【人生最期の食事を求めて】蕎麦のダイナミズムを体感。
2023年5月31日(水)
「そば処大番テレビ塔本店」(北海道札幌市)
連日の飲酒と2023年3度目の痛風発作に、気怠げな鈍痛に見舞われていた。
食欲がないと言えば嘘になる。
尿酸値を下げる薬を飲み続けているにも関わらず、今回の発作は予期せぬ失態にしか思えない。
さらに、痛み止めの薬を飲み、水を多めに飲むように心がけてはいるが、いかんせん痛風発作は奇襲攻撃のようなものだ。
13時を過ぎていた。
紺青の空が果てしなく広がり、時折強く吹く風が肌を冷淡に掠めてゆく。
半袖になるにはまだ少し早いが、降り注ぐ日差しは花々や木々の色を生き生きと染める。
この季節の札幌は、最も美しく魅力に満ちた街に違いない。
札幌の中心に鎮座するように配された大通公園は、仕事を放棄したであろう会社員やお土産袋を手にした中学生の姿が散見された。
ベンチに腰掛けて足を休めせていると、不意にそばを欲する自分に気づいた。
この場所から「そば処大番」は程近い。
札幌テレビ塔地下にあるその店は、日々行列を作る人気店ではあるが、個人的見解として名店とは言い難たい。
そばと言えば、山形や長野が圧倒的なマインドシェアがあるように、
札幌ならばラーメンになるはずだ。
だが、この店の凡庸ながらもボリュームのあるそばは、不思議と反復する癖をもたらすのだ。
その中でも、冷やしたぬきそば(650円)は代表的なメニューで、この季節になると言わずもがな選んでしまう代物である。
珍しく券売機の前に行列はなかった。
と言ってもほぼ満席の中で1席だけ空席を見つけた。
高さのあるカウンターに食券を置き、スタッフがそれをすかさず受け取る。
奥の厨房で大量の麺を茹でている。
一気に茹でる量は圧巻で、タイミングが合えば1分もかからないうちにそばが目の間に現れるのだが、この日はタイミングが悪く、そばの到来が10分以上かかるという珍事に見舞われた。
細長く伸びるカウンター席には多様な客が寡黙に啜っていた。
どの客も、もちろんこの店のボリュームを予め知悉していての来店のようだ。
カウンター越しから現れたそれは、以前と不動の姿を現した。
丼の中心に置かれた生卵、それを優しく包む石灰色の麺、脇に配置された刻みきゅうりと天かす。
どれもが以前と変わらない。
小皿の刻みねぎとわさびを投入し、生卵を砕き、好みに応じて一味をふりかけ、装いに彩りを添える。そしてつゆをゆっくりと投じ麺を持ち上げ、引き締まった麺を一息に啜る。
特段そこには絶品はない。
別段そこには感動はない。
それは、凡庸なそばに過ぎないのだ。
そこに佇むものは、初めて食した冷やしたぬきそばがもたらす記憶だった。
ポケットから小銭を握り出してこの店に向かい、行列に耐え、ボリュームのある蕎麦を啜った記憶。
その存在はまさに救済だった。
それから二十余年が過ぎていた。
今この時も、今だにこの店の冷したぬきそばを食べている自らの姿が不思議でならない。
けれど、きっと最期の食事としては選ばないであろう。
そばを啜る度毎に蘇るあの頃。
現実に打ちひしがれては立ち向かい、仕事に苦戦しながらも夢が満潮から引き潮になるように揺らぎ、遠のいていくのを引き寄せようと努めていた日々の断片。
あの頃のような体力や熱量はすでにない。
忘れていた何かを引き込むように、諦めていた何かを吸い寄せるように、ひたすら寡黙に麺を啜り続けるのだった。
14時が近づこうとしていた。
この時間でも新しい行列が生まれていた。
ひたすら啜り続ける客の背中に投げかける行列の客の視線を避けるように、
そして過去の記憶から再び遠ざかるように、右足を引き摺りながら、店を背にするのだった…
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