった僕
色々と軌道修正したいことなど。
アッサラームアライクム。お元気ですか?
久しぶりにnoteと過ごす時間とネタがあるので投稿します。
「#100日後にムスリムになる僕」が一旦終了したので、これからは「#日本人ムスリムになった僕」で進めて行こうと思ったのですが、少しだけ、軌道修正します。
どう修正するかというと、noteに投稿する記事の内容を「イスラーム」関連と「それ以外」の2つで進めて行こうと思っています。
なので、すべてがすべて、イスラーム関連ではないので、ナンバリングタイトルに違和感があります。
さて、どうしましょうか、と。
自分という存在の前提
このタイトル変更に関わる問題というのは、もちろん、投稿内容による多様化や角度の違いといった視点の問題から発生するのですが、元を辿っていくと、自分という存在、その立ち位置をどこに据えるか?という点に帰着します。
わかりやすくいうと、
僕という人間は、
日本人であり、イスラーム改宗者であり、労働者であるという一人の存在。
まず、日本人が最初にあり、宗教があり、職種というか社会的な立ち位置があります。
けれども、
国籍と民族は日本人であり、日本で働くムスリムであるという一人の存在。
その順列をどう考えるかということです。
僕が考えること、つまりOSイスラームがインストールされているのが、日本人というコンピューターなのか、それともイスラームというコンピューターにOS日本人がインストールされているのかということ。
僕自身は「日本人」に「イスラーム」をインストールしている感じがしていて、またそれでいいのではないか?とも思うのですね。
人類はすべて「アダムとイブ」の子孫であるというロジックで言えば、生まれながらにして人類はみな「ムスリム」であることと反発してしまうのかもしれませんが、基本的な考え方はこうだろうなあと。
と、ここまで書いてきてここでひとつ新しいことを思いつきました。
僕という人間(ムスリム)は存在として「日本人という母体にイスラームをインストールした」ものである。
非常にわかりずらい例えにしちゃったなあとも思うのですが、これで行こうと思います。
なので、次回からは日本人ムスリムとして、色々な話題でnoteを書いて行きますので、今後ともよろしくお願いします。
(とはいえ、次回のテーマは「7つもマスジドがあるエリアに住む僕」的な感じになります!)