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【美の源流を辿る試み】広隆寺〜弥勒菩薩半跏思惟像(京都府)

優美と安寧、そして静謐の極み。

[沈思する美の極点]

この像を前にすると、私はしばし息を飲み、ただひたすら立ち尽くす。……
京都、右京の地に、悠久の歳月を超えて屹立する古刹、広隆寺の弥勒菩薩像である。
それは、単なる歴史の残滓ではない。
日本という国が荒涼たる原始の風景から文化国家へと歩みを進める途上で、精神の基軸として築き上げた聖域である。
推古天皇11年(603年)、聖徳太子の勅願により、この寺は創建されたと伝えられる。
しかし、この伝承が指し示すものは、単なる一つの宗教施設の成立ではない。
それは、仏教が日本の思想を浸潤し、異国の文明がこの国の精神を形作っていった瞬間であった。
建立を担ったのは秦河勝ーー大陸の血を引く豪族であり、広隆寺はまさしく、東アジア世界の文化の奔流の中で生まれたのである。
そして、この寺に安置される弥勒菩薩半跏思惟像は、国宝第1号にしてまさしく仏教彫刻の極点と評すべき存在であるとともに、1,300年の時を超えてなお、沈黙のうちに思索を続けている。
この類稀な像は、日本の工匠の手になるものか、それとも百済の仏師が異国より持ち込んだものか?
議論は尽きないが、確かなのは、この像の様式が朝鮮半島の三国時代――百済、新羅、高句麗――の仏教彫刻と深く響き合っているという事実である。

[沈思する菩薩ーー未来を見つめる眼差し]

片足をもう一方の膝に乗せ、頬に指を添え、静かに沈思する姿。
何ものをも語らず、ただ己の内なる思索に耽るその姿態には、人間が到達しうる精神の最も高貴なる境地が表現されている。
これは、単なる美の表出ではない。
これは、弥勒菩薩の姿である。
未来の世に衆生を救済するという大願を胸に抱きつつ、しかしいまだ沈黙を貫く存在ーー時間の外に立ち、永遠に思索を続ける者の姿である。
その頬に触れた指先の微細な震え、その眉間に宿る仄かな影、それは、悟りに至らんとする者の最後の苦悩を思わせる。

[時代の相剋――飛鳥の夢と異国の影]

この像が生まれたのは、飛鳥時代の日本は、まだ一つの国としての輪郭を確立していなかった。
大陸と半島の文化が怒涛のごとく押し寄せ、未分化な精神の中で渦を巻いていた時代である。
その奔流のただ中で、聖徳太子をはじめとする知識人たちは、仏教を信仰の枠を超えた思想の基盤として受容しようと試みた。
そして、その精神的結晶が、この広隆寺の半跏思惟像に他ならない。
だが、忘れてはならぬのは、この像が単に仏教彫刻として優れているからこそ、今もなお崇敬されているのではないということだ。
この像が特異なのは、その形態に、人間という存在が持つ根源的な問いーー「思索するとは何か」「未来を見つめるとは何か」ーーが具象化されているからである。

[永遠の問いを前に]

広隆寺の薄暗い堂内に足を踏み入れたとき、まず眼前に広がるのは、深遠なる静寂である。
そこに、ただひとつ、半跏思惟像が沈黙のまま佇んでいる。
仏とは何か。
思索とは何か。
そして、人間が未来を見つめるとは、いかなる行為なのか。
この像は何も語らない。
ただ、頬に指を当て、沈黙のうちに思索し続けるのみである。
しかし、その姿を見つめる者は、やがて気づくだろう。
この仏が見つめているのは、未来ではなく、現在なのだと。

[知識人たちを魅了したもの]

思索するとは何か。
その問いに対する、一つの象徴的な答えがこの像の姿である。
人間が内省するとき、その表情は沈み、指先は頬に触れる。
この普遍的な動作が、千年以上も前に、すでに完璧なる形で具象化されていたことの驚異。
弥勒菩薩像を「人間実存の最高の姿を表したもの」と評したドイツの哲学者カール・ヤスパースも、また、思索の形を求め続けた人物であった。
彼は「枢軸時代」を提唱し、人類が紀元前800年から紀元前200年の間に、一斉に哲学的覚醒を遂げたことを指摘した。
ソクラテス、ブッダ、孔子ーーそれは人類史における思索の黎明であり、この半跏思惟像が体現するものと同じ根源的衝動の現れである。
ヤスパースの「限界状況」「超越者」といった概念は、この像の内に秘められた静謐な力と響き合うことは疑う余地がない。
日本の知識人もまた、この像に魅了されてきた。
岡倉天心は、この像を通じて日本美術の独自性を見出そうとした。
和辻哲郎は、『古寺巡礼』のなかでその「静かなる哲学」を称えた。
彼らは、この像の前で何を考えたのか。
それはおそらく、「思索することの本質とは何か」という問いであったろう。
われわれが生きるこの世界は、日々の雑事に流されるあまり、思索の時間を奪っていく。
しかし、1,300年の沈黙をもって佇むこの像は、そんな現代人に向かって「おまえは考えているか?」と問いかけるのだ。

カール・ヤスパース(1883〜1969)

[永遠の思索へ――半跏思惟像の示すもの]

美は儚い。
時とともに崩れ、風化し、忘れ去られる。
しかし、この像の美は、時間の支配を受けぬ。
なぜなら、それが単なる造形美ではなく、人間の精神そのものを刻み込んだからである。
広隆寺の半跏思惟像の前に立つとき、人は思索へと誘われる。
それは知の探求であり、また自己の存在を問う行為でもある。
夜明け前の京都、薄明かりの中で、この像が沈黙のうちに佇んでいる光景を想像してみることを、私は推奨する。
その瞳の奥に、われわれの未来が映し出されてはいないか?
おそらく、この像はすでに知っているのだ。
我々がどこへ行くのかを。
そして、それを語ることなく、ただ静かに思索し続けるのである。

広隆寺〜弥勒菩薩半跏思惟像

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