【人生最期の食事を求めて】“知足”と“最後の晩餐”、そして“中庸”という新たな試み。
240529_彩屋札幌駅前店(北海道札幌市中央区)
2024年5月29日(水)
彩屋札幌駅前店(北海道札幌市中央区)
しばしば痛風発作に襲われる者にとって、血液検査は拷問であると当時に救済でもある。
その結果は、人生最期の食事を求めるなどできないほどにまで急激な悪化を辿っていた。
著名人の訃報を耳にする度毎に、まるであと何回桜を見られるのだろうと同じように、あと何食を食べられるのだろうという不安と諦念を真剣かつ冷静に考えることがある。
あらためて自分の人生を振り返ると、私は飲酒の習慣は根付いていたものの、食事に関してはつい最近まで1日3食という習慣はなかった。
それは長年に渡って自分自身に根づいた習性のようなものだ。
ところが、やはり一般常識的には1日3食こそ健康のバロメーターであるらしい。
それに則るように極力3食を食べるように努力した結果が無惨な数値を生み出したとなると、私は以前にように1日に1食か2食に戻すほかあるまい。
私は自己の原点を幾度となく辿る。
曹洞宗の開祖者道元の禅に根ざした“知足”という生活哲学。
新約聖書の「マルコによる福音書」の中で描かれるイエス・キリストの“最後の晩餐”。
その教義と伝承こそ、私の【人生最期の食事を求めて】という食哲学を生んだと言っても過言ではない。
まずは、自宅での飲酒を完全撤廃し、1日1食か2食に戻した。
すると以前と同様に良好な体調に推移し、アルコールの強烈な欲求と誘惑もない日々が続いた。
といっても、極端な禁欲主義は反動をもたらす。
そして教条主義に陥らないようにするために、“知足”と“最後の晩餐”に“中庸”という新たな教義を加えた。
夕刻の空は雲を宿していて、強い風に煽られた雲が裂けたかと思うと、そこから一条の日差しがまるでパイプオルガンの光沢のような輝きを放っていた。
その空を見上げて、私はAirPodsProを耳に当て、バッハのオルガン曲に聴き入った。
学生の頃に聴き込んだ盲目のオルガン奏者ヘルムート・ヴァルヒャの演奏は私を夢の心地へ運びとともに、ろくに仕事もせず金欠にうなされながら読書と音楽ばかりにのめり込んだ時代の記憶を蘇らせた。
札幌駅付近に聳えるビルの地下の店に辿り着いた。
ひと気がないのも無理はない。
オフィス街でもあるこの辺りで16時30分から飲める店は少ないが、飲める人も少ないのであろう。
外観からは想像がつかないほど奥が深い店内の個室に案内された。
この店は個室しかないのだろうか?
そんな疑問が脳裡によぎるものの、私はビールをあえて封印し、麦焼酎の水割りを注文することにした。
もちろん久方ぶりの酒としてビールを選択したいという欲求はあった。
が、私は意思で回避することに努めた。
食事に関して言えば、“知足”という教義を緩めながらも「冷奴」(499円)で様子を見つつ、「炙りしめ鯖」(799円)、「まぐろの刺身」(999円)、「サーモンの刺身」(899円)、そして「まるごとロメインレタスのシーザーサラダ」(1,399円)を注文した。
ここまで身体の健康に気を使うようになることに我ながら感心しながら、ロメインサラダがもたらす苦々しい味わいと歯切れ感を楽しみ、身が溶けるような炙りしめ鯖、まぐろとサーモンの刺身とともに、ひたすら麦焼酎を供にするのだった。
仄かにアルコールに気持ちがほぐれると、久方ぶりの肉への誘惑が高まった。
ところが肉料理は欠品が多いことを知らされ、「ラムチョップのグリル」(2,399円)に落ち着いた。
骨付きのそれはどこか豪華な雰囲気を纏って訪れた。
脂身の少ない肉の切身が麦焼酎の相俟って、“知足”を緩めた私の体の中で踊るようだ。
そうして今夜の“最後の晩餐”として選んだのは、「大判和牛ブリスケ寿司」(2,099円)である。
ご飯類は、自宅には炊飯器もなければ当然にして米もない者にとっては外食でも久方ぶりだ。
ウェルダンで焼くように女性スタッフに要請した。
目の前で強烈なバナーによってブリスケットの赤身は見る見る褐色に焼き焦がれ、身を縮め、あるいは悶えた。
葱と山わさびを丁寧に載せて食べると、ラムチョップとは相反して濃厚とも言えるブリスケットの脂は口内で溢れこぼれた。
当然にして久方ぶりのご飯も肉と戯れて踊り狂いながら、口内から消えていくことを繰り返した。
気がつくと、店内のそれぞれの個室は客でほぼ埋まり、あちらこちらから声が溢れ出ていた。
そして、女性スタッフが現れると
「そろそろお時間ですが……」
この夜、私はこれまでの“知足”と“最後の晩餐”という【人生最期の食事を求めて】という食哲学に、“中庸”という実験を施したことに自分なりの成功と幾許かの希望と可能性を見出しながら、その背中を押すように女性スタッフに見送られるのだった。……
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