遅いインターネットは最大瞬間風速である。
遅いインターネットって何だろう。概念だろうか。
ふとそんな疑問をもたらせてくれたのは最近何かと目にする「アレ」である。
とはいえ、齢21程度の若造に何か真理を貫く眼を、そして芽を持ち合わせている訳でもなく。著書を手に取ったことも無ければ、調べたこともない。
最近はnoteを始めたようで、そこから何となく読み取って「こんな事が言いたいのかな」というのを得たばかりだ。
なので、批判もしないし有益かどうかも論議はしない。
知らないし、僕は彼らではないからきっと本質の何パーセントも理解なんて出来ないだろう。
でもこう思う。
「ネットサーフィンの復権」
だったかな。
流行りに流されていくネットという広大な01で構成された深く広い海の中で、結局サーフィンだけなのだねと少々残念にすら思う。
こんなに深いのに。表を撫でるだけなのだね。と。
きっと言葉の綾でサーフィンを使ったのだよ。深読みだよと言うかもしれないが。
もし本質が新しい波が海を覆ってしまっている事に悲しみを持つ人間であればきっとサーフィンなんて口が裂けても言えないだろう。
じゃあきっとネットサーフィンという言葉には深い意味があるんじゃないのだろうか。
これは本質の問題かもしれない。
ここで例えるならばだけれど、野球選手になりたい理由が多様極まるこの世と同じ理屈だ。
ゴールは違えど。目的地は同じなのである。
お金が欲しい人間もいれば
名誉が欲しい人間がいれば
将来が欲しい人間がいれば
自分が欲しい人間がいれば
愛する人を守りたい人もいれば
自分の才能を生かしたくもなれば
実は何も考えてなかったりもすれば
きっと野球選手になる人だっているだろう。
だから僕は今日における遅いインターネットという本を買ってみても良いのかもしれない。
ずっと見てじーっと見て。彼が何に関心があってそんなことを思いついたのかを見てみても良いかもしれない。
願わくばそれらを読んで、会いたくなりたいとも思う。
人に会うためには関心が必要で。
きっと彼には僕に対する関心なんかないけれども、一点が次の一点に勝手に線を引いてもきっと線になりえるはずだから。
僕はインターネットはそう言うものだと思っている。
何にせよ遅いインターネットが広まればそれは最大瞬間風速と言えるだろう。
果たしてその時に沈む情報は無価値なのだろうか。
きっと等価値なのだろうねと僕は思う。