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【孤読、すなわち孤高の読書】“三島由紀夫自決”における独私論



『金閣寺』(1956年)

『金閣寺』への違和感

1970年11月25日、三島由紀夫が自決した日である。
その日を私は知らない。
当時幼かった私は、この衝撃的な事件を知るすべもなく、三島の名に触れるのはずっと後年のことであった。

2024年11月、私は京都の金閣寺、そして奈良の圓照寺を巡った。
その旅路は、私の内に巣くう三島由紀夫という名の妄執、あるいは日本文学の鬼才にして狂気の人への探求の旅であった。
そしてまた、あのような死を選び取った謎ーーそれが果たして崇高さの証明であったのか、あるいは破滅への逃避であったのか――その一端を私自身の中で解きほぐそうとする試みでもあった。
無論、その旅が答えをもたらすはずもなかった。
だが、私は確かに、三島由紀夫という存在、そして54年前に刻まれたあの衝撃的な事件を、己が記憶の中に甦らせ、改めて振り返る契機を得たのである。
それは答えというよりも、むしろ問いの輪郭を際立たせる営為であり、私の中に微かな灯をともすものだった。

世間では“ハラキリ作家”と揶揄され、その死を語ることはどこかしらタブーめいていたように記憶する。
しかし、彼の作品は黙殺されることなく静かに、しかし確実に読み継がれていた。
書店に足を運べば、夏休みや冬休みの読書推薦図書の棚には、ほぼ例外なく三島の作品が並んでいた。
そうした流れの中で、私もまた自然と手に取ったのが『金閣寺』であった。
金閣寺放火という実際の事件を題材に、主人公溝口の“一人称”という独白が、流麗かつ重層的な哲学的思弁を紡ぎながら進行していくその物語に、私は最初の一歩から大いなる戸惑いを覚えた。
“私”という語り手が、これほどまでに流麗に己を語り得るという設定に、どこか異様なものを感じたのである。
さらに、10代半ばの私の日本語力では、この小説に散りばめられた仏教、ことに禅宗の教義にまつわる深遠な解説の理解はおろか、複雑怪奇な漢字の意味を解きほぐすことすら難しく、終始、物語に押し流されるばかりであった。
そして、愛憎相半ばする金閣に火を放った後のあの結末に至る。

“一ト仕事を終えて一服している人がよくするように、生きようと私は思った。”

この一文は私に決定的な疑問をもたらした。
この主人公は、何ゆえに生を選ぶのか?
金閣を焼き尽くしたその後の生とは、一体いかなる価値を持つのか?
しかしその問いに答えを得られぬまま、私は思考を止め、この作品に対する明確な見解を述べることを諦めた。
“ハラキリ作家”という世間の偏見、そして『金閣寺』読後の不可解さが、私を三島由紀夫という存在から遠ざけた。
否、私はむしろ自ら距離を取ろうとしたのかもしれない。
彼の文体に、思想に、そしてその死に。

『仮面の告白』が呼び覚ます『金閣寺』の違和感の正体

当時、私には貴重な文学好きの友人がおり、あれやこれやと好きな作品や気になる作家について主張し合っているうちに、三島由紀夫の話題になった。
私は、もちろん『金閣寺』の違和感を言い放った。
すると彼は、『仮面の告白』を強く薦めてきた。

『仮面の告白』(1949年)

気乗りしないままに、私はその足で書店に向かい新潮文庫版を購入した。
そしてその夜、『仮面の告白』に一気に惹き込まれて読み耽ったのだ。
さらに私は『金閣寺』の再読を自らに課した。
それというのも、初めて『金閣寺』を読んだ時の読後の違和感の正体が『仮面の告白』によって明白になろうとしていたからである。
溝口という青年が、「金閣」という一つの存在に執着し、その美に囚われ、ついには破壊へと至るその心の軌跡。
美を愛することは誰しも理解できる。
しかし、なぜそれを破壊することでしか自らの存在を肯定できないのか。
その論理が私には不気味で得体の知れないものに思えた。
三島の文章は、この違和感をさらに際立たせるものであった。
冷徹なほど緻密でありながら、同時に感情を突き放すような美しさを湛えている。
金閣が炎に包まれる終幕は壮絶であった。
それは確かに美の極致とも言える描写であったが、そこに至るまでの溝口の孤独と狂気を思うとき、私の心には虚しさだけが残った。

