(やっぱり)ノれなかった映画「八犬伝(2024)」
原作あり作品を作中作にする難しさ
観て参りました「八犬伝」。注意しないといけないのは、本作での「八犬伝」は作者である滝澤馬琴を主人公とした物語であり、「八犬伝」創作の過程における、瀧澤家を中心とした人間模様を描く作品である、ということです。つまり物語としての「八犬伝」は「滝澤馬琴の物語」の中に入れ子構造で収められた、「作中作」扱いとなっています。
そもそもこの作中作という演出について、なまじ原作の物語にファンがついてると、かなりエンタメとして成立させることが難しいと、私は思っています。
私は薬師丸ひろ子の出ていた物語としての「八犬伝」が好きでした。なので今回の映画化は「八犬伝」物語としては物足りない!(理由は後述します)
例えばあなたが「どらえもん」好きだとして、新作映画「どらえもん」というタイトルで公開された映画の内容が、実質「ドラえもん制作秘話~藤子不二雄物語」だったとしたら、それはそれで面白かったとしても、新しい物語を読めると期待していたあなたは満足できるでしょうか。
ココが良かった!
役所広司の演技
失礼ながら初めて良いと思いました。役所広司の演技はぎらついて、脂っこい感じでクドく感じることが多かったのですが、今回は初手からジジイということで、枯れた風情、かつ軽妙なおとぼけがサラリとした味わいでございました。堅物感を発しながらも、気の置けない仲の北斎との挿絵を巡る子供っぽいやり取りが好ましく見ることができました。
鶴屋南北との虚実談義
映画「八犬伝」で一番語りたかったことってコレでしょ!?と思わせる天才二人の創作談義が素晴らしかったです。劇中で語られる鶴屋南北の仕掛け、馬琴の考察が文学史上、ある程度知られた説であるか、それとも原作者山田風太郎の言葉なのか、あるいは脚本家独自の解釈かなのかは、不勉強なので存じませんが、成程と思わされる説得力がありました。
文字通り「奈落」の底で交わされる、顔の見えない幽霊のような相手との暗闇の問答は演出的にも際立っていました。しかし後述しますが、この問答を経て馬琴に生じたであろう、自身の創作活動の意義への疑い、筆の迷いと苦しみ、葛藤と克服の様が劇中で描かれないのは実に惜しい!と感じました。
イケメンの殺陣
「八犬伝」の割合美味しいところ、というか見せ場をつまんでくれるので、見目麗しい青年たちの殺陣を含んだアクションを眺めることができます。
物足りないところ
虚実の物語の関連性が薄いので、二つの物語がどちらも描写不足になっている
一番の問題はこれでしょう。作中作を取り入れた構造の作品が陥りやすい落とし穴に、本作も嵌まってしまっていたと言わざるを得ません。
物語の比重としては実パートに重きが置かれており、作中作扱いの「八犬伝」は割りを食ってしまっています。ただでさえ連載28年という長大な物語の魅力を映画という時間的制限のある媒体で描く以上、省略しなければならない展開が多いうえ、本作では実パートと交えながら語りますので、どうしてもダイジェスト的になるのは構造上致し方ないでしょう。元々「八犬伝」の物語に惹かれて、見てみようという人間には物足りないです。
各キャラクターは顔見せのシーン(自己紹介)が、描かれるほぼ全てであり、いわば出オチ。人間関係もナレーションやセリフで紹介されるだけで、人物「描写」の域に至っていません。キャラ描写の積み重ねがないため、感情移入ができず、彼らが苦労の末(何人かは戦いの中、自己犠牲で命を落とします)、勝利を掴んでも、観客としては「八犬伝ってそういうハナシなのね」、という感想しか持てず、(役者個人かキャラそのもののファンでもなければ)とても一緒に泣いたり怒ったり、喜んだりする気持ちになれません。
では実パートが充実しているかというと、それも中途半端な仕上がりになってしまっています。虚実のパートそれぞれがほぼ独立している展開のために、馬琴の家族問題は問題提起が繰り返され、馬琴が思い悩んだところで、「虚」パートが挟まると、次に実パートが描かれるのは数年後になってしまっています。毎度、解決を先延ばしにしている印象を受けました。
特に中盤、鶴屋南北との創作談義を経て、滝澤馬琴は自分の信念を揺るがされるのですが、その苦悩と、それにどう対応したかを見せない展開はあまりにもったいない!挫折、葛藤、克服は映画的に実に分かりやすい盛り上がりだというのに!
