たまごの黄身発射事件
人生には、事件がつきもの――。
先日、ライラン仲間である彩夏さんが、「うどん発射未遂」なる記事を発表されました。
(ライランとは、「66日ライティング×ランニング」。ヤスさん主催の66日間毎日投稿をする企画です。)
もうタイトルからして気になります。
いちゃいちゃする高校生カップルに、最高レベルのすすりを見せつけようと意気込んだ彩夏さん。でも、最初の一すすりで、天かすがのどにヒットするという痛恨のミス。でも、すんでのところでうどんの発射は食い止められました。
まるでジェットコースターのようなエピソードです。
この話を読んで、わたしは、過去に起こったある「事件」を思い出しました。彩夏さんのエピソードと同じく発射にまつわる出来事なのですが、決定的に違うのは、未遂では済まなかったことです。
◇
あれは、わたしが社会人になりたての頃でした。
大阪から東京に出てきて、住まいも人も環境も、すべてが新しい生活になりました。家族から離れて、自分で生計を立てるという新しい試み。そして、ただお金を稼ぐというそれまでのアルバイトとは違う、社会への貢献を意識した「仕事」という新しい概念。
そんな何もかもが新しいづくしの生活の中で、ボーイフレンドができました。当時のわたしなら、「人生ってなんて楽しいんだろう」という大胆なフレーズを、なんの疑いもなく言えたかもしれません。
ただ、わたしの職場は、恐ろしく人遣いが荒くて、それだけが一点の曇りでした。昼休みすら自由には外に出られなかったし、休日出勤も当たり前。丁稚奉公に近い小間使いぶりではありましたが、それでも、当時のわたしは、いっぱしの仕事をしているつもりになっていました。
仕事に忙殺されながらも、わたしはボーイフレンドとの北海道旅行を企画しました。土曜の朝一に札幌に飛んで、日曜の一番遅い便で東京に戻るという弾丸日程です。
当時、わたしたちはまだ付き合って数か月くらいだったでしょうか。数か月というと、まだお互いのことを知りながら、二人にとってのほどよい距離感を探りつつ、心地よい関係を構築していく段階です。
そんな大事な時期に、事件が起こりました。
札幌旅行2日目の朝。わたしたちは、ホテルの朝食会場で、朝ごはんを食べていました。ビュッフェスタイルの、第2ラウンドか第3ラウンド。わたしは、卵焼きを焼いてくれるコーナーに行き、半熟の目玉焼きを1つ頼み、野菜を少し添えて席に戻りました。
わたしは、目玉焼きを食べるとき、いつも黄身を白身から切り離して、スプーンに載せて一口で食べます。なぜかって?とろーりと流れ出す黄身を一滴も無駄にしたくないからです。それに、口の中を濃厚な黄色い味で満たすのは幸せの極みです。
あのとき、目の前にいる彼に向かって、わたしのこのどうでもいいこだわりについて、説明したような気がします。わたしは黄身の周りに沿って、スプーンで丁寧に縦の刻みを細かく入れ、白身から切り離しました。白身は後で食べよう。まずは黄身をやっつける。
わたしは、ぷるぷると柔らかく揺れる黄身を崩さないように、注意深くスプーンに乗せました。あの卵コーナーの人、わたしの心を見透かしたのか、半熟というより半々熟くらいに作ってくれたみたい。ありがたいわ。
そして、
ぱくり。
口の中に入れ、スプーンを抜きました。その瞬間に、目の前に座っている彼とばちっと目が合いました。
やばい
やばいの「い」のときにはもう遅かったと思います。わたしは、口の中で袋から出て自由になっていた黄色いとろみを、ぶはっと豪快に吹き出してしまいました。
とっさに運動神経を駆使して、発射角度を下向きに調整したおかげで、ボーイフレンドの顔に直撃するという最悪の事態は辛うじて免れました。不幸中の幸いです。わたしは、「不幸中の幸い」という言葉を、このときほど切実に理解したことはありません。
周囲のテーブルからは、冷ややかな視線を感じました。当然の反応です。若い女が、若い男の目の前で、黄色い液体を口から出したのですから。
あの瞬間、わたしの頭に浮かんだ言葉は、
終わった
でした。それ以上でもそれ以下でもない、そのままの意味です。この札幌旅行も、なにより、彼との関係そのものが「終わった」と覚悟しました。
わたしは、静かにテーブルの隅に置かれたナプキンに手を伸ばし、哀しみに満ちた後片付けに取りかかりました。わたしに続いて、彼も無言でナプキンに手を伸ばします。わたしには、発すべき言葉が見つかりませんでした。こんな状況で、なにを言えばいいのでしょう。
すると突然、テーブルの黄色い残骸を拭きとっていた彼が、クククと肩を揺らし始めました。わたしは我が目と耳を疑いました。
え、うそでしょ。笑ってくれるの?この状況を、こんなわたしを受け入れてくれるの?
わたしの心は、一瞬にしてお花畑に変わりました。わたしたちは、冷ややかな遠巻きの視線を跳ね返すように、わはははと笑いました。
ああ、良かった。彼が、こんな女の悲劇を笑いに変えてくれる人で良かった。わたしは、笑いながらも、ちょっぴり泣きそうでした。そして、心の中で声を限りに叫びました。
お母さん、わたし、彼氏の目の前で卵の黄身を吹き出しても、振られなかったよ!
なんのはなしですか。
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