『仮面の告白』へは全く異なる衝撃を受けることになる。
この作品の持つ力は、前作とはまるで逆であった。
そこには美を巡る観念的な問いではなく、主人公の内面そのものを抉り出すような赤裸々で切迫した視線があった。
彼が「仮面」をかぶり、他者の視線に身を晒しながらも、その奥底に秘められた自らの欲望や孤独に苦しむ姿は、読者たる私にとっても避けがたい対峙を強いるものだった。
主人公が自らの異常性を認識しつつ、それを受け入れることも否定することもできずに、ただ「仮面」をかぶり続ける。
その姿には悲壮感が漂い、同時にどこか人間の普遍的な姿が浮かび上がる。
私たちが日々かぶる仮面、それをかぶらざるを得ないがゆえに、内側で押しつぶされるような感覚。
その切実さが冷徹な三島の文体によって一層鮮明に描かれていた。
『金閣寺』が「美とは何か」という問いを私に投げかけたとすれば、『仮面の告白』は「人間とは何か」という問いに迫る刃のようであった。
前者が理解を拒む美の絶対性を示したのに対し、後者は私の中に眠る理解したくない自己を容赦なく映し出したのだ。
その読書体験は二重の衝撃を私にもたらした。
三島由紀夫という作家の多面的な魅力が、この二作において見事に結晶していたと言わざるを得ない。

自決の謎

最大の謎はあの自決である。
彼は何故あのような形の死を選んだのか?

それは『仮面の告白』の冒頭にあると、私は思った。
主人公は「生まれる瞬間を見た」と語る。
これは通常では考えられない記憶であり、その不可能性がかえって三島由紀夫の文学における根本的なテーマを示唆している。
すなわち、彼の「見る」という行為が自己の存在意識の中で中心的な役割を果たしているということだ。
自己を外側から観察し、記録すること——その行為こそが三島にとって、自身の存在を確認し、美を確立するために欠かせないものなのである。
そして、その延長に彼が死を選び、その死を「見ること」を試みた行為があると言える。
『仮面の告白』で主人公が自己の「仮面」を剥ぎ取ろうとするのと同様に、三島自身も死を通じて、最も深い自己の真実を証明しようとした。
死の瞬間に至るまで、彼は自らを「見る」ことに執着していた。
それは、自己の解放を死という究極の手段で試みることによってのみ、完全な自己の認識が可能だと信じていたからだ。
割腹自殺という選択肢は、決して単なる武士道精神や伝統への憧れから来たものではない。
むしろ、それは彼の鍛え抜かれた身体を通じて「美の完成」を体現しようという意志の表れであった。
自決の直前まで、徹底したトレーニングで腹筋を鍛え上げたのは、美しい肉体の中に宿る美しい死を描き出すためであり、それこそが三島にとって究極の美だったのだ。
さらに、介錯者に首を落とさせることによってその「死」を他者に「見せる」行為が行われる。
この行為は、彼が「見る」ことと同時に「見られる」ことへの強い意識を抱いていたことを鮮明に浮き彫りにする。
生まれたきた時を見て、自らの鍛え抜いた腹筋に刃を差し込みながら死ぬ時を見ることへの狂的な情念が自己の死を儀式化し、その儀式を他者の視線を通じて完成させようとしたのだ。
こうした行動の背後には、三島が一貫して追求してきた「生と死」「美と醜」「仮面と真実」といったテーマが複雑に絡み合っているのだ。
このように、『仮面の告白』の冒頭と三島由紀夫の自決の行動は、彼が生涯を通じて追い求めた「美と生の本質を見極める」という思想に深く根ざしている。
そして、この思想が形を変え最終的には彼自身の死という形で具現化されるのだ。

