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セルフ・ロックダウン〜ロードバイク転倒小話【第3話】

2020年某月某日
「緊急事態宣言」の下で、私はロードバイク転倒による肋骨骨折とともに、
予期せぬ“セルフ・ロックダウンライフ”の幕が上がった。
初体験の肋骨骨折は、これほどまでに自由を失うとは予想だにしなかった。

思えば、何故にロードバイクを欲したのだろう?

私は、自動車免許を有していない。
それは自らの意思として有しておらず、欲したこともなかった。
その性分のせいなのか、物欲に関して言えば、他者と比較するかぎりではすこぶる少ないのかもしれない。
学生の頃、当時の自動車免許は30万円程で取得できたらしい記憶が残る。
あえて「らしい」と記したのは、本来的に興味がなかったからである。
就職活動や旅行、恋愛の範囲において、自動車免許や自動車保有は必須アイテムであるらしく、
確かにステイタスシンボルであるが、私にはその価値観は当時から微塵も有していなかった。
その取得費用があるならば、文学全集を欲して止まなかった。
神田神保町へ出向いては、三島由紀夫全集で当時で36万円、トーマス・マン全集で28万円であることを記憶しているが、自動車免許に費やすならば、文学や哲学・思想の文庫本や新書などの書籍を買い漁るほうが有意義であると考えていたからだ。

一方で、自転車はほぼ常に私ともにあったが、
それは、俗に言われるママチャリ、あるいは折り畳み自転車レベルで、
近場の移動手段という価値に過ぎなかった。
しかも、今住んでいる街は、銀世界に覆われる長い冬の到来とともに、自転車はおろか外を歩くことすら躊躇してしまうほどだ。
つまり、1年の半分程度、しかも仕事の都合上、週末しか自転車に乗ることなどできないのだ。
果たして、自転車を購入する必要があるのかどうか?
モノを増やすことを良しとしない以上、自転車を買うこと自体大いに悩んだ。
移動手段のひとつとして、ランニングほど原始的なものはないのだが、
数年前から継続していたランニングによる度重なる怪我との葛藤にも苛まれた。
頑張ったところで最高到達距離は20kmがせいぜいで、しかも度重なる怪我との葛藤にも苛まれた。
自転車なら20kmなど容易い。
おそらくまだ見ぬ風景が待っているに違いなかった。
その反面、メンテナンス等のコストも未知数だ。
自宅に物を置きたくない葛藤、私の中のミニマリズムが揺さぶられるのが最大の試練であった。

今住んでいる自宅から歩いて5分もしない場所には、有名なサイクルショップがある。
窓辺にはいつも最新のロードバイクは誇り高く飾られていて、幾度となく足を止めては釘付けになるとともに、その桁違いの価格に戸惑う日々が続いた。

ある休日の午後、何気な顔つきながら勇気を振り絞って有名なサイクルショップに入ってみた。
そこには、とてつもなく最新のロードバイクやクロスバイクが並んでいて、素人である私を圧倒した。
サイクルショップのスタッフも私をロードバイクの素人だと嗅いだのか、店内をぶらつく私の存在すらも意に介さなかった。
人間とは不思議なもので、初恋の相手への片想いなのに、
その相手から一方的に冷淡にされた途端に興味を失ってしまうのだ。
ロードバイク自体から冷淡にされたわけではないのに…

だがそのロードバイクは、突如として私の前に現れた。
2020年1月、友人の誘いで自転車ショップを何気に覗くことなったのが、
ある種購入の大きな発端となった。
しかも、一目惚れのようにその場で衝動買いをしてしまったのだ。
その名は「JAMIS」(ジェイミス)。
マウンテンバイクに強いアメリカのブランドである。
そのブランドが繰り出した2019年モデルのグラベルロードタイプだ。
イタリアブランドのような颯爽とした優雅さや華美の微塵もない、地味で無骨な印象である。
本格的なロードライダーなら敬遠するタイプを、私は否応もなく欲したのだ。
自転車ショップの対応も柔らかくて親切で、吸い込まれるような感覚で購入へと突き進んだ。
最低限の必要なものを取り揃えもらうと、電卓を叩く音に少しずつ現実が目覚めてゆく。
2019年の旧モデルに配慮して値引きすることを告げられて安堵しながら、会計金額を待ち侘びた。
すると、10万円程ですべてを取り揃えることができた。
本格的なロードバイクからすればその格安から、ロードバイクに値しないという者もいるであろう。
けれど、ミニマリストにとっては自己矛盾の葛藤に陥る決断なのだ。
会計を済ませ、備品やメンテナンスのチェックをするため、納車は2020年1月某日と告げられた。

物が少ないにもかかわらず、部屋のどこに置くべきかに悩んだ末に、納車の日が訪れた。
振り返ってみると、この雪深い北国において、1月某日に納車されたされたところで乗車は不可能であった。
それが透けて見えたのか、自転車ショップの店長から「雪解けを待って納車しましょうか?」と問われた。
私は、あえてそれを拒絶したのである。
物がほとんどない部屋にいち早く招き入れよう。
そう思った。
納車とともに、ロードバイクは雪解けまでの間、数少ないインテリアのひとつとなった。
思った以上に大きいと感じたのに、毎日何気に見ているうちに部屋に馴染み、
当たり前のような存在となっていった。
時折、サドルに跨いだり、ブレーキを握ったり、といった直接接触のコミュニケーションすら生まれていった。

2020年の雪解けは思ったよりも早かった。
初乗りの幾ばくかの恐怖と興奮、
目的地も決めないままに走る感動と不安は、いまだに忘れはしない。
その時、私は『自由意思移動手段』を獲得した実感を得たのだ。

