何ができるのかメモ
昨日のAkeruEの衝撃がまだあって、ちょっと考えてみようと思う。
自分が感じている学びの基礎
AkeruEのことから離れて、自分が興味があることをゼロから積み上げて考えてみようと思う。思考の前提としては、自分の娘達だろう。親になって考えたことは多い。その子どもたちの未来やなんかを考えると自分の未来を考えるよりも不安を感じたりするものだ。自分じゃない自分よりも大事な存在を軸に考えるのだから、そういう感覚になるんだろう。どういう学びを得て生きてほしいと思うか、その辺から考える。
まず、学問の学びは除外して考えてみようと思う。基礎的に必要な算数や数学、国語や英語、社会や理科の学びは必要だと思う。それは学校で学んでほしい。
すごく偏るが、自分に視点を軸に考えてみる。何事も主観目線で一回考えることがいいと思うので、一旦自分の視点で。
学校で学ぶことと社会とのギャップ
自分はそんなに真面目な学生ではなかったと思う。ルールを逆手に取って「あと何回サボれる」とかそういうことをやるタイプだ。高専だったのもあるかもしれない。割と自由な学校だったので、ルールに縛られる感じはなく、自分の頭で考えている人が多かった気がする。
そんな自分はルール無視系なわけだが、学校という枠の中ではルールを守ることが良しとされる。もっというと、それは期待される行動を取ることだろう。「あ、いまは無駄口叩かないで置くべきなんだな」とか「手を上げて意欲的な姿を見せておこう」などといった思考だ。自分なんかは内申点のために行動するタイプではないが、「内申点」という概念が更に上記のような期待に沿う行動にバイアスをかける。
真面目で従順で、言うことを聞く人が良しとされるのが、幼稚園、小学校、中学校ぐらいまで続く。高校は一般的な高校に行ってない自分にはわからないが、徐々に大きくなると専門性を持つようなこともあるので、ゲームの設定は変わるかもしれない。
大学あたりから急にムードがかわるんじゃないかと思う。自分で何かを決めないといけない重要な場面が頻発してくる。そもそも大学を決めないといけないし、専門分野を決めないといけない。そして所属するゼミを選ぶというようなこともある。
「あなたはどういう生き方をしたいのですか?」と問われるようなことだと思う。もしそのタイミングまで、期待に沿うことを重視して生きていたとした場合、自分のやりたいことや好きなこと、興味があることを押し殺していたかもしれない。そうすると、自分のやりたいことをやるというのは悪に感じるかもしれない。
なんやかんやを超えて卒業し社会に出ると、ゲームが変わる感があると思う。そうなると、そもそもどうやって生きていくのかが、露骨に選択肢が広がり、なにが正しいとかが曖昧になる。働く場合の評価軸も一定化しない。実はコミュニケーション能力とかが重要であったりする。学校で習わないことがとても重要だったりする。
あんまりうまく言語化できなかったけど、とにかく子供時代から社会に出たあとのギャップがすごいあるんじゃないかなと、個人的に感じた。
社会の問題という無理難題
例えば、温暖化みたいなことを問題として考えた時に、これは自分ひとりの行いや思想ではどうにもならない。どうも二酸化炭素が問題とされていることはわかるだろうし、それが経済活動を止めずに二酸化炭素を減らすというのがとても難しいことも理解できる。かといって、働かないと食べていけないし、どうしろっていうんだというような問題となっている。
そういう状況下では、大人の方が無力かもしれない。社会の歯車としてねじ込まれてしまってるという認識もあったりして、大きな行動の変化はできないだろう。
自分はこの手のことはあんまり真剣に考えてないようなところも会ったわけだが、娘が小学校でこの問題について議論してきて家で話していることがあり、問題を問題として深く認識した事がある。なんというか、娘をきっかけにしてこの手の問題をちゃんと問題だとして思えたというか。どういう心理でそうなったのかはわからないけど、社会課題とかは気になったりする。
未来をどうやって作っていくのか
惰性で、いまの暮らしを続けていく場合、未来は向こうから勝手にやって来るイメージになる。でも主体的に行動して未来を作ろうとしていくと、自分たちが未来に向かって進んでいくような見え方になる気がする。
こういうことを考えて行動するというのはすごく難しいと思う。
思い起こすのは「ペイフォワード」という映画だ。それに関することが書いてある記事があったので貼っておこう。
経済の回転の渦の中で、生きていくだけで大変という状況におかれていると思うが、実は人間の能力はテクノロジーの力で20年前とかと比べて何倍もの処理能力を得ている。つまり、インフラを回すだけなら少ない人数で回せる可能性もある。
そういう模索はなされない経済の仕組みに今はなってるわけだが、そういう構造のなかでもペイフォワードみたいな構造はもしかしたら成立するんじゃないかと思わせる力があったりする。
回り回って思うこと
いま自分個人が思ってる自分ができることはなにかというと、ポジティブでいることだと思っている。
未来を明るいと思い、その未来を描き期待を持つ。その期待を伝搬させ仲間たちも巻き込む。そういうポジティブな気持ちを広げることで、ポジティブな未来につながるんじゃないかと思ってる。
具体的になにかを解決するということじゃなくて抽象度が高くてがっかりするかもしれないが、これが一番重要なんじゃないかと思ってたりする。
例えば、「機嫌がいい状態を維持する」のが重要だと思う。自分自身がイライラしてなくて機嫌がいい状態だと何でもニュートラルに考えられる。問題も見えるし、良いことにも気がつける。楽しむこともできる。機嫌がいい状態を維持するコツがあると思う。
自分ができることは自分が機嫌よく居続けるためにそのコツを見出して言語化する。それを語り、自分のように機嫌がいい人を増やす。
実はインターネットは負のスパイラルを生んでると思う。人はネガティブな感情の方が伝搬しやすいと思う。なので、その負の力がインターネットで拡散し、多くの人の機嫌を損ねさせる。
まとまらない
話が散漫になてきたので、一旦ここでやめよう。もうちょっと整理して考えないとだめだなこりゃ。