先の実パートではあんなに衝撃を受けていたのに、次の場面では数年経っているせいか、なんとなく時間が解決してくれたというような雰囲気、馬琴の「あのころは俺も大変だったな~(懐)」という言葉だけで済まされてしまいます。
テーマが序盤から語られ過ぎている
テーマというか、馬琴の創作信念は「善人が報われると限らない理不尽な現実だからこそ、創作の世界では理想の勧善懲悪を描く(ことで現実に希望を与えたい/持ちたい)」というものです。
信念は素晴らしいですが、序盤から一貫して、この信念を映画のラストまで持ち続け、さらに折々で実際に口にするので、だんだん「この人そればかっかり言ってるな」と説明過多でクドく感じてしまいます。映画的な展開を考えるのであれば、家庭の不和、息子の死、失明、諸々乗り越える姿を描き、最後にその信念を語る(境地に至った)とした方が、収まりが良かったのではないかと感じました。
本作の描写では馬琴の信念が終始ぶれない。それは個性に一貫性があるとも言えますが、逆にいうと主人公としての成長が見えないのです。
虚実が互いに影響しあう様子が見たかった
先の見出しで触れてしまいましたが、本作は虚実のパートが互いに影響しあう描写がほぼないために、二つのまったく異なる話が並行して、互いの腰を折りながら進んでいく印象を受けました。
唯一中盤、実パートで息子に済まないと思う気持ちを抱えた馬琴が、虚パートで父親キャラに息子に謝罪させるシーンがありまして、それは虚実の繋がりがわかりやすく良かったのですが、そのような繋がりを感じさせるシーンが他に見当たらないのが残念でした。
もっと実パートで起きた家族の問題が、虚の展開の中では解決されるとか、逆に虚で描いたシーンが現実への解決策になるとか、そういった繋がりをもっと感じられたら、それこそ「八犬伝」を作中作で語る意義が生まれたのではないでしょうか。
時系列をシャッフルしてほしかった
本作は馬琴の人生(と「八犬伝」)を時系列順にさらうことに終始しているように見えました。「八犬伝」物語の終わり=馬琴の人生の終わり、となっています。映画はラスト、虚のキャラ達に見送られながら、天国へ旅立つ馬琴で〆られます。(時代劇のラストに天国はないだろ、と思うかもしれませんが、めちゃめちゃ天国ぽい演出です。「フランダースの犬」のネロ並みに昇天、という感じです)
馬琴が逆境にくじけず偉業を達成したことはナレーションで語られますが、ここで終盤協力してくれたお嫁さんなり、馬琴ファンの渡辺崋山なりに「その信念は受け継がれたのだ」くらいの描写を入れてくれてもよかったんじゃないかと思いました。「八犬伝」が遺されただけでもすごいですけど、その創作信念こそがキモだと劇中で何度も語っているわけですから。その信念が、馬琴とこの映画の中だけで終わるような展開は物足りなかったです。
最後、馬琴が死んで終わるのは良いとしても、その直前があまり興味を持てない虚パートの大団円というのは盛り上がりません。
だからこそ本作は、時系列順に囚われないほうがよかったと思います。時系列をシャッフルして実パートのアンサーとなるような展開を、虚パートで描き、鶴屋南北との談義も中盤では一旦隠して、終盤にとっておき、馬琴の葛藤からの再起を省かず描き、それらすべてを経て、「勧善懲悪な理想を描く」信念が明らかにされる、これを馬琴が死ぬ直前のクライマックスに持ってきてくれたなら。
有害ではないが、意味があったかと言われると。。。
作品自体は丁寧に作られた映画だと思います。ただ構成があまりに普通なために、ものすごく感動したり、興奮したりはできませんでした。私にとっての「八犬伝」はそんな映画でした。しかしこれ言ってしまうと、脚本家は鶴屋南北の口を借りて、自作の弱点を把握しながらも克服できなかったということになるまいか。そんなことも考えてしまいました。