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プルキニエ 補遺

自作二次創作同人小説『プルキニエ』についての補遺 兼 自分語りです。
ネタバレをふんだんに含みますので未読の方はご注意ください。




・オマージュ元ネタ

「政府が公園を禁止する」ディストピア小説は『すばらしい新世界』が元ネタです。元ネタの方は政府ではなく○○省という名前です。

瞞訂羅 マンデラの元ネタは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に出てくる「ダイアル」。未来人は感情をも外部装置からインプットして姑息な悦楽を得ています。報酬系狂う~!麻薬みたいだね。

フレンチ食べに行ってやんごとなき雰囲気にあてられリタイアした同僚の話は実話です。その時のセヴェンの弁当は世界一旨かったらしいです。

「レンコ大将のために三唱せよ、くっくっクォーク!」の元ネタは『フィネガンズ・ウェイク』です。素粒子物理学で使う「クォーク」の名付け親になった小説でもあります。(これはガチおじさん「これはガチ」)マエリベリー・ハーンという人間のテーゼ、それは狂っていることなのだよ。

メリーの病室の元ネタは「メアリーの部屋」という思考実験。真っ白な部屋の中に生まれてこの方ずっといるメアリー。"赤"に関する知識の全てを蓄えたメアリーは、果たして外に出て実際に"赤"を見た際に何か新しい発見を得るだろうか。

WIRED(つながる)ボタンの元ネタは『serial experiments lain』に出てくる電脳世界の名前です。お前lain好きすぎるだろ。


・キャラ設定

・宇佐見蓮子
男性性強め
ADHD?ってくらいガサツ
20代特有の刹那主義・快楽主義を目指したいが、どこかまだ葛藤がある
自分を信じられない

・北白河ちゆり
トー横キッズ。
社会性アリ、気遣いできる
自分に正直、自分を信じられる
刹那主義・快楽主義者

・岡崎夢美
表面上の鷹揚、余裕、保護者の粉飾
30代半ばだが子供心を隠して生きている(子供心が完全に死んだ30代などいない)
理系学者っぽい理屈一辺倒
欺瞞の母性
自分を信じられない

・マエリベリーハーン
導き
存在があやしい
最後まで蓮子をどう思っているかわからない
自分を信じられる


・裏設定

蓮子は24歳(早生まれ)、社会人三年目。インシンしていれば博士一年生という設定。

舞台が2050年の理由。
宇佐見蓮子を丙午の女にしたかったから。丙午の女ってなんかカッコいいから。本当にこれだけです。2026年生まれは丙午。丙午の女としてのテーゼ→最後の「燃やす」に帰結します。

ドクター・レイテンシーの書込ID「wIoZGVMXB」のアルファベットを逆順に変換すると「DrLatency」

岡崎教授は興味のある人間を「○○くん」と、ない人間を「君(きみ)」と呼びます。君、岡崎教授が宇佐見くんを呼ぶ時の呼称を、もう一度注意深く読んでみるといいよ。

Bloodborneみたいに主人公は大きな勢力1の手駒。勢力2との戦いに知らんうちに加担しているという構図。振り回されている感、出てるかな……?

ダンテの『神曲』は3をモチーフに作られています。地獄編→煉獄編→天国編と三部構成です。この小説も三部構成で作られており、それぞれがR,G,Bと三原色に置き換えることができます。あとは99ページ毎に章が変わったりしたらカッコよかったなあ!?だってそこまでして切り詰めして調整するのは難しすぎたんだも~ん;;(やってもよかった)だっても神曲もないよ、蝦蟇みくん

本書のタイトルにもなっている『プルキニエ』。
プルキニエ効果:人間の眼は昼は赤が、夜が青が良く見える。
以上が本書の最初にして最大のモチーフです。数々の二元論が作中には登場しますが、赤と青という二元論もこの物語の根幹を成しています。ちなみに、二つが混ざった夕刻の色は……。

宇佐見蓮子が「~現象」「~効果」等の社会心理学用語を多用する理由はそれが『規定された意味』だから。他人に承認されたお墨付きの表現/言葉は安心できるため、それを使う癖がある。これはアカデミアに属する身から考えると、過去のみを見る行為と同義である。

宇佐見蓮子は知らぬ間に博麗結界を結ぶレイラインを造らされていた(歩かされていた)という裏設定があります。大型のオカルトを造る装置だったのかもしれません。


・後書

 私は結局は、どんなにシリアスな場面でも諧謔を入れてしまう人間なのだと思いました。これはもう宿痾です。なんだかかっこつけた駄洒落だと思って生暖かく見守っていただければと思います。(思い返せば人生を通して面接中にもいらんこと言うガキでした。)
 私の今迄の作品はそのフザケタイ思いを抑圧してきたのですが、本作はふんだんに使用しています。故、書いていてめちゃくちゃ楽しかったです。私の脳内の連想や妄想をちょっと他人様に見せられる程度に装飾しただけで、あとはもうやりたいことできたって感じでした。一言でいえば、連合弛緩みたいな本です。ご迷惑をお掛けします。

