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映画『日本暗殺秘録』での「暗殺禁止令」言及について
近代日本で起きた数々の暗殺事件をオムニバス形式で物語る映画がありました。やべーぞ! その映画『日本暗殺秘録』(1969年、東映)で引用されていた「暗殺禁止令」なる謎の法令について少し調べて書きました。
『日本暗殺秘録』とは
数々の近代日本の暗殺事件のうち、『日本暗殺秘録』で取り上げられたのは「桜田門外の変」「紀尾井坂の変」「大隈重信暗殺未遂事件」「星亨暗殺事件」「安田善次郎暗殺事件」「ギロチン社事件」「血盟団事件」「相沢事件」「二・二六事件」の9つです(ギロチン社事件は暗殺実行までいっていないため、本作の中で特異な位置を占めています)。
これらのうちメインを張るのが血盟団事件で、上映時間140分中実に100分程度を占めています。残り8つのうちギロチン社事件と二・二六事件が若干長めで、残りはそれぞれ2,3分程度。オールスターキャストがぞくぞく出て、さくさく暗殺したり自刃したりするという、テンポと熱量の使い方が明らかにおかしい作品が『日本暗殺秘録』なのです。
ちなみに監督の中島貞夫と共同脚本を務めたのが笠原和夫ですが、彼は4年後に『仁義なき戦い』を物し、いわゆる実録やくざ映画の幕を開くことになります。『日本暗殺秘録』は、かのジャンルの助走段階として記憶されるべき映画といえましょう。
「暗殺禁止令」について
導入である桜田門外の変パート。吹雪のなか立っている有村次左衛門(演:若山富三郎)が、井伊直弼の乗った駕籠を止める同志たちの声を聞くや形相を変え、刀を振り上げ駆け出していく――。静と動のコントラスト、そして止め絵に被さるタイトルが印象的です。そして、井伊直弼を仕留めたのち自刃に及ぶ有村次左衛門を背景に、芥川比呂志によるナレーションが入ってきます。
明治維新を挟んで十数年間、日本全国に起こった暗殺事件は史実に明らかなものだけでも約七十五件、百余名が非業の末路を遂げている。そのあまりの残酷さに明治新政府は暗殺禁止令を布告し、また、若き日の明治天皇も激怒のあまり前代未聞の詔勅を下している。
それでも、暗殺はなくならなかった。なぜか。
「暗殺禁止令とは……? 明治天皇怒りの詔勅とは……?」と疑問に思ったこともあり、日本法令索引や国立公文書館デジタルアーカイブでちょいと検索してみました。同種の疑問を抱く人々が今後出ないとも限らないので、その結果を以下にまとめておきます。
「暗殺禁止令」とは、明治元年(慶応4年)1月23日に布告された「暗殺ヲ為スヲ厳禁ス」の通称とされています(一部に同年3月1日の「諸藩ヲシテ暗殺ノ賊徒ヲ提警セシム」の通称とする資料もあり)。
ちなみにこの法令は、国立国会図書館の「日本法令索引〔明治前期編〕分類表」のなかで、「具体的に処罰規定がない禁令に属するようなもの」の代表例として挙げられています(GE01 刑法典関係法規より。上述の法令名はこの日本法令索引から)。
候文読むのは久しぶりなので誤りもあると思いますが、大体下記で意味はあっているはず。
近来所々において暗殺致し候内には、罪状あいしたため死骸に添うるこれあり候も少なからず。いずれも陰悪陰謀等を憤り候ての所業にこれあるべし。ぜんたい不埒の者どもは、とくと吟味の上刑典をもって厳重のご裁許仰せ付けらるることにつき、大政御一新の折柄なおさら御為筋を心掛け、公然と申し出づるべくのところ、その儀これなくわたくしに殺害いたし候は、朝廷をはばからぬ致し方につき、右等の者これあるにおいては吟味の上屹度厳刑に処せらるべく候あいだ、心得違いこれなきよう致すべきこと。
(最近いろいろなところで起きている暗殺事件の中には、罪状を書いて死体に添えているものも多い。どれも悪業や陰謀を憤ってのことであろう。もともと悪人はきちんと調査したうえで法律をもとに裁かれるものであるし、政治が変わったのだからなおのこと道理を守り、公に訴えなければいけないというのに、それをせず自分で殺害するのは、朝廷をおそれないやりかたである。よって、そういったことを行う者は調査したうえで間違いなく厳刑に処せられるので、間違った考えを抱かないようにすること。)
確かに処罰規定がないし、現代で「こういう法律を作りました!」って言われたら関係各所に怒られるやつですね。それにしても「暗殺禁止令」、「敵討禁止令(それまで敵討は認められていた)」や「帯刀禁止令(それまで帯刀は認められていた)」などと並べると、それまで暗殺が認められていたように思えてくるから不思議なことであります。
「明治天皇の詔勅」について
この暗殺禁止令にもかかわらず、暗殺は依然としてなくなりませんでした。その後も横井小楠や大村益次郎といった要人の暗殺が相次ぎ、明治4年1月9日に長州出身の広沢真臣が暗殺されると、同年2月25日に詔勅「詔シテ広沢参議暗殺ノ賊ヲ天下ニ索ム」が出されます。これが、『日本暗殺秘録』冒頭のナレーションで引用された「若き日の明治天皇が激怒のあまり下した前代未聞の詔勅」です。
故参議広沢真臣の害に遭うや、朕すでに大臣を保庇するを能わず。またその賊を逃逸す。そもそも維新より以来、大臣の害に罹るもの三人に及べり。これ朕が不逮にして朝憲の立たず、綱紀の粛ならざるの致すところ、朕甚だこれをうらむ。それ天下に令し厳に捜索せしめ賊を必獲せよ。
(参議の広沢真臣が暗殺され、朕は政府重鎮を守ることができなかった。また下手人も逃してしまった。そもそも明治維新から、暗殺された政府重鎮は3人に及んでいる。これは朕の不行き届きであって、国のおきてや規律が守られていないことを、朕は非常に残念に思っている。国中に命令し厳しく捜査させ、下手人を必ず捕らえるように。)
「大臣の害に罹るもの三人に及べり」とは、広沢真臣に前述の横井小楠、大村益次郎を加えた三人のことと思われます(現代とは「大臣」の定義が異なる)。この異例の詔勅にもかかわらず、広沢暗殺の下手人は見つからず、真相は闇と消えました。
『日本暗殺秘録』冒頭のナレーションを聞く限りでは、「暗殺禁止令」と「明治天皇の詔勅」の間にはそれほど間がないように思えます。しかし、実態は約3年の間隔があったこと、また「明治天皇の詔勅」は単独の事件をもとに出されたものだったことは、ナレーションからでは伺えない事実です。『日本暗殺秘録』では、こういった歴史上の事実がうまく操られ、まとめ上げられていたのでした。
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