君の膵臓を食べたい
人間誰しも一度は死について考えることがあると思う。中二病がたたって、あるいは、お硬い哲学的思考の果てに。
すぐに行動を起こせるタイプの人なら思い立った足で本屋に向かい、「死とは何か」といったような本を買っては難解さに眉をしかめて、気づけばそれは「いつか読む本」へ成り下がり本棚の奥で寝静まっているかもしれない。そうしてふと思い立った哲学を忘れ去っては次の日をまた生きるのである。
つまるところ進行形で生きている私たちがいくら考えても死ぬなんてものはわからないし、あるいは考えたくもないのだ。答えがわからないものを考え続けるくらいなら、明日提出のレポートに無い知恵絞って筆を走らせる方が大いに有意義なのだから。
「君の膵臓を食べたい」という本を読んだ。きっかけは、そのタイトルに興味が湧いたこと、巷で話題になっていたことなどたいしたことではなかった。今では読んでよかったと思っている。
膵臓に病を患った少女と、その子に振り回される少年の数ヶ月を描いた物語。物語を読み進めて「君の膵臓を食べたい」の意味がわかったとき、とても胸が苦しかった。心が叫びたがっているんだとはこういう感触なのか。
少女は自分の死を自覚しながら日々懸命に生きようとする。
「死に直面してよかったことといえば、それだね。毎日、生きてるって思って生きるようになった」(P56)
感謝すべきことに母は私を健康体そのもので産んでくれた。今のところ見えない明日に怯えたことは無い。
祖父が癌を患った。末期だという。病院に入ったあとの祖父は以前を思わせぬほど痩せていた。
物心ついた私が初めて受け入れる身近な死になる。祖父が亡くなる前に、また、感性の豊かな今この本を読めてよかった。
作者は少女の口を通して、「生きるとは何か」を語る(P192.193にあたる)。祖父を重ねながら、彼女の(作者の)思う「生きる」を聞いて、ようやく私は怯え始めた。祖父の死を、私自身の明日の死を。
いつだって見えるはずなかった明日なのに、何をのんきに19年も上手く生きてこれたものだ。
特に若い人は、一度この本を読んでほしい。下手な啓蒙書なんかよりもよほど手軽に死について考えさせられる。そして、読み終わったら、すぐに誰かと会ってほしい。家族、友人、誰でもいい。人と会うことで生を感じられる日が来るとはと、きっと思うことだろう。