 『わすれなぐさ』を読んで、心的描写を細かく丁寧に描いたものを入れたほうがいいなと思いました。全てを語らないのも美しいのですが、小説(文)の強みはそれなのかなと。当然、作者は読者よりも情景を鮮明に描けていますが、それを読者に伝えられないと意味がありません。少し丁寧くらいが丁度いいのかなと。ですがそれも後半に行くにつれて飛躍してますね。ムラがあります。『わすれなぐさ』はとても叙事と抒情の混同が上手いです。筆が乗っていると思しき箇所が判りやすい、換言すれば、こちらもムラがあります。私の方も割とその書き方が表れている気がします。今回はその了見でやってみましたが、いかがだったでしょうか。

 私はテーゼ、コンセプトが昔から大好きでした。例えば私が敬愛するダークソウルというゲームシリーズでは、この騎士の一族はいつも「道に迷っている」、禿頭はいつも「崖から突き落としてくる」、どうせ皆「獣になる」等々、キャラクターそいつがそいつたる所以、みたいなプロットが多く、本当にすきです。私にとってキャラクターとはそれそのものが象徴/寓意なのだと思います。

 読み返してみると……これ……なんかちょっとだけ普遍、常識、社会通念(?)、なんやらで装飾した『朝蜘蛛』やん。本腰入れると私はこんな方向性のものしか作れないんだなと思いました。いいにしろ悪いにしろ、落胆もあれば、諦観もあります。
 無意識というか意識下が作ってくれた本という感覚、です。私から見たらいい本だと思います。ですが同時に、こんなものでいいのかという意見も勿論持っています。理にかなった説明が客観的に出来るのか出来ないのか、かなりすれすれの曖昧なところです。「無理がある設定」とか、「論理が飛躍しすぎ」等の意見は自分が一番わかっているつもりです、ですがどう考えてもこういう作風の創作が自分は好きで、ゆえに自分はこういうものしか作れないという落胆/諦観があります。
 自分の好きな作風に図らずも寄ってしまうというのは、なんとも美しく嬉しいことだと感じます。ですが、ですが……「ちゃんとした筋道の通ったものを作れない」というのは自分にとって結構ショックでもあるのです。イキった言い方をすれば、「普通が出来ない」です。基本ができて、それから応用に手を伸ばすからこそ意味があるというのに、初めから応用(自作を応用と呼ぶのも憚られますが)を作るべきではないと考えてしまいます。基本もできるのに敢えてやらない、というのに初めて意味があるからです。何も無い人間がそれをすっとばして異様なものだけを作っても、いささか一辺倒ですね。基盤がしっかりしていないまま突っ走っているという不安があります。

 蓮子は作中、三人に出会います。他人からの評価が違ったり、ちょいちょい自分と同属性の他人と出会います。その人と一緒にいると引っ張られたり、思想が同調したり。ですがそれは当たり前で、人間とはそんなものです。しかし最終的に自分を見失ってはいけません。それは健全ではありません。何を言いたいかわからなくなったので終わりです(カス)
 宇佐見蓮子は知らないうちに幻想郷を作るための結界を歩かされていた、等の設定を組もうと思ったんですが、ただでさえ蛇足が多いのにこれ以上混乱する情報を盛り込みたくなく、敢え無く断念しました。

 宇佐見蓮子が千百合との新人歓迎会の想い出を覚えていた理由。
 宇佐見蓮子にとって「記憶」とはその社会に適応するための処世術が詰まった弾倉であり、社会人としての宇佐見蓮子は、同じく社会人になりたての際に起こったイベントである、新人歓迎会の記憶は覚えています。これは謂わば、実弾です。反対に、大学生時代の宇佐見蓮子に起こったイベントは今となっては不必要な砂糖菓子の弾丸であるため、鮮明なディテールを思い出すことができません。
 ペルソナによってその場の正義は変わります。不器用な宇佐見蓮子は「自分の正義/個としての人間の正義」と、「その場の正義/種としての人間の正義」に翻弄され、いつも精神が板挟みにあっている、そんな現代の二十代らしいキャラです。

 「ミーム」の力は強大だと思います。そのもの本質でなくとも、その表層だけで面白いのが正義であるからです。
 私の友人にジョジョ好きがおり、その友人は昔に「だが断る」がネットでミームとして多用された際に怒っていたのを覚えています。曰く、ちゃんとキャラ同士のやりとりがあり、それを経て使うからこそ意味があるのであり、ただ単に言葉として置いただけでは意味が無いと。これは思うに、シニフィアン/シニフィエの関係と近いと感じます。
 例えば『ヘソで茶を沸かす』は「面白い」という属性に使用されるべきであって、「ヘソ」も「茶」も全く関係ありません。お茶の話をしている最中に『ヘソで茶を沸かす』みたいな話だね、と言われても全く意味が通じません。しかし、先のミームではそれが通じてしまうという変な理屈が生じます。
 掘り下げれば(そのものに精通した人間であれば)私の友人のように意味が全く通じていない!然るべき使い方ではない!と怒る人も出てくるでしょう。しかしミームは広く浅く、その拡散力が異常なほどに発達していると感じます。私にとってはそれがウィルスのように感じるのです。ミームで盛り上がっている人達にとってはそれが適格な使い方か否かなど如何でもいいのです。


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