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セミファイナル

セミファイナル。本来は準決勝戦の事を指すが、夏場にはその言葉に別の意味が加わる。弱った蝉が仰向けに地面に落ち、自力で起き上がる事が叶わずに必死に藻掻く様だ。
他にも、セミ爆弾、セミ地雷など様々な表現があるが、個人的にはこのセミファイナルという言い回しが妙に好きだ。誰が言いだしたのか分からない言葉だが、素晴らしいと思う。
必死に生きようと足掻いている蝉には大変申し訳ないのだが、私はこのセミファイナルが本当に苦手である。昔住んでいたアパートに帰宅時、自室のドアの前にセミファイナルを起こしそうな蝉が転がっていた時には半ばパニックを起こして、泣いてにーさん(当時仕事で会社に泊まり込んでいた)に電話をかけたほどだ。

この苦手の原因を作ったのは、実は昔実家に通って来ていた猫、ハルである。
猫が屋外(ベランダ・庭を含む)と行き来出来る環境で生活しているご家庭ならお分かりかと思うが、蝉を捕まえてくる猫は往々にして存在する。完全に仕留めず、半死半生の状態で持ってくる場合も多い。
そして夏のある夕暮れ、ハルも蝉を手土産とばかりに口に加えて我が家にやってきたのだ。不幸中の幸い、蝉は自宅の外でリリースされたので、私は叫び声をあげながら自宅に逃げ込んだのだが、そこから数十分、蝉はドアの外で間欠的にセミファイナルを繰り広げ、私はその音に怯えて過ごした。ようやく音がしなくなった所で恐る恐る外に出てみると、どうやらセミファイナルを繰り広げる蝉でハルが遊んだからなのか、バラバラになった蝉がドアの前に散らばっていた。ハルによる強制セミファイナルと、その後のバラバラ事件のインパクトが合体し、私の中に強固なセミファイナル恐怖症として結実したのである。

そんな状態で毎年の夏を怯えながら暮らしたのだが、なぜか今のマンションに引っ越してきてからは、自宅の周辺でセミファイナルに遭遇することがなくなった。
蝉がいないわけではない、緑の多い環境故、蝉の声は煩いぐらいに聞こえてくる。迷い込んでくる蝉も一応はいるようで、管理人さんが出勤してくる前の時間の階段に、時折蝉の翅だけが1枚落ちていたりもする。このちょっとした不思議現象を、私は自らの経験と紐づけてこう命名した。

『にゃんにゃん巡回サービスさんのお仕事』

マンションに遊びに来る近所の猫たちが、セミファイナルを起こす蝉を遊びついでに排除してくれているのではないか、という仮説だ。それに基けば、階段に落ちている翅は、にゃんにゃん巡回サービスさんの業務報告書である。
もちろん馬鹿げた想像なのだが、そう思うとなかなか愉快な心持ちになるもので、翅を見つけた朝などには、昨日の担当はどの猫だったろうと近所の猫たちを頭の中に思い浮かべたりしたものだ。

だが、我がマンションに住むTNRさん(仮称)の活動が功を奏し、自宅の周りにいた野良猫たちが徐々に減ってきている。うちの猫を含め、人間に慣れた猫は無事に飼い猫として室内飼いとなり、避妊手術のおかげで新たな野良猫の発生も抑制されている。ごく稀に流れて来た野良猫の姿を見かけるが、マンション周辺を縄張りとするボス猫(これもTNRさんにきちんと管理されている)がだいぶ頑張っているので、すぐに追い出されてしまう。
それは大変に素晴らしい事なのだが、一方で、巡回サービス担当猫の頭数が確保できない事態が容易に想像できる。
仕方がない、猫が幸せであるのなら、セミファイナルの恐怖とも戦ってみせようではないか。
……そうは言っても、怖い物は怖いのだが。

余談だが、このボス猫の避妊手術のための捕獲現場となったのがマンションの入り口だったため、今でもマンションの入り口とキャリーを何より恐れている。なので、流れて来た野良猫がボス猫と喧嘩になっても、野良猫がマンションの中へ入ってしまうとこのボス猫の追及を逃れる事ができるのだ。まるで聖域や教会に逃げ込んだ罪人は捕まえる事ができないという古い法律のようだが、うちの猫はこの幸運を掴んだ今のところ唯一の猫である。

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