【人生最期の食事を求めて】名古屋コーチン親子丼という名の魔力。
2024年1月3日(水)
鳥開総本家名駅エスカ店(愛知県名古屋市中村区)
名古屋の昼食はこの日で最後になる。
“脱予定調和”の人生を選択したにしても、この正月を振り返ると“脱予定調和”の出来事ばかりのような気がしてならない。
1月1日(月)の大地震と津波によるセントレアへの緊急着陸。
その夜の居酒屋での注文の不手際の連続。
1月2日(火)の飛行機の衝突と乗客脱出。
そして、名古屋の当て所ない放浪。
そして、1月3日(水)。
この日ばかりの昼食は確実な店に狙いを定めよう。
赤福茶屋で少しばかり休憩を入れた後、名古屋の昼食にめぼしい店に当たりをつけるべく、私は百貨店に連ねる店を見回ることにした。
11時を少し過ぎたばかりだというのに、どの店も入口の横に配置された待ち客用の椅子は埋め尽くされていた。
当然のように私の落胆は底知れなかった。
想定外の名古屋での滞在で、この街ならではの食事といえば、きしめんと赤福餅ぐらいなのだから。
それでも私は自分自身を懸命に鼓舞することに努めながら、混雑極まるエレベーターを避けエスカレターまで地上へと向かった。
漣のように折り重なっては押し寄せる人々の擦過を掻き分けて、昨日と同じ場所を目指した。
それはエスカ街だった。
ここまできたら持久戦も覚悟したものの、どの店に照準を合わせるかによっては覚悟も揺らぐはずだった。
其処此処の店の前で静かに隊列が組まれ伸びていくさまは、私に新たな焦燥感を植えつるものの、それに抵抗するように徘徊した。
エスカ街の最も奥の店にある店の白い暖簾に目が止まった。
名古屋コーチンという緋色の文字が私の食欲を挑発しているかのようだ。
横の通路に7人が入店を待っていた。
この人数なら大丈夫、と私は少しばかりの安堵感に胸をなでおろした。
アルバイトらしい若い女性スタッフがメニュー表を持って現れた。
「席にメニューを決めておいてください。後で伺います」
それは、長い時間を待つことなく入店できることに決定づけたようなものだ。
待ち客は滑らかに店内に吸い込まれてゆく。
「ご注文はお決まりですか?」
再びアルバイトらしい若い女性スタッフが現れて尋ねてきた。
「名古屋コーチン親子丼でお願いします」と私は間髪入れずに応じた。
「まもなくご案内できますので」
ふと私は考えた。
名古屋コーチンは遠い昔にも食する機会はあった。
けれど、そもそも名古屋コーチンとはなんだろう?
名古屋コ-チンとは、明治時代に在来の地鶏と中国から輸入された「バフコ-チン」を交配して作られたものだという。
多産される卵と肉の旨味の評判が広がっていき、戦後にはそのブランドが確立していった。
豊富な運動量によって培われた赤味のある締まった肉と濃厚な黄身は、言うまでもなく名古屋飯の卵料理においては不可欠な存在にもなっているほどだ。
そもそも親子丼は、1761年に東京人形町の「玉ひで」で誕生したと言われている。
その後、親子丼は各地域に広がって大衆食文化の市民権を得た。
さらに、秋田比内地鶏、名古屋コーチン、鹿児島薩摩地鶏という日本三大地鶏を使用したことで大いなる進化を遂げたと言える。
私個人、まだ鹿児島薩摩地鶏を食しておらず、親子丼を語るには浅薄な体験ゆえに、味の比較を評するのは避けよう。
隣の席の男性客は、すでに食事を終えているようだ。
しかし、食べ終わってもなお悠長にスマートフォンで漫画を読んでいた。
店の前では行列が絶えるどころか、まだ伸びている……。
ほどなく「名古屋コーチン親子丼」(1,680円)が運ばれてきた。
丼の蓋を開けるや否や、黄色というよりはむしろ赤みがかった黄土色の黄身を中心に、まるで黃葉に覆われた丘のような親子丼の雄姿を見下ろす。
まずは黄身を突いた。
すると、なだらかな曲線に沿って緩やかに濃厚な黄身が崩れ落ちてゆく。
丘を切り崩すように丼の縁から攻略を始めた。
卵の風味と肉の食べ応えのある食感が押し寄せる。
が、胸に迫りくるような濃厚さはなく、至ってバランスのよい味わいがご飯を催促する。
一気に掻き込みたくなる衝動を抑制するために、鶏だしのスープと柴漬けに助けを求めた。
それでもなお名古屋コーチンの魔力は凄まじい。
それは、ゆっくりと噛み締めて味わい尽くしたいという欲求を転覆する魔力と言っても過言ではない。
気がつけば、スマートフォンで漫画を読んでいた男性客はいなくなっていた。
そんなことよりも、残り少なくなった親子丼への欲求の高まりは頂点に達していた。
丼を持ち、残りを余すことなく受け入れた。
量的には物足りない。
とはいえ、名古屋コーチン親子丼を味わえたことは目映い。
すぐさま家計をするべくレジに向かうと、入店を待ち侘びる客の列がまだまだ延びていた。
量的に満足のいかない私の想いは、夜の店へとすでに飛翔していた……