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【人生最期の食事を求めて】骨の髄まで吸い尽くす鯛の誘惑。

2024年9月21日(土)
福魚食堂(福岡県福岡市中央区)

地下鉄「赤坂」駅を降りて外に出た。
早朝の空は今にも雨が降り出してもおかしくはない雲行きで、さらに季節を度外視した蒸し暑さが体全体をすぐさま覆った。

8時30分を過ぎていた。
日常において朝食を食べることはないのだが、この地はその日常を容易く破壊する。
私の足は、過去に幾度か訪れた市場会館へと向かっていた。
近づくほどに潮の香りが近づき漂い始める。
となればなるほど、私の空腹は潮風に刺激され、遍満する海に合わせて膨れ上がるばかりだった。

市場会館
福魚食度

市場会館に到着すると思いのほか客の姿を目にした。
振り返ると、この施設を初めて訪れたのはコロナ真っ盛りの頃であった。
当時はどこを歩こうと人の気配は少なく、マスクも手放せなかった。
それが今や人の気配を感じただけで心がざわついてしまうとは。

市場会館1階の飲食店が集うフロアにも人の気配が漂っていた。
その通路の奥に白い看板を見出した。
そして白い壁には本日の日替り定食を告げるホワイトボードが掲げられている。
この店を訪れるごとに、100円刻みで値上がりしていることに直視ししながら入っていった。

客の姿のない店内のいつも座るテーブル席を確保した。
南アジア人と思われる男性スタッフも以前と変わりなかった。
「いらっしゃいませ」
明瞭な日本語でお茶の入ったコップをテーブルに置いた。
迷いなく「鯛のあら炊き定食(刺身付)」(1,000円)を口走った。

鯛のあら炊き定食(刺身付)(1,000円)

すると、客が次々と入ってきた。
皆それぞれ異なるメニューを注文していた。
それぞれの定食は、市場の中に位置する店の鮮度の高さを証明している。
と思うと私の心はどこか騒然として、他の客の注文したメニューをそれぞれ俯瞰したくなる欲求に駆られてしまった。
それを打ち消すように鯛のあら炊き定食が運ばれてきた。
一瞬しっかりと煮付けされた鯛に魅了され、箸を握るとすぐさま身をほぐして掻い摘んだ。
野太い骨を掻き分けてしっかりと煮付けられ、柔らかくほぐれる身だけを吸い尽くす。
その余韻を追いかけてご飯を頬張る。
そこで胡麻鯖が横槍を入れると鯛の存在感はすぐさま希薄になりながらも、再び鯛の身を頬張ると押し黙ったまま骨を吸い尽くす。
それを繰り返していると、入口付近から大きな声が聞こえてきた。
食を止めて一瞥すると、どうやら市場で働く人のようだ。
店のスタッフに向かって一言で注文を終えると、今日の魚はどうだこうだと解説していた。
市場という名の現場の臨場感は、働く者の姿によって演出されるのだ。

気がつくと皿の上には骨の存在が大きくなり、残りの身を吸い尽くすのは時間の問題だった。

久方ぶりに満足と充実に満ちた朝食。
完食後の印象はそれに尽きた。
さっぱりとしながらも鯛の味を壊さない味付けは健在だった。
食の宝庫と言われる所以は、別段ラーメンやもつ鍋だけではない。
地元の暮らしに根づいた味つけや朴訥とした風情、そこから滲み出る雰囲気に依拠するものなのだ。
残りのお茶をすすりながら、深々とそう思った。

南アジア人と思われる男性スタッフに現金を渡して外に出た。
雨が降るのか、降らないのか?
私は、すかさず汗が全身から滲みはじめるのを感じながら、判然としない空模様の下をただ闇雲に歩き始めるのだった。……

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