祖父の原稿 「レッドパージ」2
穀物の配給は欠配が続く。食糧難が貧困生活に追い打ちをかけてくる。米に代える手持ちの衣料も底をついて、山野の野草にすがるだけ。目眩を持って、スルメのように薄くなった腹を抱えて野草を探す山歩きを続ける。
暮れも迫ってきた11月3日。敗戦日本が世界に伍す民主国家となる。新憲法が公布となった。国内各地から米国に押し付けられた憲法だと声が上った。
何を根拠に押し付けたと言うのか?忌まわしい戦前の思想を持った連中の発言に反発する。1年前にGHQに提出した日本の憲法改正案はまったく明治憲法そのままで、「天皇は神聖ニシテ侵スベカラズ」の「神聖」を「至尊」に言いかえただけで、天皇の大種をそのまま残した民主主義には程遠い内容であったため、GHQはこれを拒否し日本政府の代案作成を待たず、象徴天皇、戦争放棄、封建制度廃止の三原則を元に草案を作成した。幣原内閣はこの草案をもとに新憲法を作成したという。大きく民主化を強調した文章が何の押し付けかと腹の底から怒りが込み上げてきた。国民が軍国という獄舎生活を強いられた暗黒から百八十度変わって新しい日本の証となる憲法にしびれた。
榛原郡に野球連盟が出来る。中川根もチームを編成して加盟せよということになった。
早速小学校同級で一番の親友だった久野実郎が誘いに来た。発起人メンバーは小沢進(一級上で小沢医院の次男)、久野実郎、久野仁(三級下で上長尾郵便局長の長男)等という。野球は好きだ。小学校三年生から始めた野球気違いだったもの。ついふらふらっとなったが、今の生活を思って、途端に駄目と拒否する気に変わった。
久野等とは生活が段違いだ。彼らに厳しい社会の生活難の中にあっても、裕福で俺等のような苦しみはない。平時無沙汰で時間を持て余している。野球は渡りに舟とばかり飛びついたのだろうが、俺にはそんな余裕はない。今の俺は一家の中心となって家族に食べさせることに苦しんでいる。村人も苦しんでいるのに俺一人村から野球に参加するとあっては、村の目が怖い。とても入ってはゆけない。泣くにも泣けず拳を握りしめて、久野に帰ってもらった。
「お前断ったのか」屋外に出ていると思っていた父が東戸から入ってきた。
「立ち聞きしていたのか」
「うん。帰って来たら話し声がする。家の中に入ることもないと、つい戸口に立って話を聞いてしまった」
「野球部を作るから入れと久野が言ったが俺断ったのさ」
「お前なあ。あんな辛い戦争に行って二度も死にかかった。運よく生きて帰って来たのだ。尊い人生を授かったのだ。これからはその人生を生かすことだ。人一倍苦労したのだから、今はあまりまわりのことを気にせずに、好きなことは何でもやることだぞ」
「俺は復員してきてここの長男として家に入った。安月給で皆にろくな物も食べさせられない無力者だ。こんな苦しい毎日を送っていては、とても野球どころではない」
「そりゃお前の責任じゃない。みんなが耐えることだ。そんなこと気にせずに子どもの時から好きだった野球をやれよ。村の衆に気を使うことはない」
階級意識の強い村人に、ここに住みついてからずっと卑屈なほど気を使って今まできた父の口から出たこの一言に目が覚めた。
頑なに拒んだ野球部入りを、父の一言に押されて決めた。元々好きな野球が出来る白羽チームに入って、遊撃の位置を占めた。練習には球が見えなくなってようやく終わる日が続いた。その毎日の出勤にも弾みがついた。
五月二日連盟創立記念大会を、下川根村家山小学校に於いて開催するとの連絡を受ける。五月三日は新憲法施行の日で、その一日前の二日を連盟の旗揚げ興行に選んだということである。憲法施行によって日本が大きく変わる。我々が待望の野球を楽しめる輝かしいスタートの日として二日を肝に銘じた。
昭和22年4月1日、新年度初日出社する。
森脇一男、技手補の辞令をもらう。昭和17年11月雇員助手で採用されて以来5年目(内兵役休職2年4ヶ月)となる今日技手補に昇進して、初めて日本発送電株式会社の正社員となった。戦中、戦後の苦労を思い出して感無量。命ぜられていた電力復興予算の実行に拍車がかかる。
明けて4月9日総選挙投票日である。戦前あった貴族院に変わって参議院となる。その第一回投票である。衆議院も同時投票とあって、貧困、食糧難に苛まれてきた多くの国民は混乱した。
24歳となって初めて選挙権を持ち投票を経験することになった。経験はないが戦前は党は単独だったが、今の選挙には多くの党が名乗りを上げている。立候補している人物を充分理解できないので、党を選んだ。共産党ではちょっと強すぎる。少しゆるやかな社会党所属の候補者に将来を期待して投票した。
新憲法によって女性に参政権が認められた。選挙結果で、数名の女性議員が誕生した。日本社会党143議席で第一党となった。日本自由党131議席。民主党121議席。共産党38議席と議員の顔ぶれは、戦前と180度違って、民主勢力が過半数を制した。日本は完全に生まれ変わったと実感する。
総選挙が済んだ新年度が始まった日本は、広い範囲で民主化が進み始めた。
極東裁判が開かれた。
戦争犯罪人として多くの軍人軍属が裁判で裁かれたが、その中で最も注目された満州で戦争捕虜を、実験台にして殺人的な医学実験と、生物学兵器の実験(推定3000人を殺害した七三一部隊の将校と研究者)が完全に戦犯でありながら、戦争裁判にかけずに追放した。これには多くの人が首をかしげた。
軍国主義者や超国家主義者とされる人が、公職から追放された。農村の民主化と、大地主を解いて自作農を立ち上げ農地改革を実施することになった。