自分を鍛えることについて
自分のことを正しいとして書くのは抵抗があるので、頭がおかしいケースとして書いていく。
自分は頭がおかしいので、若い頃から馬鹿みたいに作品ばっかり作ってた。
大学、大学院
大学では、毎日ビリヤードばっかりしてたけど、学校は大して行かないので、自分の制作とビリヤードという日々。
当時はMacでソフト開発にハマってたので、タイピングのソフト作ってた。
これの日本語版(ローマ字入力)も作ったし、ひたすら改善してた。
大学の卒業制作(研究?)はAWAMOJIの元の作品。
初めて基板使ったシステム開発。マックのプログラムは書けたので、シリアル通信とか覚えてあとはI/Oボードで制御しただけ。今ならArduinoでちょろいだろうな。エア制御は慣れが必要か。
大学院は多摩美で、当時はデザイン科というくくりしかなく、クラフト系の人も混ざってた。いい環境。他の学生の修了制作も手伝った。自分の入れて三作品作った。
テキスタイルの学生とのコラボ。パターンをジェネラティブに作り出すエンジン。制御した乱数とフラクタル図形、スプライン曲線を使った。今でも可能性感じる、群でのデザインという考え方。
自分のは波紋の作品。結構好きな作品だけど、展示することが難しくそんなに展示してない。
学生の頃は時間が山ほどある割には大して作っておらず、年一ペースか。もっと作れた気がする。
卒業後
社会人になるとき、「マック、プログラマー」で検索して出てきた会社に就職。だが3ヶ月の試用期間で自分から辞めた。その頃はOSXでの開発を始めた頃で、Objective-Cを興奮しながら学習してた。たまたまその会社にいたときに、宮島達夫さんの仕事がなぜか来て、それの一部の開発を担当。Directorのエクストラ開発というレアな仕事で、Mac版作って辞めたあとWin版作った。
辞めたあとは、鈴木太朗との出会いなどで、アトリエオモヤを作ることに。
鈴木太朗と奇跡のシンクロで似た作品作ってて、そのWaterCanvas手伝ったり。
八木澤優記とfuwapicaの元になるもの作ったり。(動画はfuwapicaになった後の作品)
大学の先生の森脇裕之先生の作品のソフト書いたり。
伊藤 隆道さんの作品回したり。(モーター制御にチャレンジしたときにお手伝いしました)
この辺から、フリーランスで展示の仕事もやりだし、PROTOTYPE社の仕事を受けたり。
山ほど基板作ったりソフト書いたりした。年間どのくらい作ったんだろうか、、記憶もない。。
その流れでMONGOOSE STUDIOを作った。
八木澤優記とのfuwapicaシリーズ、平原真とのRGByシリーズ、鍋島久和とのTYPE TIME。この三作品を何度も展示しながら、新作作る。100% designに参加してみたり、仕事頼まれてクリスマスイベントにfuwapica使ったり。
TypeTraceもこの頃か。
アーティストのテクニカルな部分を手伝うという仕事もフリーランス時代に多数やってて、その一つ。TypeTraceはアイデアの段階から関わり、初期のプロトタイプで興奮したのを思い出す。
作ることで得られる経験
仕事と作品の行ったり来たりの数年。
気がつけばArduinoが登場し、openFrameworksを使うようになり、iPhoneが登場した。iOSのアプリ開発もひたすらやってた。
多分、この25歳くらいから30歳くらいまでの5年間で相当な量のコードを書き、デバッグし、基板のパターンを書き、エッチングし、半田付けし、PICのコード書いてデバッグした。企画も作品の数だけやってて、現場も作品の数だけ経験した。
次第にコードを書く若者も増え、自分は仕切る立場、かつメインコーダーみたいな時期に。死ぬかと思う大変さだった気がする。
その後KAPPES作ってミラノサローネへ。MOMENTumのおかげでなにか見えた気がする。
なんやかんやで今は42歳でsiro 設立から5年経過。年々忙しくなっており、開発を自分でやることは減ったけど、年にある程度は自分で開発するし火消し案件とかは徹夜でコード書くとかまだある。
企画の方は年々機会が増えてる。デザインの仕事もあるし、メカ設計とかもやる。ロボだって作る。今でも毎年作品は作ってる。
何が言いたいかというと、経験の数だけ成長があって、その機会を作り続けるのが成長のコツということ。
若いひとたちへ
ひたすらに作って欲しい。悩んでる時間を減らして作ってる時間を増やす。悩むのは作りながらでもできるので。