虚弱な軍国少年というコンプレックス

三島由紀夫が幼少期に病弱であったこと、そして特に第二次世界大戦中に徴兵を逃れたことが、彼の人生観や行動に深い影響を与えたという解釈はすでに広く知られている。
戦時中、健康を理由に徴兵を免れたことは、彼の内面に「男らしさ」や「戦うこと」への執着を芽生えさせるとともに、同世代や戦友への劣等感を醸成した。
その劣等感は、彼の文学、思想、そして最終的な死へと続く道を形作ったのだ。
三島は、戦後の日本社会において「戦わずして生き延びてしまった者」としての自己を深い恥の念とともに抱いていたに違いない。
彼の作品に登場する人物たちがしばしば「死」を通じて存在の価値を証明しようとするのは、まさにそのためである。
戦場で果たせなかった自らの「死」を何らかの形で償うべきだと感じたのであり、失われた武士道精神への憧れがその死の概念をさらに強化した。

平岡公威

また、彼が用いた筆名「三島由紀夫」は、平岡公威という本名を背負いながらも、それを否定し新たなる自我を創造せんとする試みの一環であったと考えられる。
三島由紀夫という名は、まさに過去の自己、すなわち戦争で死ぬことができなかった「平岡公威」からの脱却を象徴するものであり、どれほど名を変え努力を重ねても、その過去の影は決して完全には消し去ることはできなかった。
三島の死を「平岡公威の否定」として捉える解釈では、彼の割腹自殺は単なる政治的行動や美学的な実験ではなく、むしろ自我そのものの拒絶であったと言える。
彼にとって「平岡公威」は戦場に行けなかった弱者であり、戦後の平和な社会に適応しながらもいっこうに満たされぬ存在であった。
割腹という選び方は、まさに古武士のように美しい死を体現することによって、かつて果たせなかった戦士としての生を、象徴的に取り戻す行為であったと解釈できよう。
そして、介錯によって命を絶たれる儀式性は、三島自身が「三島由紀夫」としての美的完成を遂げると同時に、「平岡公威」という人間的側面を切り捨てる行為であったのかもしれない。
この儀式的行為は、彼が追い求めた「完全なる自己」を最も劇的な方法で具現化するものであり、平岡公威という過去を背負ったままでは、決して到達し得なかった美の極致であったと言えよう。
その自決を通じて三島は、幼少期の劣等感、戦時中の挫折、そして平和な時代への違和感が積み重なった果てに、最終的に自己否定を通じて救済を求めたのである。
これを通じて見ると、三島由紀夫の割腹自殺は、過去の「平岡公威」との訣別を象徴し、その死をもって追い求めた「完全なる自己」を具現化しようとする、極めて矛盾に満ちた壮絶な選択であったと言えよう。

2024年11月25日、三島由紀夫の命日に寄せて

今日、三島由紀夫がこの世を去ってから54年の歳月が流れた。
あの日、剣と刃によって自らの思想と美を最終的に体現しようとしたその行為は、未だに日本文学史のみならず、我々の精神史に深い刻印を残している。

三島由紀夫とは、一体何であったのか?
その問いは、私にとって三島美学という見地において未だ解答を拒む。
彼は言葉の偉大なる職人であり、肉体を磨き抜いた美の信奉者であり、そして時に国家や伝統をも取り込もうとする思想家であった。
彼の存在は矛盾に満ち、それゆえに限りなく人間的でありながらも同時に我々の理解を超越する存在でもあった。

「言葉の死とともに人は死ぬ」と彼が述べたその通り、三島の言葉は今もなお生きている。
それらの言葉は、読む者の心に鮮烈な閃光を走らせ、時には深い疑問を投げかけ、またある時には不穏な静けさをもたらす。
彼の小説、戯曲、評論のすべてが、我々に人間の矛盾、儚さ、そして美を問いかけ続ける。

2024年のこの日に、我々は改めてその声に耳を傾けよう。
三島が残した言葉、行動、そしてその生と死――これらは私たちに、時代を超えた問いを突きつけている。
それは決して単なる過去の亡霊ではなく、今もなお我々を照らし挑み続ける生きた存在だ。

三島由紀夫、その名を記憶するすべての人々にとって、この日は思索と沈思の一日である。
彼の残した遺産に敬意を払い今一度その声に応えるべく、私たちは自らの在り方を見つめ直さねばならない。

三島の命日に、静かなる祈りとともに。

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