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写楽 KADOKAWA文庫
渡邉晃著 写楽 japanology 角川文庫
自分を発見するのは、常に他人
考えてみれば当たり前なのだけれど、だって客観的に見ることは、困難だ、そう主観そのものは、客観視出来ない、客観視したと思った瞬間に主観になってしまう
主観客観そのものを深く深く考察されたのは、どうもお釈迦さまのようである、また、内観と云う自己修練法もこれに正面から取り組んでいる様だ
日本人が塵芥の様に取り扱い、棄てて来たものを海外の人が所謂「発見、発掘」しておどろいたところを私たちが観て驚いてしまう、何だ?何だ?って訳だ
そして、その驚きの内容そのもの、驚いている主体を観察するのでは無くて、盲従している白人の驚きを共有しようとしてしまう
そして、「白人が驚いていること」を二次的に驚いて見せて、白人そのものが何を発見したかには、全く興味を示さず、日本再発見として、驚いて見せて、日本人が日本に紹介する
桂離宮だって棄てられていたでは無いか
どんなに驚いて見せても、写楽を楽しむことは、その頃、みんなが夢中になった歌舞伎、評判の美人、相撲そのもの、そして辛い食べてゆくのが精一杯の日常があって、楽しみがある、その背景を味わってなんぼかなと思うがそんなことには、一瞥もくれない
結局、主観の中に閉じこもってしまう私たち
そう言えば、先日のイギリス人は、日本人が全く英語に関心を示さなくなってきている、昔に戻って来ているのでは無いかと私に聞いた
自分も主体そのものなので、船に乗ってる様なのでどこに向かってるのかは、サッパリ分からない、でも軌跡を見ると、華やかな大正が過ぎ、不況に喘いだ昭和に近づいているとの指摘は、あたっている様に思う
そう云うと彼は、沈黙した