風はまだまだ春の陽気とは言えないほど身を切り裂いた。
手先と足先の感覚は麻痺し、鼻からは夥しい液体が溢れ伸びる。
それでも休日のひとときを、東西南北、縦横無尽にライドした。
10km、20km、50kmと未知なるエリアに向かって伸びて行った。
そうして、某月某日。
余儀ない転倒、そして“セルフ・ロックダウン”が始まったのだ…

“セルフ・ロックダウン”
それは自ら行動を制限することを意味する、いわば自己強制的行動制限と言えよう。
横たわる時や起き上がる時の激痛は、人生の中においても苦痛の極みに近く、
おまけにベッドもないために、横たわるためだけに10分以上も苦痛の極みと格闘しなればならなかった。
料理をしないがために、徒歩2分のコンビニまで5分以上を費やし、
片手で食べられるものを老人の動作のようにゆっくりと物色する。
左側の肋骨骨折ゆえに左手の自由さえも奪われつつも、お湯を沸かしカップラーメンにお湯を注ぐ。
テーブルを持っていないがゆえに、肋骨の痛みが響く左手でカップを支え麺を吸い上げるだけでも脇腹から激痛が全身に襲いかかる。
スープを飲むために顎を上に突き上げることすらできない日々が続いた。
その間の私の心理状態は、自己否定との戦いでもあった。
その戦いの相手は、ミニマリズムと行動の自由の剥奪であった。
物が少ないことに相性の良さと自由を感じていたのに、
ロードバイクという物が、私のミニマリズムと自由を奪うとは、我ながら衝撃であった。

奇しくも、世界は新型コロナウイルスで行動や移動の制限を余儀なくされた。
その禍中、日本では緊急事態宣言が発出され、
欧米では、都市封鎖=“ロックダウン”が実施された。

“ロックダウン”
それは、制約と分断という近代民主主義に対する侮辱であり、
「自由」と「個人」の絶対的な本質が相対化される監視主義との対峙でもある。
監視主義国家にとっては、新しい持続可能な呪縛システムの稼働であり、
デジタル文化大革命の披露の機会として利用するであろう。
一方、いち早くファシズムと戦い、自由と民主を勝ち取った西欧国家にすれば、
ロックダウンの意味は深く複雑だ。

それは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相の演説が物語る。
私自身、ドイツ政治には精通してはいないが、
メルケル首相は、東ドイツ出身で理系の学問を専攻していたせいもあるのか、
政治家らしいパフォーマンスしない政治家に映っていた。
演説らしい演説も年に1度ぐらいしかなく、
隣国の首相とは異なり、どこかドイツらしい寡黙で質実剛健の象徴のような印象を受ける。
そんな彼女が2020年3月18日、
東ドイツで受けた共産主義国家による発言や行動制限という体験を基に、
驚くべき説得力を持ってロックダウンの理解を求めた。

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「......こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。」(REUTERS/Fabrizio Bensch)

日本の一国民として、また“セルフ・ロックダウン”中の私にとって、
メルケル首相の演説は、どこか胸を打った。
胸を打ったからと言って肋骨に痛みが走ることはなかったのだが。

私は、日本の安倍晋三首相の言葉の軽さ、無力さ、政策の無能さに辟易とする一方、
メルケル首相の言葉をスマートフォンのメモアプリに忍ばせ、
ことあるごとに耐える決意をした。
特別定額給付金10万円という無作為な恩恵には甘んじたもの、
その背後に最大手の広告会社がいることにある種の作為がよぎった。
それは【電通戦略十訓】というものである。

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1. もっと使わせろ
2. 捨てさせろ
3. 無駄遣いさせろ
4. 季節を忘れさせろ
5. 贈り物をさせろ
6. 組み合わせで買わせろ
7. きっかけを投じろ
8. 流行にさせろ
9. 気安く買わせろ
10. 混乱をつくり出せ

それは社訓である【鬼十則】とは異なる、マーケティング・アクションプランと言えようか。
私がミニマリズムに傾倒するようになってから、
日本の高齢化による資本主義の衰退を感じ取り、
いわゆるマーケティングにも嫌気を感じていた。
ロードバイクにも、物心両面から購入の是非を苦慮したのも当然である。

【電通戦略十訓】にある通り、物欲の本質は無駄使いさせることにある、とまで資本主義は欲求の反転を導いてしまったのではないのだろうか?
ひとときの繁栄は、それでも居心地がよかったが、
近頃の日本はそういう地点にすでにいないような気がしてならない。
この国は、資本主義の成熟に気がついていないのだろうか?
まだ「無駄を買え」と叫ばれ続けて麻痺でもしてしまっているのだろうか?
資本主義の成熟の末の姿は、決して共産主義への回帰ではない。
その手本なり実験の断崖に、日本は立たされているはずではないのか?

他方、私の2本の肋骨は分断したままで、
私のミニマリズムが【電通戦略十訓】の背後で揺らいでいた。
思えば、肋骨骨折前までは、フローリングを雑巾掛けして磨くことが、どこか前近代的で無駄を排する禅的な体現であることに小さな愉悦を見出していた。
それがこの怪我によって、掃除機に依存せざるを得ないという事象、私の根源であるミニマリズムへの脅威を生むとは思ってもいなかった。

ともあれ、肋骨の痛みは軽減していったことは事実である。
それは、日々食するカップラーメンをすすり上げることで少しずつながら確実に弛緩していることに気付かされた。
でも、いつになれば前屈みになって、重心を両手の前方へ送り出し、フローリングを雑巾掛けできる日が来るのだろうか?
そして、再びサドルに跨り、まだ見ぬ風景に出会うことができるのだろうか?
私は、スマートフォンの中のメルケル首相の言葉を、幾度となく無言のうちに噛み締めた。

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