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088 #100日後にムスリムになる僕
ムスリムとしてどう生きるのか。
ここ最近、色々とうまくいかないことがあり、少しだけ塞ぎ込んでいる僕。
原因とかを考えるのですが、結論は「アッラーが喜ぶことをしていない、そのための努力を嫌がっているのはないか?」としました。
すべてはアッラーが喜ぶことのため、それは結果的に来世の待遇に繋がるわけですから、大きな天命を信じれば、現世のことなど、なんのこともない。
そこに行き着くまで、少しだけ迷いました。
アッラーが喜ぶことというのは、アッラーを讃えて、意識すること。クルアーンの掲示にそって正しいムスリムであることなどですね。
イスラームの5行の一つである「信仰告白」がまだ済んでいないので、「何が正しいムスリムだ!」というツッコミが自分の中にはあるのですが、漠然と「自分にとってのムスリムとしての生き方」を考える機会にはなります。
生きるということは喜びばかりではありません。どんなにいい人であろうとも、他者や環境からの影響でこころに波が立つことはしばしばあることだと思います。
今までの僕はそれを「解決する」ために心を砕いてきました。
それはとても負担のかかる作業だったと思います。
今日からの僕はそこに「ムスリム」としての知恵を加えて生きていこうと思います。
生きること、大いに稼げとクルアーンにあるように、仕事はとても大事なことです。
よく思うことがありました。
「こんなに稼いでも、自分のこころは磨耗するばかりで、なんの意味があるのだろう?」と。
つまり「自分のため」だけに働いているからこういうことになる。働いた成果すべてが自分に還元されないと嫌だということですね。
では「ムスリムの知恵」とは何か?
答えは単純で「喜捨(ザカート)」。ムスリムがやらなければならない「5行」のひとつの実践です。
イスラームではシャリーア(イスラーム法)で細く決められているのですが、ざっくりというと、年収の2.5%をマスジドなどに寄付しなさいということです。
ザカートは義務なのですが、自由喜捨としてサダカもあります。
つまり、一生懸命働くことによって「ザカート」の義務を果たし、サダカも行うことができるのであれば、労働は「信仰」に直結するということ。労働は信仰行為とも言えるのではないか?ということです。
これは僕的には「ピタゴラスの定理」というか「発想の転換」として、非常に有効だと思いました。
とはいえ、これに近い発想というのは世の中のお父さんのほぼすべてがやっていることなので、まあ、そんな威張るようなことではないのですが、ムスリムとしての僕の指針として、とても大きいものになりそうです。