やってればいい説
人生の分岐について考える機会があって考えています。人生を組み立てるなかで、重要な分岐路っていうのはあるはずで、そこで「選択を違う方にしたらどうなったのか?」と考えることがあると思います。
仮にあのとき違う方に行ったら
自分の場合は、最初の会社3ヶ月で辞めたとか、ベンチャーに就職するか起業するか悩んで起業したとか、いくつか分岐はありますね。
いや、そんなことを言い出すと無限にありそうです。
藤子不二雄のパラレル同窓会みたいな感じで、分岐していくところは多々あります。最近だと、映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で描かれていた「マルチバース」ですね。
建築家になっている自分がいるなら見てみたい。
「反復が全て」説
スキルを学ぶときに、そのスキルのレベルを高めるのはそのことに費やした時間だと思います。正確に言うと試行回数だと思います。
例えば、「完成した作品を作る回数」が多いと作品のチューニングや仕上げの回数が増えます。そしてその経験を経た上でのアイデアも積み上がっていきます。
プログラムとかも、プログラムを書いてる時間が重要ですが、時間というより回数だなって思います。
そうやって、スキルを高めていくのはその分野について真剣に取り組んでいるかどうか。それが大事だなって、自分を振り返っても周りを見てもそう思います。
とすると
とするとですよ。どの分野に行ったとしても、その分野でしっかりと反復をしてるかどうかが大事なんじゃないか。つまり、そのことについて本気になれているかどうかが大事。
選択によってルートは違えど、質は内容か
今の人生を選んできた自分としては、ある程度一貫性をもってこの分野に時間と情熱を費やしてきました。関係ないようなことも関係あるようにしていて、大方今やってることは総力が出せるようにしたいと思ってる。
選択によって、コロコロとやることが変わったとしたら、積み上がっていく高さが低くなってしまうかもしれない。
でも、何をやってても真剣に取り組めていれば、それは積み上がった体積はちゃんとあるわけで、単に高さで比較もできないなと思うわけです。
もしかして
まだ確信はありませんが、どういう人生の選択をしようとも、そのことについて真剣に取り組めていればいいんじゃないかってことです。どっちを選んだかが重要なんじゃなくて、真剣に取り組めるかどうかが重要。
Aの選択なら集中を欠かないのに、Bを選択したら迷いが生じるのであれば、 Aのほうがいい選択といえるかもしれない。でもBを選んでも真剣に取り組めてれば特にそれは問題じゃない。
いや、選択の良し悪しがあるかないかだと、ルートが違っちゃうので、好き嫌いはあると思いますが、良いか悪いかみたいな基準は曖昧なので、あまりないんじゃなかなーって思ったわけです。
まとめ
頑張れていれば全て良しって思うと気が楽になるかな。