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【心を照らすレンズの地平】我が映画偏愛記「イル・ポスティーノ」
監督:マイケル・ラドフォード
出演:マッシモ・トロイージ、フィリップ・ノワレ、マリア・グラツィア・クチノッタ
製作国:イタリア、フランス、ベルギー
公開日:1994年
人生を変え、運命を翻弄する言葉、そして詩とは?
[あらすじ]
イタリアの小さな島、その日焼けした石畳と、潮風が運ぶ柑橘の香り。そこへ亡命詩人パブロ・ネルーダが流れついたのは、時代の激動の波に押し出された結果にすぎなかった。
しかし、彼の到来は、島の人々の眠れる魂に静かな震えを与えた。
郵便配達人マリオは、何の変哲もない、鈍重な日常を送る男であった。
島の青い海と同じように彼の心は広がりを持たず、ただ漁師の息子として生まれ、波の如く漂うだけの人生が待っているはずだった。
しかし、ネルーダの詩が彼に触れたとき、彼の内なる大地に鋭利な鋤が入れられたかのように、彼の精神にひそむ眠りが破られた。
詩とは何か。
言葉はただの記号ではなく、それは魂を刺し貫く矢であり、時として恋を、時として革命を呼び起こす魔術であることを、マリオは肌で悟ったのである。
マリオは、村の娘ベアトリーチェに恋をする。
彼女の黒髪は海の闇のごとく深く、その瞳には南国の夜空のような惑いがあった。
しかし、粗野な言葉で彼女を口説くことはできないと、マリオは本能的に知っていた。
彼はネルーダの詩を借り、比喩を用い、言葉の妙味を心得ながら、彼女の心へと忍び寄る。
詩は、単なる言葉遊びではなく、人間の存在の根幹を揺るがすものであり、それが恋においても戦においても等しく威力を発揮することを、マリオは実感するのである。
やがて、ネルーダは島を去り、マリオは詩人の不在のなかで、己の言葉を磨き続ける。
詩とは、ただ愛を囁くものではなく、時に剣となり、盾となり、社会の欺瞞を打ち砕く武器となるものであった。
ネルーダが教えたものは、美と革命が分かちがたく結ばれた世界観であり、それを知ったマリオは、やがて労働者の集会へと身を投じる。
しかし、美に憧れ、詩を知ったがゆえに、彼はまた、政治という泥沼の中に足を取られ、その生命を奪われる。
[哲学的考察]
この映画の持つ哲学的含意は多層にわたるが、とりわけ以下の三つの主題が浮かび上がる。
■言葉と存在
詩とは単なる技巧ではなく、存在の核心を成すものである。
マリオはネルーダの詩を学ぶうちに、言葉が単なる響きや装飾ではなく、人間の魂そのものを形作る力を持つことを悟る。
詩を通じて彼は自己を知り、愛する人に言葉を捧げ、さらには自らを取り巻く世界を初めて認識するに至る。
ハイデガーが「言葉は存在の家である」と説いたように、人は言葉を通じて初めて世界を把握し、その内奥に新たな現実を創出するのである。
■美と社会の対立
ネルーダの詩が孕むものは、単なる情緒的抒情ではなく、社会への鋭い問いかけである。
愛と自然の美しさに陶酔することと、社会の不条理に目を向けることは、決して相反する行為ではない。
マリオは当初、詩を甘美な誘惑の手段として用いるにすぎなかった。
だが、詩の真髄を知るにつれ、それが人間の意識を覚醒させ、世界を変革し得る力を秘めていることを理解する。
詩が芸術にとどまらず、政治の場へと接続されるとき、それは剣よりも鋭く社会を切り裂く刃となる。
マリオが詩をもって己の生を賭し、ついには運命の鉄槌を受けるに至る構図は、美の陶酔が社会の現実と衝突したときに生じる必然の悲劇である。
■存在の儚さと詩の永遠性
マリオの死は、ひとつの生命がいかに脆く、無常であるかを示す。
しかし、彼が残した詩は、時の流れの中にあってなお生き続ける。
これは、プラトンの「イデア論」にも通じる概念であり、すべての現象が消え去ろうとも、その本質は不滅であるという思想に他ならない。
詩人は肉体を滅ぼされても、その言葉が滅ぶことはない。
ネルーダの詩とともに生きたマリオは、現実の世界からは消え去ろうとも、その精神は詩の中に脈打ち続けるのである。
シェリーが「詩人は死すれど詩は生き続ける」と謳ったように、詩とは時を超えて人間の魂を証するものなのだ。
『イル・ポスティーノ』は、詩が単なる言葉の飾りではなく、人間の存在そのものを変革し、さらには世界に対して鋭く介入し得る力を持つことを示している。
美と政治の葛藤、言葉の創造的力、そして人生の儚さと永遠性。
そのすべてが、この映画の中に厳かに織り込まれている。