vsダイバダッタ

とてもつらいのに、「とてもつらい」としか表現できないのがつらい。

樹木希林さんの「ダイバダッタ」の考え方が好きだ。お釈迦様の弟子であるダイバダッタはことあるごとに師匠の命を狙う。お釈迦様は困りはしたが、いずれ、彼は自分に悟りを得るために難を与えてくれる存在だと悟る。

この話を知って以降、自分に難を振りかける人間をありがたがるようになった。ほとんどが無意識に繰り広げられる他人の言動や姿勢に、俺は勝手にダメージを受ける。勝手に卑下してしまう。けれども彼らはダイバダッタなんだと考えると、少しだけ、立ち向かう勇気と感謝が起きる。結局、ダメージは食らうんだけど。

過去(ものごころがある程度ついた大学生以降)、俺にとって強烈なダイバダッタだった人がいた。彼女は俺のことに何の意識もせず、毎日笑って生きていた。バイト先によく遅刻してくる人だった。彼女から発せられる言葉があまりに自分と違いすぎて、否が応でも2人の差異を認識する。情けない自分を直視しなくてはいけなかった。「人は鏡」というが、彼女を通して自分を見ると本当によく見える。よく見える気がしてるだけで、そのジャッジもつまるところ主観なんだろう。けれどそんなことに気づく暇がないくらい、鏡に映った俺の姿に参っていた。

さてそんな1人目のダイバダッタは俺よりも1年早く大学を卒業して公務員になった。あう機会も減って、自分の中での彼女の存在はコピーした処世スキルくらいしか残らなくなった(まともに残すには心が持たなかった)。自立へ進歩し、俺も落ち着いてきたかなと思った今日この頃、2人目のダイバダッタが現れたのである。

それで冒頭に戻る。つらい。今回は1人目と違い、圧倒的にデカい。そして近い。近視眼になってしまうほど。抱え込めない、勝てない、と肌で感じてしまう。そんなことをする必要はないのだろうが。ダイバダッタから放たれるナイフをどうしたらよいのか本当に分からなくなっている。分からなくって、今はひたすら落ち込んでいて、つらい。けど止まってたらいよいよ食われる。どうしよう。そんな現状でした。

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